Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

日本と西洋  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  文化の新しい分野を開拓するという固有の使命を果たすために、研究と教育の講座を設けるというその規則に忠実に従い、コレージュ・ド・フランスは、この学問のために一講座を設け、一八三二年からそれをビュルヌフ(フランスの東洋学者)にゆだねたのです。
 そのころ、ドイツの思想も、同じ興味を示していました。北ヨーロッパは太古の昔からユーラシア平原に開かれており、そちらからの侵入を受けてきましたので、東方思想に対して近づきやすいのです。ドイツ・ロマン主義は、十八世紀フランスの過度の合理化と理知化つまり“啓蒙主義アウフクラールング”から逃れるためには、この方向へ向かう以外なかったわけです。
 イギリスは、十八世紀以来、インドからフランスを押しのけ、そこに一世紀以上にわたって定着しましたので、そのかわりに、知的・芸術的対決を余儀なくされ、博物館や研究所を設立せざるをえなかったのです。
3  しかし、ほかの国ぐに、とくにフランスでは、ロマン主義者たちは、とりわけドイツ人たちを手本にして、“理性”の無味乾燥に対する反動をひきおこし、物質科学の飛躍的発展が、文明をますます客観的で抽象的・機械的にしていくのを見て不安におちいりました。彼らは、内面生活、感受性、想像の生き生きした源泉を守るために、東洋にその広大な泉が見いだせると感じたのです。
 彼らは、一つの方法的な進歩によって、そのことに取り組みましたが、絵画にそれをたどることができます。ドラクロアの後継者としてデホデンクがおり、さらにフロマンタン(フランスの画家で著作家)がいますが、彼らはアラビアの世界に目を開きました。ギュスターヴ・モローの時代に、インドへの道が開かれ、彼は、建築物とその装飾に使われているさまざまな形体がもたらす未知の幻想が起こす暗示作用を発見します。
 第三の段階として、中国、さらに日本の発見に到達します。印象主義とその後に続く流派が興隆した時代です。
 この歴史は専門家によって、たくさんの研究(註)がなされてきています。
4  (註)イボンヌ・ティリオンは一九四八年にルーブル学校で一つの学位論文を出しました。それは不幸なことに刊行をみませんでしたが、「十九世紀後半におけるフランス絵画への浮世絵の影響」を扱ったものです。アグネス・モヌレは「一八六〇年から一九二〇年にいたるフランスでの日本趣味」を研究しました。これは『芸術における対話――日本と西洋』というM・ドリヴァル編の論文集に収められて日本でも知られているものです。
 ですから、私は一例をあげるだけにしておきましょう。ヴァン・ゴッホが北からパリに着いて間もなくの手紙の中で、南フランスへ行きたいという希望を述べています。人びとは、それは地中海を見るためであったと思ったでしょうが、そうではなかったのです。彼は、それは“日の昇る国”へ近づくためだといっているのです。このように、そのころの芸術家たちは、その対極にあって日本があらわしている、まったく違った極点に心をひかれ、そこへ向かうワンステップとして南フランスをみていたわけです。
 そのうえ、ヴァン・ゴッホには、ただ日本の美術の影響が認められるというにはとどまらない、浮世絵を転写した絵がいくつかあります。
 やがて、ハンブルク生まれの商人ビングが、フランスと日本趣味との偉大な仲介者になります。その影響は近代絵画(モダンスタイル)のうえに生き生きとあらわれています。
5  しかし、ここで私が申し上げたいのは、個人的な一つの思い出です。およそ四十年前になりますが、ディエップ(北フランスの港町)で私は一人の老画家と知り合いになりました。彼のいうには、彼が子供のころ、第二帝政の時代のこと、彼は港の波止場をよくうろついて、極東から来た船が底荷としてつくった、紙で包んだ荷物を調べたそうです。それは、船員たちが商品を船に積むにつれてつぎつぎと波止場に投げ捨てたものです。彼は仲間といっしょに、版画を詰めたこうした包みにとびかかっていきました。日本の水夫たちは、それに、新聞紙ていどの値しかつけなかったのです。
 彼らは、心をとらえてはなさない、生き生きした色彩のこれらの絵に夢中になってしまいました。そのときは、それはまったく商品価値がなかったわけですが、もしそれがなかったら、この子供が芸術家としての天職を見いだしたでしょうか。そして、やがて、文化人や社交界を征服していったのが、これらと同じ浮世絵の版画なのです。この若き日の画家たちは、その先ぶれだったのです。
6  テオドル・ルソー(十九世紀のフランスの風景画家)のミレー宛の、オリジナルの、そしてしかも未刊の手紙を手に入れて、私は、十九世紀半ば以来すでに浮世絵について触れられているのに出合っていました。ルソーは、風景画の鋭い観察者で、しかし、自然主義派の代表でしたから、そこにはまだ、西洋の伝統と縁を切ろうとする探究への好奇心と共感しかありませんでしたが、十七世紀オランダ派の弟子であるルソーは、この西洋的伝統の帰結なのです。
 しかし、この連続した流れの方向を変え、美学の一つの新しい方向を指し示す一つの影響が働くのに長い時間はかかりませんでした。一八八〇年ごろには、そうした事実は数多く論じられていました。若い芸術家エミール・ベルナール(フランスの画家・詩人・文筆家)に鼓舞されて、ゴーギャンとその“アバン橋”のグループの友人たちは、実物のようにみせる“眼だまし”にするために数世紀来ヨーロッパで行われてきた写生を捨てて、輪郭を、波打った、しなやかな線でとってキャンバスの上に絵の具を単調に塗る絵画に宗旨替えをしたのです。
7  彼らは浮世絵の原理、その美術的な影響力をすら理解していました。そして、それを西洋に取り入れることによって、革命の火ぶたを切ったのです。この革命は、二十世紀に本格的に発展し、近代絵画は、目に見える“真理”から離れたばかりでなく、大胆に自然に背を向けて、ギリシャ・ローマ以来の伝統がかつて知らなかった“抽象芸術”に参加していくことにさえなります。
 しかし、この二つの芸術のあいだの関係は、ときとして、ずっと遠いものがありました。これはモネの場合ですが、彼は印象派の人です。印象派というのは、過度の写実主義たらんとした流派です。そして彼は、写実主義を推し進めて、目で見たかぎり最大に、ありのままに写そうとし、この分野の科学の発見に最も一致するようにしようとします。
8  そういった原理は、十九世紀の現実的物質主義の流れを素直に受けているものでしたから、それは東洋思想とは反対の側にあるものというふうに思われるでしょう。ところが、そうではないのです。というのは、私は、モネの死のすぐあと、ジベルニ(ノルマンディ地方にある)のモネ宅を訪ねたときのことを覚えています。そこで見た一つの部屋は、浮世絵、それも奇妙なことに青色を基調にしたものばかりで、あますところなく飾られていました。それは壁紙のように、一面びっしりおおっていました。
 モネは、自分を写実主義者だと信じ、そうあろうと望んでいたにしても、世界の一つの新しい見方をもちこもうとしはじめていたわけです。その新しい見方が同時代の人びとにとっては、その伝統からあまりにも離れたので、忘れがたいスキャンダルになったのです。
 彼や彼の友人たちの作品を前にして、人びとはおそらく、こういうでしょう。「ばかばかしい!」とね。
 人びとを取り乱させるほど動かした、この世界の表現の本質的新しさというのは、どのようなものだったのでしょうか。それを一言でいうと、それは、もはやこの世界を、物質の視点で見ない、ということです。
9  印象派、とくにモネは、対象の物体が構成している形体を除去することによって、実在するものを非物質化しようとしたのです。彼らは、実在する物を、光のヴァリエーションに還元される、純粋にエネルギーの現象にかえました。これは、何年か後に、近代物理学が発見したことではないでしょうか。
 すなわち、人びとがそれまで物質と呼んでいたものは、ほんとうはエネルギーにすぎず、“固体”と呼ばれる物質はエネルギーの塊の凝集によって、相互にとくに強くぴったりとくっつきあったものであるということです。
 この進展がもたらしたものがどんなものであったかを推測してもらうために、ポール・ジャネ(フランスの哲学者)が二つの大戦のあいだの時代に、学生に行ったその電気学の講義の中でいったことを紹介しましょう。
 「われわれが生きている世界は、別々の二つの世界からなっている。一つは物質の世界であり、もう一つはエネルギーの世界である。……物質とエネルギーは、物質がエネルギーにかわりうるということもなければ、エネルギーが物質にかわることもないままに、たくさんのさまざまなかたちをまとうことができる」
10  さて、そうした進行中のさまざまな発見にたずさわっていた一人であるギュスターヴ・ルボン博士(フランスの社会心理学者)は、一九〇五年、その『物質の進化』の中で、すでに、ジャネとは反対に、このように書いています。「形体と物質とは、一つのものの二つの異なったかたちである。物質は原子内エネルギーの比較的に安定したかたちをあらわしているものである。熱や光、電気等は、同じエネルギーが不安定なかたちをとってあらわれたものである。……原子を解離させること、または、別のことばでいえば、物質を非物質化することは、物質と名づけられた、エネルギーの凝縮した形体を、電気、光、熱等の名で知られる不安定な形体に変化させるだけのことなのである」
 この同じ二十世紀の初頭にアインシュタインは、このことを理論的に証明しました。そして何年か後、原子爆弾が広島で炸裂し、その否定できない、劇的な証拠をそこから引き出してみせたのです。
 私がとくに強調したいのは、印象派の人びとが、やがて科学が発見することになったことを、直観的に予感していたということです。
11  彼らは、変転する動的現象しか認めず、流体、水や反射光、光の照射の中に、現実を最も典型的にあらわす視点を求めながら、物質崇拝の基盤である固体の物質についての盲信を払いのけました。モネはついに世界を一つの幻影とみたてるにいたるのです。彼は木々の霊や建物の幻を描きます。
 ロンドンの議事堂の絵やベニスの宮殿の絵をごらんなさい。それらは、色彩と光の濃い霧の中に、辛うじて凝縮しています。
 同様に、モネは、事物のもつ客観的同一性というものが、じつは小さく、それは時の経過とともに変化し、最も安定している事物の外見も、時間につれて、光によって変わることを発見します。そこで「シリーズ」で描こうという驚くべき発想を得るわけです。つまり、乾草の山のある風景に向かい合ったり、ルーアンの教会のような一つの建物と向かい合って、一連のキャンバスにつぎつぎと取り組みながら、朝八時に、十一時に、午後二時に、五時にというように、その対象を描きます。そして、毎日、彼は同じ順番で、その決まった時間用のキャンバスのそれぞれに、また取り組むのです。
12  彼は、その乾草の山や教会堂が同じものと思えないほど、その色、外観、さらにはかたちをさえ変化させていることを見、また、私たちに見せてくれます。実在は、こうした光と陰との戯れと、空気のこのきらめきに還元されます。そして、目に見えるものとなったそうした光と陰の戯れが客観的・具体的・物質的な実在に取って代わり、客観的実在は、一時的な基体にすぎなくなるのです。
 このことに気づいた目は、もはや、思考が示し、認識させようとする抽象的な同一性にとらわれません。こうして彼は、物理学の訓練によって強化された“客観性”が示してきた偏狭さを放棄し、東洋の思考に近づくわけです。
 その晩年、モネは、ジベルニにさきほど申し上げた邸を買います。そしてそこで、エプト川(セーヌ川の支流)の支流が引き入れられ、曲がって、彼の家を貫いて流れ、そこに小さな池をつくっているのに魅せられて、その一面に睡蓮を植えて、はっきりそれとわかる、日本庭園を模した橋をかけたのです。
13  彼は、この水の鏡のうえにかがみこみ、それを目まいがするまで、すべてが一つになる瞬間まで、じつは反射にすぎないのですが、水の表面が空であるかのように見えるまで、それを凝視するのです。そして、この水の中に、彼は、底にゆらめく草と同時に、空を流れ、それが映っている雲を視線で追います。しかし、そこここに、睡蓮が花を咲かせて目印をつくっています。それは、抽象的に“認識”される水面であると同時に、現実には、透明で、反射していて見えない水面であるという意味で、同時に逆説でもあるわけです。
 長い人生のこの最終の段階にいたって、モネは、光る靄の風景画を描きます。そこでは、もはや水平線も岸も、物質的ななにものも見分けられません。そこに見られるのは、見定めるのが困難な色彩のきらめきと、漂う色の輪郭と、光の靄ばかりです。ときとして彼は具体的な要素を取り入れますが、それはそれだけに余計に幻影のように見えます。花をつけた睡蓮の葉は、空中に浮かんでいるように見えます。
14  もし、試しにモネのこれらの絵を八世紀あるいは九世紀の中国の絵に近づけてくらべたならば、モネがしだいに東洋への関心を高めながら、最終的には、純粋に西洋人である彼が、最も伝統的な中国の絵画の世界観と一つに結びつく世界観を創出するにいたったことに気づくでしょう。
 こうして、まちがいなく二つの世界観は異なっていますが、互いの隔りによって強調され増幅されたこれらの相違点に幻惑されてはなりません。人間はつねに同じであり、人間はつねに人間ですから、文化や文明によってつくられた相違点の背後に、一つの基体が見いだされ、その深層部の中に同一性が認められるのは当然のことなのです。
 だからこそ、二十世紀初頭に西洋の進歩の最高の花として開いた、モネの一枚の絵が、中国が千年も昔にその理念に従って念入りに仕上げていた絵画と突如として結合することになるのです。
 また、極東世界とその芸術、その哲学、その諸宗教とくに仏教に向けられた現代に顕著なこの関心を、私は西洋の歴史的な偶発事とはみません。
15  とくに物理学に押されて、感覚的事実に対して抽象的であると同時に客観的な、したがってわざと中立的な表現をして、あまりにも偏狭に自らを特殊化してしまったため、西洋はその偏りを元へ戻そうとする欲求を生じていたのです。
 それは、まず文芸に、そしてロマン主義運動によって芸術にあらわれます。それから、それが発展して、窓を開いて、その調整役として均衡を取り戻させてくれるものとしてあらわれた東洋の側に、一つの新しい空気を見いだしたのです。
 文献や思想、芸術作品に対する知識が豊かになるにつれて、この進展は拍車がかけられました。それは、西洋が自らを広げて、人間的全体性を再び見いだすことを可能にしてくれるでしょう。それこそは、たんにヨーロッパのみならず、世界全体に必要な一つの理想なのです。
16  池田 ユイグさんの広い知識に裏打ちされたお答えをうかがって、近代の西洋の画家によって取り入れられた日本の浮世絵の影響という現象が、たんなる好奇心や異国趣味などという皮相的なものではなかったのだということを深く知ることができました。そして、モネをはじめとする西洋の芸術家の求めたものがどんなに深く、鋭い直観に貫かれたものであったかを知るとともに、そこに必然的ともいえる東洋と西洋との心の一致と融合を見ることによって、一種の感動をさえ覚えました。
 近代以後の日本の美術も、同様に、東洋、西洋というふうに単純に割りきれない、普遍的な人間性を探求し、それを表現しようとする努力をしてきたと思います。なかには、もとより日本古来の伝統的画法に固執し、西洋的な画法に対して排斥的な流派もあります。また一方では、その反対に、日本の伝統的なものに対しては真っ向から排撃的で、もっぱら西洋美術を吸収し、悪くいえば模倣することをもって足れりとしている人びとも少なくありませんでした。
17  しかし、それらの中間にあって、日本古来の精神的なものと、西洋の写実的な画法との融合により、新しい境地を開拓しようとした人びとがいます。近代日本の画家の中で私の尊敬する一人である横山大観は、西洋の画法を取り入れ、そこから学びながら、日本人の心を力強く表現しようとした人です。
 同じく、今も活躍されている東山魁夷かいい画伯は、東洋と西洋との融合を実現していますが、横山大観が日本的なものを非常に力強く表現したのに対し、静寂さ、清澄さの中にそれを見事に表現しています。
 中国や日本の芸術の伝統精神は、絵画にせよ彫刻にせよ、真にすぐれた芸術家によって創作されたものは、それ自体の生命をもつという考え方にあります。たとえば、ある画家が竜の絵を描き、最後に眼を描き入れたところ、竜はその絵から脱け出て天へ昇っていってしまったなどという話が伝えられています。そこから、ある仕事を完成させ、生命を与えることを表現するのに「竜を描いて眼をかきいれる(画竜点睛)」という常套句が使われているほどです。
18  それに類するエピソードは、名人といわれる彫刻家や絵師には、かならず一つや二つあるといってよいでしょう。もちろん、その内容はいずれも荒唐無稽なもので、実際にはありえないことですが、人びとはそれをほんとうにあったことのように言い伝えてきました。それは、中国人や日本人が心にいだいた芸術の理想をあらわしています。
 すなわち、それは、描いた対象物の生命の再現、再生ということです。芸術家は、その助産婦のような役割を与えられるだけなのです。しかし、それを果たすことができるためには、個々の事物あるいは自然全体の奥にある生命の法を達観していなければなりません。したがって、そのような神秘的な境地に達するには、生まれながらの天才と、並々ならない精進を必要とし、しかも、その精進は、たんに技術の水準にとどまるのでない、深い精神的な錬磨を含むものでなければならなかったわけです。
 にもかかわらず、芸術の創造において、芸術家の果たす役割は、自己を“無”にすることによって全うされると考えられました。つまり、その作品によって再生される生命は、作者の生命ではなく、描かれた対象物の生命なのです。
19  私は、ここに西洋の芸術がめざしたものとの違いがあるのではないかと考えます。西洋の芸術では、作品は、作者の生命の再現です。対象物を忠実に描きながら、そこに再生された生命は、作者自身の内にある生命、天分です。この最も象徴的な事例が、西洋の画家の自画像だと思います。そこでは、自分を観察し客観視しながら、自分という主体をそこに描きます。風景や事物を描く場合も、これと同じです。写実主義は、対象物を客観視しながら、それをとらえた自らの主体を描いているのではないでしょうか。
 東洋と西洋とのあいだには、このように基本的に異なっている面がありますが、しかし、これをさらに掘り下げて考えてみると、結局は、あなたがいわれるように、その深層部にある同一性に突き当たるのです。つまり、なにかを描く場合、芸術家は、観察や想像によって、それと自己との融合、同一化を行います。実際に作品としてあらわれてきたものが、一方は自己を強く出したものになり、他方は自己を無に帰したものになるにせよ、そこにあるのは、対象と一体になった人間性そのものなのだといえます。
 あなたが紹介されたモネの場合は、この表層における相違を突き抜けて、深層にある東洋と西洋の同一性をとくに顕著に物語る例として私は理解します。

1
2