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日蓮大聖人・池田大作

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キリスト教と東洋  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  ユイグ たいへんに興味深い問題であり、また本質的な問題だと思います。これは、その基本的な二元性にもかかわらず東洋と西洋との交流の問題です。私は、この二元性は、きわめて現実的なもので、これが二つの文明圏によって二つの極――といっても敵対するのではなく補充しあう極ですが――をつくっていると私は考えています。そして、ここにも、生命に働く本来的なものといえる、対抗するもののあいだに生ずる緊張が当てはまるのがわかります。そして内面的生命もやはり、この対立なしにはありえないのです。
 ある有機的組織体が構成されると、それは自らを確定し、自分を表現し、いわばその主要な自分の特性を強く打ち出して特殊化しようとします。そして、そのために、全体の調和を破るような偏向性を与えてしまうのです。事実、ヨーロッパはこの現実的・物質的・技術的な生活の面を重んじたのに対し、東洋は、それと反対に精神的な関心を優先させようとしてきました。
 そういうわけで、世界の思想の歴史において、東洋と西洋の交渉は決定的な位置を占めており、この問題に対する興味から、私は数年間、コレージュ・ド・フランスでこれについて講義をしたのです。
 キリスト教発祥の地の問題は、まちがいなく重要性をもっています。キリスト教は地中海世界の東岸で生まれました。ということは、商業上の必要からシルク・ロードのような道路がアジアの平原を通って到達するところであったということです。
3  池田 あなたが指摘されているように、キリスト教が誕生した地中海東岸は、アジアと西洋世界を結ぶ大動脈であったシルク・ロードの端に当たっており、東洋からの影響をうけた可能性があるということは、私も大いにありうることだと考えています。
 そのころ、シルク・ロードの中間点であり、インドから北上した線が交わる中央アジアにおいては、大乗仏教が栄えていました。しかも、ここから西は、古代ペルシャ帝国の文明が栄えた舞台で、大乗仏教の舞台と地中海岸とのあいだは、今日考えられるほど広漠たる文化的・政治的・経済的空白地帯で隔てられていたのではなく、ペルシャ帝国の交通網が、かなり緊密にこの両者を結んでいたと考えられます。
 もちろん、そこには砂漠地帯が広がっており、その通行がいかに難渋をきわめたかは、アレクサンダー大王の征服の記録からも知られるところですが、それにしても、当時は、ペルシャの偉大な文明世界があって、大乗仏教の栄えた土地は、その文明圏の東端に近く、キリスト教は、その文明圏の西端で誕生したのですから、両者のあいだの交流は、今日想像される以上に容易であったと思うのです。
4  仏教とキリスト教の両方について知っている人は、両者のあいだにいくつか似かよっている点があるのに、しばしば驚いています。たとえば、キリストが生まれたのは馬小屋であったとされていますが、釈迦牟尼の場合も、母のマヤ夫人が散歩中に急に産気づいて馬小屋に入って、そこで出産したといわれています。
 また、キリストが山上で、さまざまに脅したり誘惑しようとする魔をくだす場面が聖書にありますが、仏教でも、釈迦牟尼が悟りを得るにあたって魔が脅迫や誘惑を試みたという話が伝えられています。
 しかし、そうした細かいエピソード的な面での類似や共通性は、それほど重要ではありません。大事な点は、仏教のいわゆる“慈悲”と、キリスト教の“愛”とのあいだの共通性です。
5  仏教の経典の中に、慈悲ということをめぐって、こんな話が述べられています。それは仏が、苦悩に沈んでいる人をとくに慈しむということから、ある弟子が、仏はあらゆる衆生を平等に慈愛するのが当然であるのに、どうして、苦しんでいる人をとくに慈しむのかと質問します。それに対して「七人の子をもつ父親がいるとする。父親は七人が平等にかわいいが、その中で一人が病気をすれば、その病気の子をとくにかわいがるのではないか」と仏は答えます。
 これと同じ原理を述べた話がキリスト教にもありますね。それは、有名な放蕩息子の話です。
 あなたは、こうしたキリスト教の生まれた土壌として、とくに仏教と限定することをしないで、広く東洋の精神的なものへの志向性をあげられました。しかし、東洋とひとくちにいっても、その中には、きわめて物質的で合理主義的な思想の伝統もあります。中国やインドには、おそらく後世、西洋の科学技術の遠い起源となったものが、古い昔にすでにかなりの成果を収めていました。
6  また、その反対に、きわめて精神的な伝統がありますが、その多くは超俗的、厭世的で高度に神秘主義的なものです。そこには、現実社会の人びとに慈悲や愛を施すべきであるといった考え方はありません。その現実否定の哲学からいって、そのような思想は出てくるはずがないのです。
 私が思うのに、一方で高度に精神的な実在との合一をめざしながら、他方で現実の世界の人びとに対して慈悲を施すべきことを教えたものは、東洋においても、きわめて限られており、仏教、その中でも大乗仏教、さらにいえば、法華経の教えが、その最も典型的な例です。そして、当時の東洋の諸思想、諸宗教の中で布教的精神をもっていたほとんど唯一のものが大乗仏教であったことを考えるとき、これが西方になんらかの影響を及ぼしたと想像するのは、きわめて自然ではないかと思われるのです。
7  しかし、もちろん、私は、そうした関係があったと主張できる根拠をもっているわけではありません。また、二千年も前の出来事がどうであったかを論議しても、現代にとっては、それほど意味があるわけでないこともわきまえているつもりです。
 ただ、現代の人類がいま必要としているものが、二千年前の世界において、東洋と西洋であいついで多くの人びとによって受け入れられていった、精神面での歴史的ドラマを思い起こすことによって、現代の世界の蘇生が一日も早く、そして正しい方向へなされんことを期待するのみです。
8  ユイグ キリスト教がローマの現実的考え方への行き過ぎに対して効果的な反応をすることができたのは、一部分は、それとは反対の極であるオリエントと恐らくは結びついたことによってでした。アレクサンダーがインドに到達しようと夢みたのにならって、ローマがイランに立ち向かったのは、この地中海東部を通してでした。しかし、西紀前五世紀にすでに、プラトンの思想は東洋から届いたこだまをうけとめていたように思われるふしがあります。これは、それから八世紀後のネオ・プラトン主義においてもっとはっきりしてきます。プロティノスは、すでに神秘的な魅力をおびていたこの東洋の思想を代表する人びとに接しうることを期待して、ペルシャ人討伐に向かう軍隊に随行したということが知られています。
9  私はさきほど、すでに退廃の道をたどっていたローマにおいて、神秘的宗教が入っていたことを暗示しましたが、それらは、解毒剤の役割を果たす東洋世界の反映も伝えていたのです。私たちの文明の特徴を示すたくさんの要素が、恐らく、ヨーロッパの中世のあいだも、十字軍によって行われたイスラム世界との接触からきていることがますます明らかになってきています。辿っていくと、このイスラムから、さらには、ペルシャやインドにまで広がります。
 近世になってからも、やはり同じような交流がありますが、方向は逆で、西洋が東洋へと返し波のように押し寄せるようになり、植民地主義につづいて、工業と技術の文明の異常な伝播があらわれます。この工業と技術の文明が、地球のあらゆる地域を汚し、すでに述べたように憂慮すべき結果を招いているのです。
 まさに、ヨーロッパの極端に物質主義的な行き方によって生じた力が、いまや、交代の法則による結果を受け継いで、これに対する反動を待望させているのであり、またあなた方がなさっている、古い源から一つの蘇生の波を起こす努力に対し、かくも大きな関心を払わせているのです。

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