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日蓮大聖人・池田大作

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仏法の教える超克の段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  仏法の教える超克の段階
 池田 生命がしだいに進化の道をたどり、その“価値”を増大する能力によってついに自己認識にまでいたることをあらわす原理として、すでに述べましたように、仏法には九識論があります。
 繰り返すようですが、整理していいますと、まず、眼、耳、鼻、舌、身の感覚器官をそれぞれつかさどっている五つの識と、それらを統括している第六識があります。第六識は、器官では大脳にその場をもっているものですが、ごく一般的な意識とされます。
 このさらに深いところに思量識しりょうしき(サンスクリットではマナ識)と呼ばれる第七の識があります。これは、自己に対して働く場合は、第六識がたんなる自我意識であるのに対し、自己認識というべきものとなります。
2  さらに掘り下げると、第八の識があります。これは、サンスクリットではアラヤ識と呼ばれ、アラヤとは蔵を意味します。過去のいっさいのカルマが集積され、自己を形成する源となっているところなので、蔵の識と名づけられたのです。そこに働く自己認識は、したがって、過去からの時間的ひろがりをもっており、深層の自我への達観ともいえます。
 さらにその奥に、宇宙の生命と一体になっている、最も深層の自己を覚知し認識できる識があるとします。この第九の識を、サンスクリットではアマラ識といいます。アマラとは、根本的に清浄な、という意味で、業による汚れをうけないことをあらわしています。
 一般的に、人間の優れた特質を支えるものとされる自己認識の能力は、この考え方では、ようやく第七の識にすぎません。仏教はさらに第八、第九の識へ進むべきことを教えているわけですが、あなたは、この九識論について、どのようにお考えになりますか。
3  ユイグ 九識論は、近代心理学の立てている概念と合致しています。さらにそれを超えているともいえるでしょう。なぜなら、この理論は精神的生命への道を開いているからです。私は、これを西洋的な概念――あるいは少なくとも、私の思考になじむことばに“翻訳”してみたいと思います。
 まず、感覚は、すなわち情報器官です。仏法の教えはこれを列挙して視覚のための眼、聴覚のための耳、嗅覚のための鼻、味覚のための舌、さらに身体は、より限られた意味では触覚に相当しています。
 自分自身を意識する第六番目の識をあげていることは重要なことです。それは近代心理学が体感と呼ぶ有機的自己意識ということができるでしょう。この体感(ce’nesthe’sie)はギリシャ語の“koinos”すなわち“commun(共通)”からきており、私たちの肉体的存在が私たちに伝える感覚の全体を意味します。人は、ただ存在することを感じます。第七識、すなわち思考の意識はやはり自己意識ですが、心理的段階のそれで、私たちのことばでは、その名称によって感情と区別することができます。この意識において私たちは、私たちの自我および複雑な感情の存在を実感するわけです。第八識は記憶をともなっており、時間における過去や継続性の次元が加わってきます。仏教にとっては、私たちの過去世、未来世をとおして追跡される運命である業は、この継続を保証しているわけです。
4  こうして、意識は、たんにその現在性においてだけではなく、その責任性のつながりにおいて考察されます。そしてこの意識は私たち個人個人の人生の思い出を超えて、それが、そこから生じ、その重荷を担っている過去への継続性に結びついています。ヨーロッパの科学も、私たちの自我がそれより先行するものとつながっているとしますが、それは因子の伝達によって立証されている遺伝によってです。そして、この先行者つまり先祖の行為の結果として、さまざまな行動様式や、さらには欠陥が私たちに伝えられるというのです。
 しかし、もし過去が私たちを規制するならば、こんどは逆に私たちが未来を規制するということを忘れてはなりません。業は、私たちをただ“存在しているもの”、“存在したもの”として決定づけているのではありません。業は、私たちが遂行されたもの、実現されたものから未来へと向かっていくことを教えています。これは、一つの方向を含んでおり、私たちの現在の生活は、それから離れるか、または近づくかです。ここにおいても、私たち一人ひとりのはかない生涯は、この生涯を超えて継続するものに結びつけられなければならないのです。
5  第九識はさらに深い、単一の自我と無限の宇宙とが出合うところへと向かいます。ここで第九識は私たちの限界と私たちの根底に到達します。このことは私たちの対談でしばしば繰り返されたことですが、私たちの自己認識、肉体的・心理的認識も、また現在の認識と記憶された認識も超えて、私たちは、自身の最も深い限界において、地球的、さらには宇宙的存在の広がりに到達するという私の信念と合致しています。私たちはこの究極の存在から小枝のように分かれているのです。事実、木の場合、個々の枝は幹につながっているではありませんか。この幹にあたるのが遺伝であり、幹はまた、その根によって根源である大地から樹液を吸いあげて生きているのです。
6  私たちは全体の一部をなしており、同時にそこから分かれている存在です。分かれたものとして、自分の自我を思考したり感じたりする、あらゆるかたちの意識をもっています。しかし、全体性において宇宙に結びついたものとしては、私たちは自分の運命を超えるある運命に近づくことができます。私たちは、この運命の原子でしかなく、この運命が私たちを導くのです。この深みにある意識すなわちこの世界の私たちの内なる“存在”は、私たちの感覚が認識しようとすると、私たちの前に存在することをやめてしまいますが、ずっと普遍的な冒険において魅力的な役を演じているのだという感情を私たちに与えてくれます。そしてそこで私たちは自分の個々の運命を超えて自分が結びついている進化の感覚をくみとり、そこにおそらく自分の基本的な意味を見いだすことができるのです。
7  大切なことは、あなたがおっしゃるように、人間は、私が経験的意識と呼ぶ意識、つまり自分に課せられただけの受け身の意識でとどまってはならないということです。ところが普通は、そこで満足しているのです。人間は自我という核を取り巻いているこの個人という“大気圏”を通り抜ける努力をしなければなりません。ここを通過してこそ、人間は、この第九識に到達するのでしょう。この第九識は、人間を超えていくものであるとともに、また人間をこの“全体”に結びつけます。この“全体”にあっては、人間はその部分的かつ一時的な小片でしかないのです。
 この第九識は、仏教が第八識と呼ぶものと密接に結びついています。というのは両方とも、時間の流れをつつみこんでおりますが、第八識は過去へ向かっているのに対し、第九識は、宇宙が目標として向かって歩んでいる未来の創造的行動に私たちを結びつけます。そして、これが、結局、時間の流れを通じて私たちが追求しなければならない質の増大なのです。
8  池田 第八識が過去へ向かっているのに対して、第九識は宇宙が目標としてそれに向かって歩んでいる未来の創造的行動にわれわれを結びつけるとのあなたの解釈は、仏教の九識論をきわめて的確にとらえられたものであると思います。
 第九識こそ、生命の肉体的、精神的なあらゆる働きが生じた根源であり、創造力の源泉なのです。
 私たちの現実の存在は、過去の行為の結果として形成されています。たとえば、現在の瞬間にとらえられる肉体的特質は、この世に生まれてから今日にいたる成長と活動の結果をそこに反映しています。
9  しかし、生まれてから以後の全行為だけではないことは、生まれたときにすでに一人ひとりが違った特質をもっていることから明らかです。
 この先天的形質は一般に遺伝という生物学的法則によって、両親から受け継ぐと考えられています。たしかに、この世代間の類似と共通性は認められますし、それがいかなるメカニズムによるかも、受精、出産の仕組みの解明によって説明できます。しかし、それだけでは説明しつくせないものが残ります。同じ両親のあいだに生まれる子が、なぜ異なっているのか、遺伝的に説明はできても、では、どうして異なった遺伝子を取り入れたのかという問題が残るわけです。
 それを仏教は、一人ひとりに過去の人生があって、その行為の集積の結果、すなわち業が先天的資質の個人差をつくりだしていると教えるのです。この場合、遺伝のメカニズムはどのような意味をもつのでしょうか。それは、業の結果が肉体的特質として自らをあらわすための素材を提供する過程であるということになります。
10  この関係は、肉体的側面のみでなく、精神的資質の面においても同様です。肉体と精神の両面にわたって、私たちは過去の業の結果を現在に受けて生まれ、さらに生まれて以来のあらゆる行為によって自分というものをつくってきたのです。これから先も同じことです。
 さらに、この生涯の途上で出合う事件についても、この人生で行ったことが原因となってその結果としてぶつかる場合もあれば、過去の人生にすでに原因をつくっていて、その結果としてぶつかる事件である場合もあるとされます。たとえば、交通信号を無視したことが原因で事故にあう場合もあれば、十分に注意し信号に従っていたのに事故にあうこともあります。現在の人生の中にその原因がなくて結果のみがある場合も、原因がどこにもないのではなく、過去の人生にその原因があるというのです。
11  こうした、あらゆる原因となる要素を蓄積し包含しているところが第八識であり、その意味で、自己を形成する働きの根源であり、また、人生の軌跡の“いわばプログラム”がそこにあるわけでもあります。しかし、人間は、同時に、かなり幅の広い自由性をもちうるという可能性も、このプログラムの中に組み込まれているわけです。
 そして、この自由性を活用して、さまざまな定められた運命と戦い、その支配に抵抗しながら、より大きな自由の獲得のために努力していくのです。それは、ちょうど専制支配下にあって、限られた言論、表現の自由を活用しつつ、より大きい政治的自由を勝ち取っていこうとするのに似ています。
 しかし、既定の体制や仕組みの枠だけに限られているのであったならば、得られる自由も狭いものでしかありません。ちょうど、ジャン=ジャック・ルソーが原初の自然状態を想起するところから、社会のあるべき姿をとらえなおしたように、生命を、無数の因果の絆で縛られた第八識の枠を破って、原初の生命の実相を基盤に、根源的な変革の方途を示したのが、九識論を説いた仏法の教えなのです。
12  ユイグ こうして、あなたが力をこめて示されたように、仏教は、生命とともに私たちに与えられた“事実”の状態を示し、そこから、私たちが自分の固有の、責任ある行動を引き出すことを教えています。そこには、一方では、私たちにとって外在的な因果律によっている、時間の流れの中での継続があり、これはしたがって、私たちの決定論の部分を形成しています。しかし、他方では、もう一つ別の時間の中での連続性があって、これは私たちの責任性を約束しており、したがって、私たちの自由性の余白はこれに属しているわけですね。
13  池田 時間性と、人間生命の発展段階に関する仏教の考え方を示す例を、もう一つあげましょう。それは、前にもとりあげた“十界”の理論ですが、これが先に申し上げた九識論と結びついているのです。
 この十界の理論は人間の生命があらわす変化を十の範疇に分けたもので、その名称は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏です。
 九識論との関係でいえば、第九識を顕現している生命の状態が仏界です。菩薩は、第九識には到達していませんが、第八識までを顕現している状態と考えられます。声聞と縁覚とは、第七識までをあらわして働かせている状態です。天・人以下においては第六識が中心で、第七識は稀に顕現するだけといった状態です。いいかえれば、天・人以下は、本能的欲望の追求に終始している生命の状態といってよいでしょう。
14  これを、もう少し詳細に述べますと、地獄から修羅までは、本能的な欲望が満たされないために苦しみを味わっている状態です。地獄は、あらゆる欲求、生存欲さえも抑圧され、しかも束縛されている苦しみの極致をいいます。餓鬼は、満たされない欲望にさいなまれている状態、畜生は、目先の欲望を追うあまり、自らをしだいに苦悩へ追い込んでいく状態です。修羅は、自己顕示欲にとらわれた状態で、一時的には喜びを得ることもありますが、自分より優れた者、自分より幸せな者に会うと、激しい苦しみにおちいります。
 人と天とは、一応、本能的な欲望が満たされた状態で、人は平穏、天は歓喜をその特色とします。しかし、こうした欲望の充足は一時的なもので、崩れやすく、したがって、天・人以下、地獄にいたる六つは、苦悩か、あるいは幸福といっても絶えず移ろう無常の幸福の様相を示しています。
15  これらに対して、感覚的、本能的な欲望の追求に終始するのではなく、永遠的な真理を悟ることによって、恒常的な幸福を確立しようとするのが、声聞以上の四つです。
 声聞とは「声を聞く」という意味で、先に悟りを得ている人の教えを学び、それに習うことによって、真理を得ようとし、また、そこに喜びを感じていく生命の状態です。
 縁覚とは、自ら自然の中に身をおき、自然界の万物が語りかける教えから直接に真理を得ようとし、また、そこに喜びを感じていく生命の状態をいいます。
 菩薩とは、結局、永遠的な真理が、あらゆる人びとや生命的存在に対してそれを慈しむ愛――慈悲――にあることを知り、その慈悲を実践することによって自らの生命の内におのずとあらわれてくるとして、これを実行する人、また、そうした生命の状態をいいます。
 そして仏とは、先にも述べましたように、最も深い自己認識に達した人をいいますが、それは、究極的な真理を自らの内に確立している人あるいは、そうした生命の状態をいうのです。
 この十界論は、生命についての仏法の哲学的教えの重要な一つですが、ここから、あなたは、どのように感じられるでしょうか。また、この教えが、一般的に現代の人類に対して及ぼしうる教訓について、どのようにお考えになりますか。
16  ユイグ 九識論を補充するこの“十界”論について明確に述べていただいたことを感謝します。この理論に使われている言語とその特殊な意味を通じて、私自身が確信していることと合致する普遍的な一本のラインを暗示する漸進の思想があると確信します。というのは、私はそうした上昇は、人間にとって本性として求められている不可欠の行程だと思っているからです。
 人間は、あなたが最も初歩的なものとして示されたように、肉体の本性と結びついた、また本能に従う最も低いところから出発します。そこでは、食欲や官能を満足させようとします。それから瞑想をとおして開花する内的意識の充実状態に到達します。人間はこの状態を――このことはとても重要なことですが――自分自身でないもの、そして愛に基盤をおいているものへと飛躍しながら、さらに完全なものにしていきます。私たちはヨーロッパでよくするように、意識を物事の“理解”ということに限定してしまうことはできません。この理解は愛によって裏打ちされなければなりません。そして愛こそはたぶん、人間が自分を取り巻いているものだけに心を向けることをやめて、私たちを超えるものに向かうときにその超克を可能にする道でしょう。
17  最高の意識とは、私たちを宇宙の本質的で普遍的な法則に結びつける意識であるといえます。これこそ、あらゆる進んだ宗教において、神秘家が「神ととけ合う」ために到達しようと努める状態です。あなたが仏の状態とおっしゃるのは、この深遠な実在の一つの説明の仕方であると思います。あなたは、この非常に深い真実を特定の教義を通して特殊なかたちで提示されたわけです。
 ですから、このような教義を教えることは、私には、人間をより劣った意識からよりすぐれた意識へと絶えず上っていくように促しながら、自分自身の完成へと導いていくための最も価値ある方法だと思います。
 歴史上知られているほとんどの宗教は、本質的なものを掘り起こしたこの綿密な検討にはいたっていません。

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