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日蓮大聖人・池田大作

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宗教と人間の位置  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  池田 先史時代というのは、あるがままの自然の生産力に依存する度合いが非常に大きかった時代といえます。そのため、獲物が豊富であり、人びとが幸福な生活を営むことができるためには、自然の恩恵にたよる以外になかったわけです。
 先史時代の人びとにとっては、自然界の事物や自然現象が、恩恵を与えてくれたり、きびしい罰を下してくる“神”と考えられたのでしょう。いわゆる自然信仰の段階です。
 つぎに農業時代に入りますと、種々の技術やその組織化が、豊かさや安穏な生活の第一の条件になります。もちろん、自然への依存度も無視できない比重を占めていますが、狩猟や採集が唯一の生活の支えであった時代にくらべると、その比重はずっと減っています。
 とくに、あなたも指摘されているように、農業文明のほんとうの発展は、大帝国の出現と合致しております。私は、これは、農業のために必要な潅漑・治水がそうした政治的統合体を要請したこととともに、逆に、農業のもたらした食糧はじめ物資の余剰が、こうした特権階級の出現を可能にしたためであると考えています。
3  このような巨大な統一体は、自らの存在を維持するために、先の時代から人びとの心の中に生きつづけてきた神の権威を利用しようとします。日本でいえば、天皇家の祖先は、おそらく太陽神であろうと考えられている天照大神であり、天皇は神の直系の子孫であるということから、近代ナショナリズムの高揚期には、天皇は神そのものであるとさえ、されたことがありました。
 時代の相違はあっても、いわゆる皇帝等の統治者の絶対的権力が求められた社会にあっては、洋の東西を問わず、こうした類似の現象があったと思われます。そして、そのことは、かなり普遍的な人間精神の一つの発展段階としてこの現象が位置づけられうることを物語っているのではないでしょうか。
 しかし、当然、このような権威主義の宗教は、個人としての人間を強く圧迫せずにはおきません。仏教、キリスト教といった高等宗教が、こうした大帝国の周辺にあった被抑圧民族の中から出現したのは、このことと関連しているのではないかと私は考えます。
4  仏教、キリスト教、そしてたぶんイスラム教も、そのめざしたところは、究極的な実在を立て、これに個人を直結させることによって、個人の尊厳性を樹立することにあったといってよいでしょう。
 第二段階の農業時代の宗教が、個人を取り巻く集団またはその集団を統括する権力を神化したのに対し、この第三段階の宗教は個人の神聖化に究極の目標があったといえるでしょう。だが、歴史は、その後も、集団の神聖化を繰り返し、これらの高等宗教も、ほとんどの場合、そのための手段として使われてきました。
 たしかに、人間が生きるために、組織化された集団の力は、今も欠かすことのできない条件です。集団の神聖化は、現在も、おそらく未来も、消えることのない危険性でありましょう。しかし、集団力が個人としての人間にとって、なににもまして恐るべき存在になりうることが、今日ほど明確に、強く意識されるようになったことは、かつてありません。
 その意味で、一方には極端な個人主義に走る人びともいますが、全体的には、集団の必要性を認めながらも、個人の内面的根源からの確立を可能にする思想や宗教の必要性が模索される時代になってきているといえます。
5  私は、現代文明の危機の一つの要因は、個人と集団との関係において、これまで集団力が圧倒的優位を占めているがゆえに安定を保っていたのが、個人を尊厳とする考え方が高まってきて、この両者の比重が等しくなってきたため、一種の不安定状態になってきたことから生じているともいえるように思います。
 しかし、これは本質的な意味では危機ではありません。むしろ、望ましい状態です。ただ、この両者の均衡が安定を保てるよう、つまり、どちらかが一方的に優勢になるというようなことがないよう、つねに人びとを健全に導いていくような考え方、精神的安定を実現するものでなくてはならないと思います。
 それには、個人の神聖化を明確にした高等宗教の、かつての歪曲されたやり方でなく、その本来の精神を開花させた普及が、大きい役割を演じうると考えます。
6  ユイグ ヨーロッパでは、キリスト教がこの役割を果たし、個人と集団のあいだにあるべき均衡を強固なものにしてきました。キリスト教の支配力が弱まってから、そのバランスも乱れているのです。十九世紀は個人崇拝の傾向をもっており、ときにそれが高まると、最高の法とさえみなしました。自己中心主義とか、バレス(フランスの小説家で政治家)の“自己の礼拝”といったことばが、それをよくあらわしています。
 それとは反対に二十世紀は、集団的規律のもとに個人を踏みくだく恐れがあります。それを代表しているのが、独裁制やテクノクラシーあるいは共産主義に与している政治体制です。しかし、宗教の進展は、集団に対する人間の位置を変えるだけではありません。それは自然とその謎に対する人間の位置をも変えます。
7  原始宗教は、人間がまだ自分を守る方法も外的世界を利用する方法も知らなかった文明の段階に対応しています。人間は脅かされており、自分の力や意志だけでなく、自分を超えてしかも自分をつつみこんでいる力に依存していることを知っています。当然のことですが、人間はこの力に不可解な神秘的な性格を与え、自分の肉体的可能性を超える力を生み出そうとしてこれに対応します。ここに呪術の起源があります。呪術によって、人間は、あらゆる儀式を創り出し、それによって自分を超える力に自分を結びつけ、それらの力を自分であやつっているように思うのです。この儀式は、のちの宗教の中にも生き残ります。ここには経験に頼る行き方、認識できないものや不可解なものに対する信仰が存在します。これは、最も理解するのが困難な宗教です。
8  古代の宗教では、おっしゃるとおり別の段階に入ります。パンテオンを有するギリシャがそのいい例です。人間は自分の力がしだいに大きくなるのをみます。そして場合によっては神々と対等になります。だからこそ、人間は神々に人間的性格を与えたのだと私は思います。ただし、あくまで人間より肉体的、道徳的に強大です。神々は永遠性と、より強い力をもった一種のスーパーマンですが、人間に似ているということから、人間は神々が考えたり感じたり人間と同じように生きていると想像します。その結果、不可解な神の性格というのは消えてしまいます。このような段階は、まったく文明の到来に対応するもので、この文明は農業を発展させながら、ますます自然の力を意識するようになり、また、その自然と結びついて、いまや、そこから基本的な資源を引き出す方法を知るようになります。そこには、もちろん中間的な段階があるわけです。
9  しかし、その役割を完全に果たすほんとうの宗教は、私は確信しているのですが、おっしゃるように、現象的なものへではなく反対に超越的絶対へと向かう宗教だけだと思います。この新しい段階は、人間がやりとげなければならない超克への自覚と対応しています。この自覚は人間にその最も本質的な使命を示しますが、その使命とは、これ以前の段階では存在しなかった責任感をもって、宇宙の進歩に協力することです。人間は、“創造”を遍歴し、それを物質から精神へと導きながらしだいに完成させていくこの巨大な努力の最先端にいるのです。
 仏教とキリスト教は、この段階にあります。この仏教とキリスト教を比較して論ずる前に、私の宗教上の立場を明らかにしておかなければならないという気がします。このどちらにも私はとくについていないことを申し上げなければなりません。
10  なぜなら、私は当然キリスト教徒の家庭に生まれましたけれども、私の考え方はキリスト教の教義にとらわれてはいないからです。しかも、子供のころ受けた教育は宗教教育ではありませんでしたから、その結果、神聖感情や宗教的感情は、私にとっては、精神性への感情といったものと一つになっています。それは、研究と個人的経験の結果であって、ルイスブリュック・ラドミラブルとかサン・ジャン・ド・ラ・クロアといった神秘家の書を耽読して得たもので、いかなる教義の遵守をも義務として負っていません。
 ですから、なるほど祖先はカトリックですし、結婚によってプロテスタンティズムも知っていますが、私はキリスト教の名前でお答えする資格はないと思っています。
11  仏教については、私は非常に早くから哲学的関心はいだいていました。私がそれに接したのは、シュリ・オーロビンド(インドの哲学者・神秘主義運動家)や、ヴィヴェカーナンダ(インドの宗教改革者)の註解を通じてで、私は丹念に研究しました。今から四十年以上も前のことです。
 ですから、私がお答えできることは、あくまで個人的な立場においてであって、私の視点は、かりにそれがキリスト教思想による影響を、たぶん、より深く受けているにしても、一つの試論にすぎません。
 キリスト教とその神の擬人化の概念については、いくつかの点を明らかにしておくことが重要です。宗教は、異なったさまざまな段階で説明を加えなければならない象徴を用います。たんなることばの意味の段階もあれば、さらに深い意味の段階もあります。たとえばキリスト教では、聖霊と父なる神とを区別し、さらに“父”と人間との仲介者としての“子”の概念を導入して、神の実在の中には、人間の精神にとって不可解なものがあり、それがこれらの異なった段階であらわれることを強調しています。人間と神の中間に位置する“子”の降臨は、私たちの理解を超える絶対への意識のしるしではないでしょうか。
12  しかし、たしかに、もっと別の意味があります。“子”がこの世にあらわれて、人間に対する愛から、人間の苦しみを苦しみ、また神に対する人間の愛を訴えるという事実は、私たちの情念に対する訴えです。愛とは無私であり、私たちのエゴよりも、われわれならざるもののほうを好むことであり、したがって人間においては、人間に、自分自身を超克させ、その欲望や自分自身への愛着を乗り越える道へ導く本質的な動機といえます。したがって、そこにも一つの象徴があります。私はキリスト教を擬人化したかたちにおいてのみ説明してはならないと思います。この擬人化は深い意味をもっているのですから。

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