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日蓮大聖人・池田大作

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芸術と宗教  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  池田 そのうえ、東洋とか西洋とかに関わりなく、宗教は芸術に計り知れない影響を与えてきました。
 日本の伝統的な芸術には、かならずといってよいほど宗教儀式や宗教的意味づけがつきまとっています。たとえば、能や舞踊は、本来、神前にささげられたものです。絵画でいえば水墨画は禅の教えと結びついており、その画風は禅の境地(精神)によって説明されます。
 もちろん、平安朝時代の絵巻には宗教とは無関係の王朝の華やかさを表現したものが多いし、江戸時代の庶民芸術にも、宗教とはかならずしも関係のないものが少なくありません。平安朝時代と江戸時代とは、日本の歴史においては、文化がいちじるしく興隆した時期で、そこに宗教とは関係の薄い芸術独自の発展もみられるということを意味しています。
 ただし、文化の興隆期も停滞期も共通して、宗教と密接に結びついた文化、芸術が伝えられてきたことは否定できません。そして、こうした発展した芸術の開花があまりなかった時代は、ちょうど落葉した冬の木は幹がよく目立つように、宗教と結びついた芸術が表にあらわれているわけです。葉が茂って幹が見えない時期にも、その奥には幹が厳然としてあることはいうまでもありません。
3  おそらく、宗教と芸術とのこのような関係は、西洋においても同様であろうと思います。とくに中世のヨーロッパにおいては、芸術はキリスト教信仰の付随として栄えたのではないでしょうか。たとえば絵画は教会の天井や壁面を飾るために不可欠でしたし、音楽は教会で神の栄光を称えるためになくてはならないものでした。彫刻もまた、教会の柱や壁を飾る聖人像等として発達しました。
 絵画も、彫刻も、音楽も、ヨーロッパのキリスト教化以前からあったことは当然ですが、今日あるようなそれぞれの高度の発展の原動力となったのは、以上に述べたようなキリスト教芸術としての伝統と歴史であったといえるでしょう。
 その意味から、私は、芸術はその起源において、宗教的情感の表現法の一つであったともいえるのではないかと考えています。
 ところが現代にみられる芸術の意義、位置はどうか。その大部分は、金銭的価値に換算されてしまっています。名画は印刷技術の発達によって精巧な複製がつくられ、大量にばらまかれています。現代人の感覚では、こうした複製で、本物の作品のもつ美の鑑賞は十分に代用されるとされているようです。原作は、そのとてつもない値段によって、貯蓄と投機の対象となるばかりであるといっても過言ではありません。
4  私は、自分でもこれまで美術に対しては敬愛の心をもち、機会あるごとに求めるよう努めてまいりました。それをもとにして、ささやかながら美術館を設立して公開できるぐらいになりましたが、本物のもっている魅力にふれたときの気持ちは、ことばではいいつくせないものです。
 ヨーロッパを訪問したときは、美術館の見学をスケジュールに組み入れるようにしています。とくにパリのルーブルは、まさに人間文化の至宝を集めた宝庫という感じがします。本物の「モナ・リザ」や「ミロのビーナス」「ニケの勝利の女神」を見ると、複製がどんなに精巧であろうと、しょせん、表面だけを写したにすぎないことが、痛切に感じられます。それは、いってみれば、ある人物の写真を見るのと、その本人に直接に会うのとの違いです。
 本物には体温があり、息づかいがあり、語りかけがあり、要するに生命があります。この“生命”そのものをもっているところに芸術作品の真髄があると思うのです。そして“生命”をもっているがゆえに、真の芸術は、見る一人ひとりに語りかけ、励まし、教えるのです。私の考えでは、このように人びとの心に語りかけ、働きかけるところに、真の芸術と宗教との共通性があります。このことから、私は、芸術の中に、本来、宗教的情感の一つの表現をみるのです。
 しかし、芸術と宗教が一つになってしまうわけではありません。それらは、やはり、人間精神に相異なる影響をもたらしますが、それはなにによってでしょうか?
5  ユイグ 芸術と宗教は、ともに人間の質の高揚を基盤にしています。これは共通点です。芸術はこの人間の質の向上を、目に見える要素の、まだ物質的なものから、まったく精神的な、まさしくことばどおり、私たちを“私たち自身を超えて上昇させる”霊感に到達させることによって、これを果たそうとします。
 ですから、芸術は、まだ、素材、形、線、色彩といった物質的な存在に結びついていて、そこからあまり脱皮していない段階にあるにしても、そうした物質的存在は“美”と呼ばれる最も高い質を選ぶよう求められているのであって、その意味で宗教と結びついております。しかも、芸術家は、こうした色やかたち、線といったものを組み合わせるとき、一種の“高級料理”のように、たんにそれらが快く、調和がとれているように組み合わせるのではありません。彼は、一つの啓示の道具としてそれらのイメージを用いるのです。彼は自分の内に、かたちと姿をとって読みとれるような形態をあらわし、自己を表現しようと熱望している感情の複雑な総体を感じます。
 彼は、それが、感覚がとらえて示してくれる外的実在の中にすべてそのままであるのではなく、具体的現実がもたらしてくれない質の増大への憧憬によって異なって見えることを感じており、そこで、この質への努力を、彼は他の人びとに伝えたいと望みます。彼を動かしている希望と内なる圧力の恩恵に他の人びとをも浴させようというこの愛他的意思の中に、質というものはすでに存在しているのではないでしょうか。
 そこで彼は芸術作品を創造し、それがもっている具体的な魅力や線や色彩を使って、この内的メッセージへの注意を引きつけようとするのです。
6  池田 具体的なものと精神的なものを協力させる能力のうえで、芸術がいかに典型的であるかは、いくら強調しても、しすぎることはないでしょう。事実、人間の生命の営みも精神活動も、内側と外側の両方に正しく向けられ、その均衡が実現されたときに、真実の充足を覚え、その知恵も確かなものになります。すでに述べましたように、仏教では、意識作用の最も表層部に位置するものとして、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の五つの器官にそなわる“識”を五識として立てています。これらは、外的世界の認識をつかさどるものです。
 また、法華経では、仏の智慧を称えて「如来は三界の相を如実に知見している」と述べられています。三界とは、欲望と物質と精神との三つの世界の意味で、いっさいの現象世界をさします。この外的世界の認識において誤りがないのが仏であるというのです。
 日蓮大聖人は、蒙古の大軍がやがて日本を襲ってくることを、当時、日本の権力を握っていた北条氏に警告しました。その八年後に蒙古から使者が来て日本を脅迫しました。その後も、毎年のように蒙古は使者を日本に送り、ついに、日蓮大聖人の最初の警告から十四年たって、服従の勧告をいれない日本に、蒙古は大軍を送って襲撃してきたのです。この自身の予言警告の的中をもって、日蓮大聖人は自らが仏陀であることの証明とされています。仏教には、未来のことを正しく知っているのを仏陀となすという一つの定義があるからです。
 これをもってしても、内的世界だけでなく、外的世界も正しく認識できなければならないということが真実の知恵の条件であると思いますし、仏教は、まさしくその条件に合致した知恵を教えるものであることが明らかです。
7  ユイグ 芸術家も、外的世界の経験と内的世界の経験を結び合わせようとします。しかし、彼がなすのは、それ以上のことであり、とどまることのない進歩へ向かってそれを導こうとするのです。
 一つの作品が完成したとき、彼はそれを捨てます。しかし、それは、これを超えていくためです。なぜなら、彼はつねにさらに遠くへ進んでいこうとして、質を不断に増補しようと求めていくからです。完成された作品は、もはや過去の死んだものでしかありません。一つの作品は彼にとって、この不断の追求の一段階での凝縮であり、彼は、さらにそれを超えて追い求めていくのです。そして、生きているかぎり、彼は、さらに遠く、さらに高く導いてくれる別の作品を創造しつづけることに熱中します。
 したがって、芸術は人間の精神的機能を示す不断の超克、この上昇の流れのうえに、いわば枝分かれしてあらわれたものであるわけです。しかし、宗教が礼拝儀式と神学の教条主義の中に埋没していない場合、そうした宗教以上に、この上昇の流れがよくあらわれるところがどこにあるでしょう? そうした純粋な精神性を超えているものとしてなにがあるでしょうか?
8  池田 精神的にそれほど発達していない段階にあっては教義や儀式が必要であっても、もっと発展した段階にいたると、教義や儀式、戒律から進んで、神秘的飛躍へ入っていかなければならないというのが、あなたのお考えと理解します。
 中国において一念三千の法門を確立して、日蓮大聖人も敬意を払っていた天台大師の教えたところも、同じであったと思われます。天台大師は、初心の人びとや知的能力のそれほどすぐれていない人には、たとえば、日々、仏を念じ、仏の名を唱えることを実践法として教えました。もう少し高度な能力をもつ人びとには、法華経をはじめとする経典を読み、教義的理解を深めることを教えました。
 さらに高度な能力をもつ人びとに対しては、仏教経典に説かれた生命の真理を心に描きながら、瞑想に耽る修行法を教えたのです。これが、あなたのいわれる神秘的飛躍に相当し、天台大師は、この瞑想によって、摩訶不思議の悟りを得ることができると教えています。
 これに対して、日蓮大聖人は、こうしたすべてを包含した一つの実践法を確立し、すべての人が平等にできる実践と、平等に悟りの獲得できる道を教えたのです。物質的欲望をもっている人も、高い知恵の確保をめざす人も、さらに高度な人格的完成を願う人も、日蓮大聖人の樹立した一つのやり方に従えばよいというのです。
9  それは、仏法の究極の悟りをあらわしたマンダラに向かい、これを信じて、南無妙法蓮華経の題目を唱えることです。それがたとえ物質的欲望の充足を願う心からであったとしても、その欲望は昇華され、高度な知恵となってあらわれてくる。仏法の教える究極的な状態からいえば、物質的欲望は、はるかに低いものであるけれども、それさえも、究極的状態へ到達するための、生命の飛躍の推進力になるというのです。ここにこそ私は、欲望を外から抑制することなく、自然のうちに、その人自身に、欲望の支配から脱皮し、そればかりでなく、欲望を、自らの高度な人間的成長と完成への要因として昇華しうる道があると信じています。
10  ユイグ こうして、宗教と芸術とは再び結合するのですが、それはただ、それらが有効である場合、つまり、一つの実践の機械主義に閉じこもるのではなく、最も深く、最も真摯な躍動を求めている場合に限られます。
 西洋中世の偉大な神秘主義者の一人、エックハルトは、芸術と宗教のあいだにあるものは“一つの関係ではなく、一つの全体である”と書いています。付け加えていいますと、私がこのことを知ったのは、インドのすぐれた哲学者の一人であるコーマラズワミーという人の著『芸術における自然の変容』を読んでいてです。この本の中で著者はエックハルトに一章をさき、彼の説教は「ヨーロッパのウパニシャッド」とも呼ばれるべきものであると述べていました。ここでもまた、東洋と西洋の接近が認められるわけです。
 宗教と芸術とは、私たちが現にあること、また、私たちが知覚しているものの向こうに、一つの巨大な磁石のように、この世界のすべての進展を導き、人間というこの相対的な成功に達せしめ、さらに人間から出発して、この恩恵を自らの内にもっている人びとのおかげでさらに遠くへ、とどまることなく進みつづけさせる、一つの引力があることを証明しているのです。
11  池田 私も、あなたとまったく同感です。人間は、なんらかの目的をもち、そこに打ち込んでいく喜びを知るならば、目先の欲望の充足といった小さな喜びにとらわれることはなくなります。私は、人間の本性の中には、こうした、より高い喜びを求める心があると信じています。また、仏教においても、すでに十界について申し上げたように、物質的欲望の充足に喜びを感ずる生命もあるとともに、高い真理の悟りによって得られる喜びや、人びとの幸せのために尽くすことによって得られる喜びを求める生命があることを教えています。
 これは本性としてすべての人に平等にあるのですから、それを自覚できる可能性もまたすべての人にあります。問題は、それをどのようにして実際に自覚させるか、です。そこにこそ、人間教育の肝心があります。教育とは、まさにそうした人間の内にある高度な精神をめざめさせることにその真の意味、存在理由があるといっても過言ではないでしょう。
 あなたが強調されるように、芸術も、人間に、そうした物質的な欲望を超克させてくれる、高い喜びの一つです。しかし、芸術ばかりでなく、真理を求める哲学的思索もそうですし、人びとのために尽くす利他の実践もそうです。教師が、ほんとうに自らこれらの喜びをわが身に実感し、それを生徒や若者たちに情熱をもって伝えていくならば、かならずや、多くの若者たちがめざめていくことは間違いありません。

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