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日蓮大聖人・池田大作

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仏教による生活価値  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  ユイグ まず牧口会長の説かれた価値の意味を正確にとらえてみたいと思います。“美”と“善”はヨーロッパで使われていることば“beau”と“bien”に相当していると思いますが、“利”すなわち“profit”ということばは誤解される恐れがあります。仏教を求めるフランス人は、このことばを聞いて驚くことがよくあるそうです。私はむしろ“accroissement(生長)”といったことばがいいのではないかと考えます。このことばは生命が要求する発展という意味を含んでいます。なぜなら生命は維持するだけにはとどまらず、発展することを要求するものです。“利profit”ということばはフランス語ではほとんどの場合、金銭と結びついているのですが、この“生長”ということばならば、儲け、すなわち物質欲を念頭に浮かべることもありません。
3  この条件を前提として、牧口会長の三つの価値について考えてみますと、第一の価値は、生命の営みにとって基本的に必要なものということができるでしょう。これは目的というより出発点にあたるもので、厳密にいって、私にとっては“価値”とはいえません。というのは、これ自体は質の探求ということを含んではおらず、生命は、その感覚のすべてを生きることにささげるために、そこに結びつけられているのです。“生長”は、いわゆるヨーロッパ哲学が、“生存を維持する意志”と呼んでいるものにだいたい相当すると思います。
4  すべての生き物にあっては、その生物的基礎からくる、自分の存在を維持しようとする抵抗しがたい衝動、すなわち外部にあってその維持を確保するものすべてを――たとえば呼吸する空気や摂取する食物のようなもの――独占しようとする衝動が働きます。しかし、“生長”が含むのはそれだけではなく、やはり生命の営みに欠くことのできない発展という概念を加える必要があります。これもまた、ただ生命の持続を長引かせようとする本能だけでなく、進歩を遂げようとする本能に従っている生命の働きと分かちがたいものなのです。また、この衝動はわれわれの肉体的存在だけでなく精神的、感覚的、知的な能力に関わっているもので、この意味においては、第一の価値は、価値のリストにあげられるのではないかと考えます。
5  繰り返していえば、厳密な意味では価値とはいえないのですが、ほんとうの価値を追求するための本来の出発点を与えるわけです。それは、ほんとうの価値を準備するものであって価値そのものを構成するのではありません。それにもかかわらず、人間の進歩のプログラムにとって必要欠くべからざるものです。
 ですから、第一の価値が生命の営みを確保するものとしますと、それは他の二つの深い価値、すなわち“美”と“善”の役に立つときに初めて価値があるといえます。この二つの価値こそ本質的な敷居を越えさせてくれるもので、そこを越えたところに、量を超越して質を獲得し探求しようとする精神的生活が始まるのです。
6  人間は、その生命を十分に働かせようと願うならば、ただ、肉体的に成長して生き残ることだけにその活動を限定することはできないことを感じています。人間の中には、もっと遠くへ行きたい、自分が現在あるものを越えてさらに進みたいという強い欲求があり、そしてわれわれの一人ひとりが自分の価値の度合いを構成して、それに自分の存在をささげます。もちろん価値の定義や選択において人間は間違いをおかすこともありえますが、彼はその選択したものの衝撃に従います。そのため、罪をおかした人は、たとえ間違った価値のシステムによってであっても、自分自身を正当化しようとするのです。この自己の正当化は、とりもなおさず、彼は本能に譲歩するために、自分の中にわきおこり、別のもの、すなわち価値の尺度にもとづいた行動の理由を要求する声を押しつぶさざるをえなかったことの証拠です。
7  この価値の段階を上っていくことを可能にする道が、二つあります。それが“善”と“美”で、“善”は質に対する私たちの直観に合致した行為・行動に関するものです。それは努力によって獲得されるもので、絶えまない向上を要求します。“善”ということばが言語の中にこれほど深く根を下ろしていなかったならば、「よりよいもの」ということばに置き換えたいと思うくらいです。事実、獲得された結果をただ大事に守っている道徳というのは、不毛です。それはただある規律を抽象的に実施するだけになるでしょう。
8  そこには努力や進歩というものがなければなりません。“美”は、この質の追求をあらわしていますが、それは行為の中にではなく、作品の中に追求されます。倫理学から美学への移行です。作家が書き、哲学者が考え、芸術家が建てたり、彫刻したり、描いたり、作曲したりするとき、彼らはつねに自分自身の中にあるもので最も価値があると判断するものを作品の中に投入し、さらには、それを実現することによって、たんに現実化だけでなく完成化するのです。また同じく芸術家にとっては、インスピレーションは、彼が自分の内にもっているものの保証ですが、それだけでは満足できません。彼は、それを利用して自分を超えていくのです。
9  さらに申し上げなければならないのは、これら三つの概念は、人間がその存在の根底、生命の法則そのものからくる衝動にこのように答えるのだという事実によって明らかにされなければならないということです。人間だけが、物質から精神へと上っていく“創造”の先端にいて、つねに乗り越えていこうとする意識、時間の流れを正当化するこの移行への意識に到達することができるのです。もし時間の流れが現にあることのたんなる繰り返しであったならば、これはもうだらだらと退屈で無益なばかりでしょう。今とは違うものになること、よりよいものになること、その可能性にのみ“人間”のあり方があるのです。“profit”のかわりに私が提案した“生長”は、この超克していくことという意味を含むものであり、この超克をとおして“美”と“善”に結びつくのです。この三つの価値は、人間が未来をもっているという事実を正当化するものであり、未来は“美”と“善”なしでは無意味なのです。
10  池田 いまあなたがいわれたことを、いろいろな角度から取り上げてみましょう。まず“利”の訳語として“profit”よりも“Accroissement”のほうが妥当であるとのご意見は、非常に貴重であり、牧口会長の思想を語るうえで、大いに参考になるものと、深く感謝申し上げます。
 ただし、この“利”は、目的というより出発点にあたるもので“価値”とはいえないとのご意見は、おそらく“価値”というものについてのとらえ方の相違によるのではないかと思います。
11  仏教においては「一日の生命は、全宇宙に満たした宝よりも大きい価値がある」あるいは「全宇宙に満たした宝を仏に供養するよりも、一本の小指を供養することのほうが尊い」等と説かれ、生命こそ、最も尊いものであると教えています。むしろ、教えたというよりも、あらゆる生き物の本能や人間の意識の底にあるものを、このように明らかに示したというべきでしょう。
 したがって、この考え方からすれば、生命を維持し、生長をもたらしてくれるものは、それ自体、価値になります。たしかにそこには、あなたのいわれる“質”の要素は入ってきていません。同じ食物でも、それをおいしく味つけし、見た目にも美しく調理して初めて“質”が入ってきます。
12  しかし、たとえば、この食べる物について“質”を考慮しようとしないで、獲物をとらえて食べるだけの虎は、価値を追求することを知らないのだ、人間とはまったく異なる存在であると差別していくことに、どのような意義があるでしょうか。私は、そのような虎であっても、自らの生命を維持する権利をもっており、われわれ人間は、彼らの生きる努力を尊いものとして認めるべきだと思うのです。
 まして、人間の赤ん坊が無心に乳を吸っているとき、赤ん坊は、母親の乳の質を問題にはしないでしょう。しかし、赤ん坊にとって乳は、他のなにものにもまして、価値あるものです。私は、それがたんに生長をもたらすにすぎず、ほんとうの価値は、生長によって得られた生命が追求していくものであると限定してしまうことによって、生きるための努力を軽くみるべきではないと思います。
 あなたがいわれるように、生命の営みを確保する第一の価値が、美や善の価値創造のために役立つとき初めて価値があるとするならば、生命は、美と善の価値を追求したとき初めて価値をもつということになります。これは、生命を美と善のための手段とみる考え方になり、生命自体が尊厳であるという考え方を否定することになりはしないでしょうか。なぜなら、尊厳とは、カントがいうように「他のなにものともかえられない」ということであり「いっさいの目的として位置する」ことだからです。
13  ただし、生きることだけがいっさいの目的であるとする考え方が正しいということではありません。たしかに、生命を維持し生長をもたらすものを価値として掲げることは、自らの生命の維持が目的であって、そのために他を犠牲にすることも許されるかのような誤解を生ずる恐れは、人間の心理を考えたときに、たぶんにあります。しかし、利、美、善の価値を立てることは、その中のいずれか一つさえ追求すればよいという意味ではありません。三つともに追求すべきであり、その中の一つを追求する場合も、他の二つを無視してはならないのです。
 美も善も、あなたがいわれるように“質”を内容とし、高い精神生活の営みによって追求され創造されるものですが、たとえば、美の追求のために善を無視すべきではありません。少なくとも、美のために悪をおかすことは許されるべきではないでしょう。逆に善のために美を損なったとしても、それは許されます。
 生命を維持し生長をもたらすものが高い価値であるのは、それが他者へ向けられたときにとくに明確になります。善とは、この“利”と“美”との価値を他者に提供することにほかなりません。つまり、善とは、他者との関わり合いの中に生ずる価値であり、他者の生命を守り、その幸福を増大することです。この反対概念の“悪”とは、他者の生命を傷つけ、その幸福を奪い減少することです。
14  仏法では、この“善”の追求、すなわち、他者の幸福のために奉仕することは、自らの未来の生をより豊かにしてくれる原因になると教えています。このようにいうと“善”という高度な精神的なものが、利己的な低いものに還元されてしまうような印象を受けますが、私は、これは、利己という人間生命につきまとう本能的衝動を高度な行動に昇華させるための、すぐれた智慧から出た教えであったともいえると思っています。
 また、さらに掘り下げていえば、他者の幸福を願い、そのために自らの生命を使って努力することは、キリスト教でいう“愛”、仏教でいう“慈悲”という、人間生命のもっている最も崇高な精神的能力を発揮することになります。人間としての精神的豊かさとは、この自らのもっている最も崇高な力を発揮していること自体の中にあるのだと思います。
15  すなわち、現在、人のために尽くせば、未来に物質的な豊かさという報いをうけられるという功利的な問題ではなく、現在、人のために尽くすことは、現在の自己の人間としての豊かさの反映であるとともに現実化していることになっているのです。
 私は、利、美、善の牧口会長の価値論がもつ意義は、功利主義を価値として位置づけているところにあるのではなく、善というものの内容を明確にし、人間としての高度な確立と、その精神的充実を推進する原理を示したところにあると考えています。善の価値の追求こそ、あらゆる人が、真に人間らしい自己を発現していくための道であり、とくに人びとが利己主義におちいっていることが深刻な事態をひきおこしている現代にあっては、いくら強調しても、強調しすぎるということはないでしょう。
 現代において要求されることは、利己主義から利他主義への変革であり、慈悲や愛の精神に立つことであると私は考えます。そこに“人間革命”が必要であるゆえんがあります。
16  ユイグ 使う用語とそれに与えられる厳密な意味から、哲学に、種々の難解さが生ずるのは、いつものことです。そして、これに翻訳の問題がからみ、客観的に描きうる、したがってなんの疑義もさしはさむことのできない具体的事実から遠ざかれば遠ざかるほど、このことはあてはまります。
 ここで問題は“価値”です。最も実際的な意味で、価値(valeur)の元の語であるvaloir(値打ちがある)は、事物の計算できる値段を示しています。そこから、具象的な意味で、評価にふさわしいものを指します。すべての物質的、道徳的な“bien”は、したがって、大なり小なり、偉大な一つの価値をあらわします。ですから、生命の“価値”について語り、生命が偉大な価値をもっていると評価することは、まったく自然なことです。
 しかし、あなたが「価値は、ここでは質とは別のもの」とみておられるのは、きわめて正しいことです。事実“価値の段階”を導入してくるものが、質の概念です。そして、この段階を上ることが人間を向上させ、人間に自己完成をさせることになるわけですが、私はこれを、きわめて重要なものとみます。なぜならこの段階の上昇が“事実”の判断に“質”の判断を付け加え、それによって物質的実在を超えて、人間だけに知覚でき、人間にその完成への道を開く無限の視界を突如として開くのです。
17  生命が“それ自体としての価値”であることは、根本的なことで、なにものも、それを否定はしません。しかし、それは、すべての生命の向上と、いっそうの“価値の増大”をもたらす価値の段階の出発点でしかありません。そして、私には、この能力こそ、人間の役割と、その最も根本的な任務を説明するものであるようにみえます。ここから、美と善が、二つの基本的な方向としてあらわれ、各人の生命が価値と質において勝ちとり、自分の生命をつくることができるようにするのです。生命自体、一つの与えられたもので、それは、いうなれば、基本的な“生”の価値で、美と善によって、その長所を増大させることができるのです。
 要するに、生命は私たち各人に与えられた“価値”であり、それは、カントがいったように取り換えられないものです。しかし、それは、まさしく、生命だけが、“価値の増大”を追求する力、才能をもっているからであり、そこに、その存在理由があるというのが、私の確信です。

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