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日蓮大聖人・池田大作

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人間の超克  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  したがって、彼は、自己の神秘的飛躍において――もちろんそれはすべての信者が達することのできるものではなく、最もすぐれた選ばれた人にのみ可能な飛躍なのですが――仏教に見いだされる捨棄の概念へと向かっているのです。彼自身、最後にいっていることは、この闇を通り過ぎなければならないということです。それは、われわれの方法とわれわれ自身であるところのものを否定することと理解すべきなのです。そして私たちがもっているあまりにも安易な光を捨てたあとにくるこの“闇”を通過して初めて、もう一つ別の新しい光に到達するのです。この光は人間の目のために創られたのではなく、そこで人は神の啓示に出合うのです。
3  結局、世界のあちこちで信仰されている宗教がなんであれ、その宗教には、神秘家でなければ到達できない頂点があります。そこでは各種の宗教間の違いはほとんど消えてしまい、えもいわれぬ感覚がそこにかわるのです。キリスト教の神秘家は、自分がイスラム教の神秘家とあまり違わないことを認めることができます。私はヨーロッパで最も神秘的な修道会であるカルメル会などの修道士から、それに関する証言を聞いたことがあります。カルメル会で重要な位置を占めていたある修道士は、イスラム世界の神秘家の考え方やあるいは仏教の最も高い思想を、ほんとうに造作なく理解できるといっていました。教義や儀式の境界を超えて、神へ心を向けた人びとのあいだには、慰め力づける合致点があります。私が仏教に興味をいだいてから約四十年になりますが、仏教は、その最も純粋なかたちをとるときに、とくに、あなたがなさるように、法華経に照合するときに、人間の超克へ導く最もきびしい、と同時に最も単純な道を開いてくれるように私には思われます。
4  池田 第三の段階の宗教は、人間のためにこうした出口を開いたものであって、これは、いまだなにかによって破られもしなければ、時代、文明の推移によって不要になってもいないと考えています。それが提示したものは、人間にとって永遠の課題であり、人間が人間であるかぎり、つねに取り組んでいかなければならない目標がそこにあると思います。現代人は、そこから目をそむけ、回避しているだけです。
 原始宗教や古代宗教、あるいは、それらの残滓が支配している社会に、第三の高度な宗教が広められていったときは、それが志向しているものの斬新さは歴然たるものがあったにちがいありません。それは、第三の宗教を信仰し広めようとしている人びとにとってのみではなく、古い宗教の権威によっている人びとの目にも明瞭だったはずです。それゆえにこそ、その布教に対して、激しい迫害が起こったのではないでしょうか。
5  現代の私たちは、そうした新旧の宗教のきびしい対決から無関係のところにいます。現代人は宗教的信仰そのものを失っているため、信仰している宗教の相違にこだわること自体にさえ、一種の奇異の感をいだきます。そしてそれを文化の未発達のゆえの野蛮性のあらわれとして、片づけようとします。
 その半面、現代人は無意識のうちに、原始宗教や古代宗教の思考法に身をゆだねてしまっています。たしかに、それは、かつての時代のように単純なかたちではありません。たとえば、直接的、具体的な自然の事物や現象に関わったり、具体的な祭祀という形式をとることも少なくなっています。しかし、自然界の事物や現象を観察して得た科学的知識やその体系、さらにそれを応用して生み出した技術の発展に自らの幸福を実現してくれる根本的な鍵があると信じているのは、まさに、原始宗教の一つの変形といっても過言ではありません。
6  もっとはっきりしているのは、人間の集団力を崇拝する古代宗教の復活です。これは、故トインビー博士も指摘されていたことですが、近代のナショナリズムは、その端的なあらわれです。人間は、さまざまな段階の集団を形成し、その集団に象徴的意味を付し、人びとの忠誠心をかきたてようとします。これは近代以前にも行われてきましたし、ナショナリズムが崩壊したのちにも行われていくことでしょう。しかし、これまでのところ、ナショナリズムほど、集団力信仰の典型的な表現はないように思われます。
 原始宗教も、古代宗教も、人間の本性と、人間の生命がおかれているこの現実状況というものから、必然的に生まれてきたものであると思います。原始宗教が前提としている自然と人間との関係は、どのように文明が発達しても、消滅することはありません。文明は人間に及んでくる自然の力の干渉に対して、これを和らげるクッションになります。しかし、どんなにこのクッションが厚く大きくなっても、自然の力は、人間にまで到達します。
 そればかりでなく、巨大な自然の力は、文明のクッションに包まれた人間を、クッションもろとも一瞬にして葬り去ることさえできるのです。
7  しかも、この自然の仕組みの複雑微妙さは、どんなに科学が発達し、人間がその英知を駆使して解明しても、なおかつ、完全に解明しきれるものではありません。ニュートンがいったように、人間の知恵は、真理の大海を前に、浜辺で貝がらを拾って調べている子供のようなものなのです。ニュートンの時代に比べて、科学ははるかに進歩しましたが、この進歩につれてわかったことは、どんなことでしょう。
 もちろん、浜辺から沖合へと、人間は船をつくって乗り出したことにたとえられるような大きな進歩を実現しました。だが、沖合へ出れば出るほど、この海がさらに大きく広がっていること、想像もしなかったさまざまな生き物がそこにはおり、そして、ひとたびこの海が荒れると、それは、浜辺に打ち寄せる波のような規模とはまったく比較にならない巨大な力であるということ――これが、今日までの科学の進歩にともなって、ますます明らかになってきている真実ではないでしょうか。
8  そうした人知を超えた自然の広大さと力に対して、宗教的な謙虚さをもつことは、人間性の自然であるとともに、人間にとって必要なことであり、しかも尊いことであると私は思います。これは、原始宗教においては呪術が、その変形である自然科学においては理性がもっているような、それによって自然の力を自由に支配できるという人間の思いあがりとはまったく異質のものです。
 また、人間集団が、個人では考えられない大きな力を発揮することも、どのような時代にもかわらない真理でしょう。人間は、ただ生存を確保するためにも、また文化を生み出し、高度な精神的機能を発現していける状況を確保するためにも、集団力によらないではいられません。集団を大事にし、これを守っていくことは、自らの生命を守るためにも、人間的尊厳を実現するためにも、人びとの幸せのためにも、必要欠くべからざることでありましょう。
9  しかし、集団力への敬意、集団力への信頼は、個としての人間の生命を保障し、その尊厳を確保し増大していくためであって、個人のそうした権利や尊厳性を犠牲にするような、集団力への過度の信仰は否定され排除されるべきです。
 この原始宗教的思考、古代宗教的思考を、人間性に本然のものであり、かつ、人間にとって不可欠のものでもあるとするならば、それが人間性を抑圧し損傷するのでなく、人間性を育む方向へ生かしながら用いていくことが大切です。
 このために必要となるのが、人間に自己自身といかに対決させ、正しい自己の発現をいかに遂行せしめていくかということです。
 三つに大別される宗教の中で、第三こそ実は、この自己との対決、自己の啓発を志向したものでした。すでに述べたように、この第三の宗教が出現したとき、それ以前に強力な支配体系を樹立していた第一、第二の宗教とのあいだに、激しい軋轢が起きました。それは、第一、第二の宗教が、人間性の発現と向上のために寄与するというその本来の役目から離れ、あるいは、副次的な意義しかもたなくなっていて、第一、第二のこれらの宗教によって権威を得、権力を独占している人びとの野心の具となっていたためです。
10  第三の宗教も、それが現実社会の中に流布し、社会の権力体系と結びつくにつれて、人間性の向上と発現の土壌であった本来の役目は見失われていきました。現代の人びとの大部分の心をとらえている、宗教に対する不信は、この第三の宗教さえもおちいった歪曲のゆえであるといって過言ではないでしょう。
 キリスト教が究極の存在を“法”と説くよりも“人”としての特質をそなえた神として説いたのは、あくまでも象徴的な意味であったと私も思います。しかし、大多数のキリスト教徒にとって、神は人格的存在であったことは否定できませんし、その人格的な神の概念が、神に愛され恩寵をほしいままにする人と、恩寵から見放された人びととの差別を生じたことも否定できない事実であると思います。
 仏教においても、法華経のような経典には人格としての仏でなく、法を信仰の根本とすべきであると説かれていますが、それ以外の経典を拠りどころにした各宗派では、仏という人格的存在を具体的な信仰の対象として、儀式が形成されてきています。そして、この考え方は、仏教の流布したアジアの国ぐににおいて、ヨーロッパと同じく、人間を差別する思考を一般化してきたのでした。
11  法華経は、究極の実在を“法”として説きました。あなたもいわれているように、それは深遠なものであり、私たち凡夫の知性ではとらえることのできない不可思議な法であるという意味で「妙法」と名づけられています。“妙”とは、思議・思考の及ばない、という意味なのです。私は、トインビー博士と話し合ったとき、博士も、あらゆる現象の奥に、そうした思議しがたい存在があることを予測されていることを知りました。そして、あなたもいわれるように、キリスト教やイスラム教でも、非常に優れた人びとは共通して、そのような実在の覚知に、多少なりとも到達していると思います。
 そして、このような究極的な法に直結していくところに、現象世界に縛られた欲望と利己的な自我を超越し、かえって、それを支配していく強力な源泉があると私は確信します。その意味で、第三の宗教は、その本質的なものに人びとが目を向けていくならば、永遠に尽きることのない、精神の豊かで強靭な土壌となると考えています。私が生涯の使命として仏教の思想を現代の世界に広めることを決意しているのも、このためです。

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