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日蓮大聖人・池田大作

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宗教の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  宗教の諸段階
 池田 この対話の初めに、私たちは、文明が経てきた三つの段階を区別しました。すなわち、一つは先史時代で、なによりも狩猟の時代でした。つぎが農業の時代で、最後が工業の時代です。このそれぞれは、その漸進的な発展を示しながら、宗教の一つの段階に対応していたのです。
 人間が生み出してきたあらゆる宗教を大別すると、私は三種に分けられると思います。
 一つは原始宗教であり、自然界の事物や現象に、神的、霊的なものを認め、それを崇め、その恩恵にすがろうとするものです。
 二つは古代宗教であり、原始宗教の延長あるいは変形でありながら、人間の集団力あるいはその集約である権力を崇拝するものです。
 第三は、いわゆる高等宗教です。これは自然や社会集団といった現象次元の事物の神聖視を否定し、超越的絶対者を崇拝することを教えます。この絶対的存在を人格的なものととらえたのがキリスト教であるのに対し、仏教は非人格的な法としてとらえました。仏教の仏陀とは、この法を覚知した人をいいます。
2  こうした宗教の大別の仕方は、人間の文明の起源を全体的に分けるうえで意味深いものがあります。なぜなら、すべての文化的活動それ自体、本源的には宗教に根をもっていると私は信ずるからです。
 それは人間の文明が、どのような淵源から流れ出し発展して今日にいたっているかを知るうえで意味をもってくるといえましょう。また逆に、いわゆる文明の発達によって、宗教は権威を縮小され、あるいは否定されてきましたが、たとえば自然科学の発達によって否定されている宗教とは、どのような宗教なのかを、これによって知ることができます。
 宗教といっても、種々の宗教があり、科学の発達とともに宗教は無用のものとなったといっても、全ての宗教が無用になったわけではありません。もし、全ての宗教を否定するならば、私たちは、人間の直観がつかみ、明らかにし、伝えてきた精神的な貴重な遺産、偉大な光を見失ってしまうことになるでしょう。それは、ちょうど、古くなった家といっしょにその中にある金や宝石も捨ててしまうようなものです。
3  私が思うのに、原始宗教は、主として自然界の事物や事象に目を向けていました。日本民族に例をとっていえば、日本神道の主神とされるのは天照大神です。天空を照らすというその名前は、明らかに太陽について想定された神であることを示しています。
 本来、空にあって燃えている球である太陽を天照大神として擬人化したのは、太陽が光と熱とによって万物の生命を育み、また人間の生活を、肉体的にも精神的にも支えてくれているという恩恵の面を象徴化して、恵みぶかい女神としたのです。
 この擬人化によって、それに語りかけ、祈ることが、その恩恵を増すための有効な手段となります。あるとき、女神がおもしろくないことがあって、洞穴の中に隠れてしまった。そこで、他の神々が集まって、穴の前で愉快な踊りや歌で騒ぎます。それが、あまりにも楽しそうだったので女神が洞穴から顔を出し、そこで力の強い一人の神が女神の手をとって引っぱりだしたので、この世界に光が戻ったという話が日本の神話の中にあります。
 これは、おそらく日食をあらわすものと考えられていますが、神そのものが、さまざまな感情の起伏と好奇心をもった、人間的な存在として描かれていることがよくわかります。
4  日本の原始宗教は、それ自体が自然科学に結びついていくような発展はしませんでしたが、バビロニアの場合は、星に対する崇敬と、星座と人間の運命との関係をたどる占星術が、星の精密な観察を必要とし、その知識は天文学へと結びついていったわけです。
 私は、自然界の事象を関心の対象にしながらも、それを、擬人的に象徴化したところでは演劇、文学、芸術が発達していったのに対し、位置関係や周期性といった数学的処理を要する面に神秘的な力を認めた人びとにおいては、自然科学の生まれる土壌が用意されたといえるように思います。
 この後者が発達して、自然界の事象を理性でとらえ、その成果を応用して技術が発達し、自然のもつ巨大な力が、かなり自由に利用できるようになったのが、現代の科学技術文明であるといえましょう。つまり、自然科学とそれによる技術の文明は、原始宗教と同じ自然界の事象をその対象とします。したがって科学の分野が拡大すれば、原始宗教の分野はそれだけ縮小されるわけで、ここに原始宗教が、科学の発達と科学的思考の普及とともに、その舞台を狭められてきた理由があります。
5  一方、古代宗教は、原始宗教の神を引き継いでいますが、そこに異なった意味をもたせています。先の日本の天照大神の例でいえば、日本の天皇は、この天照大神の子孫であるとされます。すなわち、天皇を天照大神の子孫とすることによって、天皇の神格化、その権威の絶対化を図ったわけです。このことは、天皇への宗教的服従を中核にした支配体制の確立を意味します。
 もちろん、日本の場合、中国から法制を取り入れることによって、国家としての機構が整えられましたが、その底流に、神とつながった天皇への宗教的服従があり、日本民族としての集団を強固にする絆となっていたのです。
 こうしたやり方は、どこの国でも認められるところであると思います。フランスの場合、イギリスの侵略を排除して、今日のフランス国家の基盤を確立するのに功のあったジャンヌ・ダルクは、神のことばを聞いて祖国のために立ち上がったとされています。
 国家をはじめ、人間の集団は、今も、宗教に結びついた起源や、神の特別の恩寵がその存続の過程に働いたと強調することによって、成員の帰服と忠誠を得るための手段としている面が、多少なりともあります。
6  ユイグ この点でも現代文明はまったく混乱していますが、それは、なかんずく科学の成果を取り入れることによって、このような事態になっているのではないでしょうか?
7  池田 現代の国家機構は非常に複雑になっており、その運営には、合理的・科学的な手段が必要であり、この合理的・科学的思考が社会科学を生み出しました。そして、社会科学は、かつての神話のもっていた象徴の意味を合理的に分析し、その神秘のベールをはぎとろうとしています。
 このようにして、自然の事象を対象とした分野では、自然科学の発達によって、原始的諸宗教が、その生きた信仰としての力を大幅に失い、人間の集団や人間関係を対象とした分野では、社会科学の発達によって、古代的宗教が衰退を余儀なくされているわけです。
 もちろん、原始的諸宗教がもっていた力も、古代的宗教のもっていたものも、科学の発達によって、すべて無用になってしまったわけではありません。人間の心の中には、かつての宗教が与えてくれる安心感を求める気持ちが今も根強く残っていますし、自然界の現実も、人間社会の現実も、合理的思考だけではとらえつくせない広大さと深さをもっているからです。
8  私たち人間は、同じ人間の死を、単純に一人の人間が戸籍簿から消滅しただけであるとして片づけることはできません。その遺体をただ焼いたり地中に埋めて処理するのみですませることもできないでしょう。そこに、なんらかの宗教による儀式を行います。伝統的な宗教を否定したとしても、それに代わるなにかを求めずにはいられないものです。
 死には、合理的思考だけではとらえきれないものがあるからであり、また、人間の心の中に、そうしたときになにかの宗教的儀式を執り行うことによって初めて安心を覚えるような心理的メカニズムがあるからでしょう。
 それにもかかわらず、原始宗教や古代宗教は、その主たる舞台を、自然科学や社会科学に明け渡しています。根本的には、もはや、その活躍する舞台はなくなっているといっても過言ではないでしょう。私は、近代以後の科学の発達にともなって宗教がその立場を失ったというのは、こういうことであると思います。
9  キリスト教や仏教といった第三の宗教も、さまざまな説明の中に、原始宗教や古代宗教の思考法や、その当時認められていた知識を取り入れて用いていました。第三の宗教が基本的に目を向けたものは、まったく別の次元にあったのですが、具体的な説明や比喩のためには、当時の人びとがもっていた既存の知識や考え方を用いたのです。それらの知識や思考法が科学の発達によって正当性を否定されたとしても、基本的にめざしたものが否定されたわけではまったくありません。
 たとえば、キリスト教が人間は天地創造の六日目に神によって創られたといっていることが、生物進化論によって否定されたからといって、人間の尊厳性を強調したキリスト教の基本的教えは無用になってはいません。仏教でも、世界の説明として、お盆の上に盛りあげられたケーキのようなかたちをしていると説きました。しかし、それは、当時のインド人に一般的に信じられていた世界観を用いたにすぎず、そのような世界の姿を教えること自体を、仏教の目的としたのではありません。仏教の主目的は、人間の生命の因果の法を示し、未来の生をよりよい条件のもとに始めるために、現在の人生をよりよく生きることを教え、さらに、究極的な人間完成の道へ導くことにあったのです。
10  前項でも述べたことですが、仏教は、この人間が自らの完成のために従うべき対象を、純粋に法として示しました。この点は、キリスト教が、たとえ象徴的な意味からにせよ、人格的な神として示し、原始・古代的宗教の伝統を、その中心的な部分に受け継ぎ、残しているのと異なっています。もとより、仏教が法を根本とするのは、それ以前に、インドではウパニシャッド哲学が発達し、その道をすでに準備していたこともあげられます。
 しかし、ともあれ、キリスト教は人格的な神を立てることによって、そして、その人格的な神への服従を教えることによって、個々の人間自身の尊厳性を不十分なものにしています。それに対し、法を究極的な存在とする仏教の考え方は、個々の人間の尊厳性を完璧なものにすることができます。なぜなら、法はすべてのもの、すべての人びとの内にも平等に存在することが可能であるがゆえに、万人が平等に尊厳であることが可能であるからです。

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