Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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不断の上昇  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  進歩を推進しているこの“深い本質的な力”“バネ”こそ、まさに、私がこの進化の中に認めているもので、これについて、私たちは、長遠な時間を通じて、物質から生命へ、生命から意識へ、そしてこの意識が到達しうる、絶えず高まる発展段階へと移っていく、途絶えることのない軌道をたどってきました。創造の歴史について私たちの知っているすべては、これまでなにものにも妨げられることのなかったこの上昇の営みとして要約されます。そして、現在のところ、知性を精神にまで導くことのできる力のおかげで、この営みの最も高い完成度を示しているのが、人間なのです。
 この既知の曲線から、その延長がどんなものであり、なにに向かっているかを、数学者がするように、演繹し推論することができなければならないでしょう。ここに、“創造”が向かっている意味の秘密が横たわっているのであり、比喩的にいうと、人間はロケットの自動誘導装置のような役割を担っているのです。
3  これらの発展段階についてヴィクトル・ユゴーは、ルナンより早く、ルナンより明確に、驚くべき明晰さをもって理解していました。彼の『亡命日記』の一八五二年四月十七日の項には、ノルマンディの島で孤独な生活を送っていたこの“先見者”の暝想がこう記されています。
 「鉱物的生命は有機的、植物的生命へ移り、植物的生命は動物的生命となる。その最も高まった代表例がサルである。サルからさらに上昇すると、知的生命が始まる。人間は知的段階の最も低いところに座を占めている。知的生命の段階は見通すことのできない無限の段階であって、この段階によって、各自の精神は永遠性の中へ登っていくのであり、その頂に神がいるのである」
 ユゴーは、知性が“人間の門の黒い閂”にぶつかること、そのとき精神がそれを超えていこうとするのでなければならないことを感じ取っていたのです。……その場合、芸術と宗教が、彼の選ぶことのできる二つの道であるわけです。
4  ですから、芸術と宗教を結びつけている関係は、意外なものではありません。あなたは宗教がいかに計り知れない影響を芸術に与えてきたかを指摘され、芸術がその起源において、宗教的情感の一つの表現形式であるということによってそれを説明されましたが、まさにそのとおりなのです。私たちは、それとともに、多くの場合は社会的効率という点から、いかに芸術が宗教に結びつけられてきたかということも、やがて確認していきましょう。宗教は、その行事を行い、寺院をつくるうえで、つねに芸術がもっている、人びとをひきつける独特の力の恩恵を得ようとして、芸術にすがるのです。
5  これは確かにそうなのですが、しかし、もっと無限に深い関係があります。宗教を生み出す、神へ向かう魂の動きは、いうなれば、人間に芸術を創造させるものと同じ基本的方向に立っています。そこに、この問題をさらに深くとらえなおさなければならないゆえんがあります。
 人間は、私が申し上げてきたさまざまな存在の段階を、自らの複雑な本性の中に保持しています。彼はその身体によって物質に属しております。しかし、この身体は、また生命にも属しているのです。この生命は、どんなに化学的分析を進めていっても、物質に還元できるものではありません。しかも、人間の生命は、もはやたんに細胞の生命ではなく、これまた還元不可能な、別の現象をあらわしていき、意識と呼ばれるものが付け加わります。
 しかも、人間の意識は、哺乳動物にみられるそれではありません。哺乳動物は、意識によって知覚能力を得ますが、まだ、本能や条件反射の無意識的動作に支配されています。こうして、人間とともに、一つの段階は越えられますが、まだ達せられうるもう一つの段階があります。そこに“創造”の余白があります。
6  事実、人間の意識は、高等動物によって輪郭をみせはじめた知性よりもさらに先へ行く力をもっています。それは、精神の秩序と呼ばれるべき一つの新しい秩序に達します。私たちはそこにすでにとどまっており、そこではすべてが質に基礎をおいた価値認識に従っています。この質の側面は思考によって理解されますが、感受性によって感じ取られます。選択と決断の自由――自由意思――が、ここで、物質と本能の領域を支配している決定論に取って代わるのです。
 人がそれを望むと否とにかかわらず、さらにまた、知性がどんなに発達したとしても、人間の本質的な特性と寄与していく点は、ここにあります。質は定義されるものでもなければ、証明されるものでもないことを思い起こしましょう。それは、ただ、それ自身により、また向上と完成への内面的努力によって自らを試すのです。
7  人間固有の最高の創造である道徳と美学の唯一の基盤となる思考は、本能と同じくらい明白な感覚的認識によって、思考が感覚的認識に還元されることはできないにしても、自己自身の底で確認されることを求めます。なぜなら、思考は感覚的認識のように受動的であることを求めず、そのかわりに、全的な存在たろうとする努力を要求するからです。
 たぶん、そこに、人間の最も大きな神秘があります。しかし、この努力はなにに向かっており、その方向はどのようなものでしょう。それが最も進化した存在、とくに人間にしかあらわれていないとすれば、それを選ぶ能力、選択は、なぜ、また、どのようにして生じたのかが問題です。
 進化に沿って私たちがたどってきたこの上昇をもう一度見直して、それを明らかにし、その動機を理解するよう試みてみましょう。まず、初めに物質が支配していました。それは原始のエネルギーを刻み、それを自らが身を落ち着けている空間の中に、かたちと固さをもって構成します。しかし、物質が時間の流れというものに順応しないことは明白です。物質は物理学が明らかにした、不変で恒久的な法則に従います。この法則は時間の経過とともに変わることはありません。物質が時間の経過に対して反応するのは、侵食とエントロピーの現象によって、ただ否定的な方向だけで、やがて崩壊していきます。
8  その中でも生命の出現は、一つの“修正”あるいは完成への努力に対応するもののように思われます。何人かの生物学者も、研究を進める中で、あなたがシュレーディンガーに関していわれた“反エントロピー”という概念をあえて提唱しています。それについてはすでに論じ合ったところですが、そこでは現実の実在あるいは一つの外見が重要であるのに対し、生命が示しているのは、ともかく、位置の逆転なのです。それまでは自動力のなかった物質が、生命によって活気を与えられて、時間の冒険の中に入り、持続し、適応し、増大し、再生しようとする努力によって、時間の流れの中に密接に関わるわけです。
 物質はそこで、入りかわり立ち代わり、さまざまにおそってきて、崩壊つまり死の脅威を与える不断の危険に出合います。生命が一つの新しい段階を超える必要があることを見いだし、身体組織がその進路に立ちふさがる障害を知覚し、それを計測し、それとの関係を位置づけ、そして、この調査の結果に合うように自らの対応を調節することができるために一つの意識を身につける必要を覚るのは、単純な機械によるよりもよく対応するためであり、あるいは少なくともその機構を不慮の、予知しない事態によりよく適応させるためです。それはまた、彼が必要とする栄養のある資源を知覚し、それを得るための方法を知るためでもあります。
9  それ以来、意識は“選択”という一つの新しい能力に向けてあらわれたのです。生命とともにあらわれたこの種の合目的性の中で、意識はこの選択の必要性によってひきおこされたようにみえます。この選択なくしては、生命は時間が導入する突発事に不十分にしか立ち向かえないでしょう。
 しかし、最も古い、最も未発達な動物は、まだ初歩的な意識しかなく、自動的な対応をよりよく調整する力をもっているだけです。彼らにあっては、そうした対応は、先天的であれ後天的であれ、もっぱら本能の領域にあり、遭遇する状況にふさわしい行動を命じてその選択をさせるのは、本能なのです。逃げる必要がある場合も、その種が溺死してしまう危険性があるかぎりは、水の中に飛び込むことにためらいがあるでしょう。また、火の中に身を投げることには拒絶がありましょう。なぜなら焼けてしまいますから……。ですから、その選択は、自動的にではありますが、その生存が脅かされることのより少ない、乾いた正常な大地の上で行われるでしょう。
 動物の発達の度が高くなるにしたがって、より複雑で、より微妙、より思慮された選択がなされることがわかります。知性が発達しますと、考え、事態を推測し、その多様な結果を推定することができるようになります。そして、人間の水準に達するすぐ前までになりますと、選択の中に質が入り込んできて、その影響力を全面的に変えるでしょう。
10  動物を飼った人ならだれでも、イヌやネコのような高等な哺乳動物は、とくに餌についての質を、はっきり感じとれるようになっていることを知っているにちがいありません。そこでは、栄養上の必要ということに加えて、質が大事になってきているのです。私の飼っているイヌはビスコット(ラスク)の切れはしをやっても、吐き出します。しかし、少しバターをつけてやると、もしほんとうにおなかが空いているときは食べます。ところが、ビスケットとなりますと、どんな場合も食いついて、鳴き声をあげ、ちんちんをしながら、またつぎをねだります。この選択は、ただ実用的であるかどうかではなく、質的なものになっていることが明らかです。
 また、さらにいえば、これは異議を唱えられるかもしれませんが、高等動物はすでに、視覚と聴覚の秩序についても質的選択力をもっています。ネコは、音楽について自分の好みを示します。ネコでも最も洗練されたものは――これはイヌについても証明されますが――自分の毛の色と調和した布地の上でやすむことを好みます(註)。私の赤褐色のセッターは、青いクッションがとくに好みです。
 (註)色の知覚は人間の目とイヌの目とでは違っていることは確かです。なぜなら、イヌは網膜錐体を欠いているので、赤色のように波長の長い色を、少なくとも人間と同じには知覚できないと思われます。
11  このことに対して疑いを示す人には実験的事実にもとづく論拠をあげましょう。それは多くのオス、とくに鳥類の例をみますと、メスのほうは引きつける力を与えられていないのに、オスはすばらしい調和のとれた色をそなえていてメスよりずっと顕著な性的な魅力をそなえています。なぜ自然はこうした魅力をオスに与えたか、ということです。この力は、彼らの仲間にあって、審美的というべき一つの知覚力があることを示していないでしょうか? ですから、この知覚力は、混沌としており、未発達であるにせよ、質的評価から出てくるのです。
 花の最初の種子も調べてみると、意識というものはまったくあらわれていませんが、その生命を再生産する機能に結びついた一つの引きつける力と関係のある美的質がすでに確認されるはずです。もちろん花は、知覚はしませんけれども。
12  こうして高等動物において姿をみせはじめるものの帰結点と開花をあらわしているのが人間です。たんに知的能力だけでなく、感覚的能力としてあらわれる質の知覚が人間において頂点に達するのです。そしてこの二つの分野で、人間の卓越性は実用性を超える力としてあらわれます。その最も発達した知性は、たんに実際的問題に適用されるだけでなく、哲学的課題に取り組んでいきます。また、その最も発達した感受性は、存在しているもの、内外にわたる事実の状態の資料を提供するだけにとどまるのではなく、質を求める心を駆り立てます。
 この二つのいずれにも、具体的に存在しているものを超えていく出口が開かれています。そこには新しい飛躍があり、私たちが与えられているものの限界を超えて、一つの高い世界へ達しようとする憧憬があります。この高い世界は、私たちの直接的な素質でとらえられるものでなく、われわれ自身の究極に進み、さらに遠くへ進んだときに到達できるものなのです。
 同じく、この動物と異ならせているものによって人間――人類――は、未来へ向かって進んでいることを感じます。そして、この未来とは、たんに自分のほうへやってくる事実の到達点ではなく、私たちの努力の集中を求め、私たちを引きつける力を発現しているがゆえに未来なのであり、そこにすべての創造物の存在理由が覚知されるのです。この極は、なにものも位置づけ、確定できないものですが、つねに、私たちをより遠くへ、より高くへ導いてくれます。
13  それは、地平線へ向かって進む人が、進むにつれて、地平線が後退するのと同様です。この地平線は、無限なるものの敷居にすぎないのです。ところで、私にとって“神”と同じ概念であるのが、この“さらなる無限”なのです。
 たしかに“神”は、芸術家の創造的な霊感がそれをつくるときに、具体的な形貌をとってあらわれます。画家の霊感が一枚の絵のうえにあらわれるのと同じように、聖なるものの概念も、文化によって種々の“神”としてあらわれます。これらの神のうえに、教会が、ちょうど芸術のうえに流派が生ずるように、接ぎ木されます。流派は、芸術家がその作品の中に有形化しようとしている質のこの流出を、教材や教義に変形し、それを生徒たちは繰り返します。しかし、生徒たちは、けっしてその師に到達することはありません。なぜなら、純粋の飛躍、純粋の霊感であったものが、ここでは定義づけられた公式にされてしまっているからです。宗教についても、同じではないでしょうか。宗教は一つの礼拝儀式の中にあえて閉じこもっていくのです。
14  私は、芸術そのものにひかれるので、どの芸術の流派にも自分を限定しません。それと同じく、この“絶対”――私たちの知的能力の及ばないこの点へ向かう集中力だけを汲みとるようにするために、私はあらゆる宗教を遍歴します。
 たしかに、たとえば、礼拝儀式、祈りの儀式は、多くの人にとって、この上昇の動きに自分を結びつける一つの手段たりえます。しかし、ある種の人びとにとっては、祈りは、その語句の中に自分を閉じこめ、一つのフレーズの中に自分を固定化しかねないなにかなのです。それは、私たちの理解や表現の手段を超えたものへの一つの高揚でしかなく、それにもかかわらず創造はそれへ向かって自己完結しようとしていきます。
 この意味で、私にとって、芸術は、神の探求という、この質への欲求をひきおこす抑えがたい上昇の高邁な終局への同じ飛躍のうえにあります。そして、そのすべてが“神”へ収斂しているのです。
15  池田 たしかに、生の不断の前進の中にしか進歩はないのですから、たゆまない前進が必要です。日蓮大聖人の仏法においては、これが悟るところの究極のものであるというものを明確にあらわしました。しかし、この仏法を修行する立場としては、これで終点であるということはなく、どこまでも、前進していかなければならない、その前進していく生命の姿勢の中にこそ、じつは終点が実現されているのだと教えます。
 したがって、もし、これで終点だと考え、前進をやめたところには、すでに、最も重要な完成への要素が欠落していることになります。この原理を、この仏教では「因果倶時」ということばであらわしています。その“因”とは、完成をめざして前進していく姿勢、その実践であり“果”とは、完成された究極の姿です。
 「因果倶時」とは、この“因”と“果”とが同時的に存在するということです。したがって、完成された状態、すなわち“果”は、完成をめざしていく実践すなわち“因”とともにあり、逆にいえば、完成をめざして前進していく実践がなくなれば、それと同時に“完成”も消滅することになります。
16  私は、人間としての完成というもの自体、これと同じ原理によってなっていると考えています。人間が人間である以上、どこまでいっても、これで完成されたという状態はありません。しかし、自ら未完成であることを自覚して、その完成をめざして不断に努力を持続していくところに、じつは完成された人間像があるのです。
 生きた宗教とは、こうした人間のとどまることのない自己完成への努力の中にあるのであって、人間がその努力をやめ、たんに儀式や教義の論議に終始するようになったときは、その宗教は死んでいるといわなければならないと思います。
17  ユイグ この努力は、自由であってこそ生きたものとなりえます。私たちが、これまでたどってきた進歩の経緯からはっきりわかることは、進歩とは物質の運命的な決定論から生命の冒険へ、そしてつぎは、自らをそこへ導くことを可能にする選択へと進むことです。この選択は、その十分な行使ができる自由を必要としますが、また同じく、価値の段階に入ることを可能にする質の知覚をも必要とします。ですから、質的なものこそ、現時点では“創造”において到達した、最も進んだ地点であるわけです。
 これによってのみ、人びとは、どうしようもなく物質世界を支配し、人間に有限性を押しつけている量的なものの必然性から脱却するのです。量的なものの中では、選択は一つの限界にぶつかり、まえもって固定されます。彼は時間の流れの中になんの進歩ももたらさず、いつまでも自分自身でしかありえません。
 ある決まった度合いの食欲は、同じ決まった量の食べ物によってつねに満たされ、それは過去も未来も変わりません。これは、等しい条件のもとでは、水はつねに零度以下になると氷結するのと同じです。ところが、質の感覚は、限られてはいますが、選択による食事を好むようにさせます。さらに、それが道徳的質になりますと、自分よりも不幸な人に与えるために絶食し、高潔な動機から人を守るために必要とあれば、死を賭しても喜んで献身することさえありましょう。
18  人間だけが、精神的な質の選択によって、生存本能の枠を乗り越えることができます。動物において行動を規定している飢えや性欲といったもののかわりに、人間は生存に固執させようとする生命のとくに基本的な法則に背いてさえ、精神的目的をおくことができます。事実、人間は一つの理想のために、自分をささげ、決然と死ぬことができます。人間だけが価値の段階を築くことができたのであり、なにものもそれを厳密な意味で“測る”ことはできませんが、人びとは、質の感覚を自らの内に磨くことによって、それをただ知覚することができるのです。
 現代の文明が崇拝し、自らの堕落をまねいている、技術と物質的な進歩よりも、人間は精神的進歩のほうを好むことができるのであり、そこにこそ、人間の力があり、この宇宙の歴史の中で示した自分の位置に正当性を与えるゆえんも、ここにあります。
19  宗教と芸術のあいだに本来ある緊密な血縁と協力関係の鍵がここにも見いだされます。しかし、芸術と宗教とでは、それぞれの行動手段は同じではありません。芸術が生活の次元にある手段によって、人間に質の感覚を高揚させるのに対し、宗教は生活の彼方に求めます。それは同じ道にありますが、究極目標への投射は、宗教のほうがより直接的です。
 しかしながら、芸術が最も高い天才の水準に達しているときには、それは平均的な人間が、かりに最もすぐれた宗教を用いてであっても、信仰によって達している神への道よりも、ずっと進んでいることは確かです。
 もう一度繰り返していえば、芸術家の場合は芸術に、信仰者の場合は宗教に、各人がもたらしうる質にすべてはかかっているのです。

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