Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宗教の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
10  前項でも述べたことですが、仏教は、この人間が自らの完成のために従うべき対象を、純粋に法として示しました。この点は、キリスト教が、たとえ象徴的な意味からにせよ、人格的な神として示し、原始・古代的宗教の伝統を、その中心的な部分に受け継ぎ、残しているのと異なっています。もとより、仏教が法を根本とするのは、それ以前に、インドではウパニシャッド哲学が発達し、その道をすでに準備していたこともあげられます。
 しかし、ともあれ、キリスト教は人格的な神を立てることによって、そして、その人格的な神への服従を教えることによって、個々の人間自身の尊厳性を不十分なものにしています。それに対し、法を究極的な存在とする仏教の考え方は、個々の人間の尊厳性を完璧なものにすることができます。なぜなら、法はすべてのもの、すべての人びとの内にも平等に存在することが可能であるがゆえに、万人が平等に尊厳であることが可能であるからです。

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