Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

芸術と文字――西洋  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  芸術と文字――西洋
 池田 しかしながら、また、東洋と西洋との区別は、それほど完璧に明白には分けられないのではないかと思われます。西洋でも偉大な芸術家について、とくにデッサンにおいて、その手の運びによって、ある種の気分が表現されていることがあるのではないでしょうか。
2  ユイグ 事実、日本や中国における書道が、芸術に対して貢献した東洋の最も独創的なものの一つであるにしても、それがまったく独自のものであって、西洋にこれに匹敵するものがまったくないというわけではありません。しかし、東洋が非常にはっきりした意識をもってこれを手段としてきたのに対して、西洋の芸術ではほとんど無意識に用いられています。そしてここにふたたび、東洋と西洋のあいだにある根本的な違いにぶつかるわけです。
 何度も繰り返していいますように、西洋人は、東洋人と違って、明瞭にいいあらわされた思想をより大切にして内省的・知的方法をとることによって、自らの内面的生命の全体性を取り逃がしてしまっています。
3  ところが東洋人は、自らを率直に表明できるものについての感情を豊かに保ってきましたし、それが東洋人の道徳的な大きい力になっています。東洋人は、事物と自分、他人と自分とのあいだに、観念的な過程を経る必要のない通話を打ち立てるよう教えてきました。たとえば、西洋人がその伝統に従ってデッサンをするとき、彼はまず、自分が目にし描こうと思う外界の対象物を、できるだけ厳格に、できるだけ典型的に、描き出そうと考えます。しかし、西洋人でも非常に偉大な芸術家は自分を取り巻く人びとの限界を超えていますから、東洋と同じ疑問にぶつかります。西洋の芸術は、この意味で発展を遂げ、また長いあいだ知らなかった表現の可能性をますます探し求め、それが逆に東洋の書道を宣揚したといってよいでしょう。
4  それについては、西洋のデッサンの歴史を思い起こせば十分に理解できます。
 十五世紀のルネサンス前派の人びとは、まず“忠実”にデッサンすることを考えます。彼が教わり探究したのは、観察によって、眼前にある外界の事物を理解することでした。それから、その輪郭があらわすすでに知的な分析によって、彼が目にしている対象物とそれを取り巻く空間とのあいだに存在する境界をはっきりと示す線を描くのです。デッサンとは、歴史的には、まず、この輪郭だったのです。
 デッサンの起源にさかのぼる話として知られているのは、つぎのようなギリシャの古い伝説です。――一人の若い娘が許嫁の横顔にみとれています。そしてそれが灯りで、壁の上に影を映しているのに気づきます。彼女は彼がやがて帰っていくのを知っています。彼女がいま眼前にしており、いつまでも見ていたいものが、やがて消えることを知っているわけです。彼女としては、それを記憶にとどめたいのですが、それには、どうしたらいいのでしょう。彼女は暖炉から炭をとって、壁に映っている影の輪郭をなぞりました。こうして彼女の許嫁の頭部の影が平面に浮かびあがったわけです。
 この伝説は、ギリシャ人が、デッサンを、線によって、できるだけ厳密に、形体の輪郭を固定化させる技術とみていたことを証明しています。
5  たった今、私は“形体”ということばを使いました。そこから、一つの新しい要求が導かれます。知的には、すべての物体は一つの体積に要約され、すべての体積は一つの形体によって自らをあらわします。しかし合理主義や論理学は、すぐに、こうしたかたちを分析し、幾何学であらわされる基本的なかたちに還元して、より理解しやすいものに置き換えようとします。
 また、ギリシャ芸術にとっくにあらわれていたものですが、一つの新しい傾向が出てきます。つまり、どんなに厳密であれ、デッサンするだけにとどまらなくなります。若い娘が壁の上にただ忠実に影のふちをなぞったようには……ですね。そこからさらに、知的な努力によって、自分が見ている物を精神にとってより明確に要約できるように、起伏に富んだ対象物のかたちを最もよく示す幾何学的な基本形を引き出そうと試みます。
6  たとえば、正面から見た女性の顔は卵のかたちになります。デッサン画家は、デッサンをより論理的、かつ、よりわかりやすくするために、自分の目に映っているこの卵形を、肉の起伏や実際の不確実性によって変化をつけて描き、確かなものにしようとするでしょう。彼はこの卵形を下敷きにして概形をとらえ、それを特徴づけ、描き出そうと努力するのです。
 このように、表面の起伏の背後に、できるだけ純粋で知性的に、幾何学に近い一つの形を確定するわけです。
 このやり方は、イタリア・ルネサンスのすべての偉大な芸術家たちにみられます。彼らは一方で“写実”しようとすると同時に、プラトン的なやり方で、かたちをその本質においてとらえようとしました(プラトンがルネサンスに与えた影響は周知のことです)。
 そして、こうして形体が確定されると、こんどは、その相互のあいだに調和を打ち立てようとします。このとき、美的感受性が働き出します。こうして、かたちの表現における厳密なデッサンを追求し、また“知的”――ということは幾何学の基本的形体に準拠するということですが――デッサンを追求したあと、芸術家は、この質の探求にこたえるため、調和をそこに実現することに専心します。この質の探求こそ芸術の大きな動機の一つなのです。
7  要するに、ルネサンスにおけるデッサンの開花の本質的なものは、この三つの要素にあるわけですが、この中には、東洋の書道に似ているものはなにもありません。
 しかし、偉大な芸術家たちは、それ以上のなにかがあることを感じています。たとえば、ラファエルが聖母を描く下描きとしてかいた一連のデッサンを見てみましょう。そこには厳密な形体の探求がみられます。そこには、腕を円筒形に、頭を卵形に還元しようとする努力のあとがたどれます。
 しかし前者については、いくつかのデッサンには別のものがあります。ラファエルは自分の想像の中で生じ、感受性から発する、さらに複雑なイメージをとらえ、固定化しようとしています。そこで、彼は一種の衝動で、紙の上に自分の手を神経質に走らせます。この網の目のような跡から、彼を突き動かした創造の衝動を彼がとらえようとしたことを推定できます。そこでは、この名状しがたいもの、消えゆこうとする一種の閃光をとらえるために、厳密さと規則正しさと調和とにかわって、一つの飛躍が姿を見せているわけです。
8  ラファエルにおいては、まだ束の間のものでしかないこのデッサンの新しい局面は、ルネサンスを起点に、しだいに確定的になっていきます。なぜなら、デッサンは写実的でなければならず、よい構図でなければならず、律動的でなければならないという、すぐれたデッサンについて立てられた理論にもかかわらず、芸術家たちは彼が芸術の中に求めているものの大きな部分が、これらのやり方によっては満足されないことを感じていくからです。
 さて、この部分とは、どんなものでしょうか。それは、感受性のある種の渇きです。各人が自己のそれぞれのあり方をもっており、その結果、自分の内面世界と同時に外部世界についてのそれぞれの感じ方をもっているものです(なぜなら外部世界は、それが知覚されるや、内面世界から無関係であることはできませんし、私たちは客観的にそれを観察したいと思っても、自分の感受性の主観的性格に従って解釈せざるをえないのです)。
9  私たちにそなわっているこの漠然とした力は、西洋の古典芸術の知的性格のために西洋の芸術家たちにおいて、表現を妨げられてきました。この漠然とした力は、説明も理屈づけもできないものですが、表出される必要があります。なぜ表出される必要があるかといいますと、他の人びとに伝えるためです。
 そこで芸術家たちは、この下描きに見られる、紙の上を走るこの神経の閃光は、彼らが自己の奥深くに感じている、敏感な特性の投影のようなものだと、だんだんに思いはじめたのです。
 二人の人間を一枚の紙の前に立たせ、ただ一本の線を引かせても、その線はけっして同じではありません。筆跡の研究、筆相学はこのことを教えています(イタリアでは、すでに十七世紀に筆跡について述べた論議があります)。
 デッサン画家は対象物を模写するだけではありません。それは、筆書家が、文字の雛型を再製することだけにとどまることはないのと同じです。そしてここにデッサン画家は、この新しい可能性を発展させようと試みるわけです。
10  この事態は、きわめて早く進行しました。ラファエルが生きたのは十六世紀の初めでしたが、十七世紀のレンブラント(オランダの画家)になると、デッサンは、この異なった探求へとまったく転換してしまいました。レンブラントは、もはや、自分の見ている対象を、そのまま模写しようとはしません。また、合理的で技巧的な幾何学にたよろうともしません。事物のかたちのあいだに一つの調和を見いだそうとすることも、もはやしないのです。
 レンブラントにとって、デッサンは餌食にかけられたライオンの爪になります。彼の画法はそのイメージをあらわしています。彼は、その神経と、また、それを仲介として、彼の感受性とから、閃光が発するように噴き出しています。彼は、ライオンが脚で一撃を加えたように、世界の表面に、彼自身の生き方、感じ方、考察の仕方を、刻みつけます。なぜなら、レンブラントの最も深い天職は、内面的生活にあるからです。
11  そして、ここから、彼の性格の大部分を占めるもう一つのもの、闇の中にあらわれる明晰さに彼がいかに魅惑されていたかということと、それを彼のデッサンは淡彩と鮮やかな色彩の技術によって移し替えようとしたことが明らかになります。彼は暗闇を絵の中にもたらし、その闇を光が破っているのです。
 それは、なぜでしょうか。彼は、ラファエルの同時代人であったレオナルド・ダ・ヴィンチによって明暗描法としてすでに糸口がつけられていたものを、発展させたにすぎません。この天才的な創始者であるレオナルドからさらに進めて、レンブラントは客観的、写実的な外観の比重を軽くし、また、合理性と客観性をめざすかたちとその幾何学性も薄めることに専心します。そして、そのための最もすぐれた方法として、それを影の中に入らせ、それまであまりにも抑えられていた主観性の声を聞かしめようとしたのです。
 そのうえ、この薄明かりのおかげで、このデッサン法が、絵筆を使った絵画に移し替えられると、画家は、暗やみに暗示的な強調点を浮かびあがらせます。たとえば、金色の織物の浮き彫りがキラキラ輝くのがそれです。こうして、それをとおしてレンブラントの特性がはっきりあらわれている画法が創造されるのです。
12  そのうえレンブラントは、外界の物質性を薄め、その反対に、闇から浮かびあがる光と閃きの演奏を発展させることによって、精神の働きを表現豊かにあらわすことに成功しています。
 西暦の最初の数世紀、アレクサンドリア学派の新プラトン派の哲学者たち、とくにプロティノスは、光のもつ超自然的な力を理解していました。光は美しく、その美は、質料の中にあるのでもなければ、形相の中にあるのでもありません。ですから、それはすべてに超越してあるのです。たとえばプロティノスは『エネアデス』の中で、「夜の中の閃き……、火はそれ自体で美しい。……それは光を放ち、輝く。……それはイデアと同列にある」といい、一方「質料は暗い」といっています。したがって必要なことは「真実の光……際限のない絶対的な光」へ向かっていくこと、なぜなら「劣った事物は……この光のまばゆさに消されて美しくあることをやめる」からです。
13  プロティノスが、物質にかえて光を弁明したのは、一つの哲学によっていました。それは、そのつど、解脱と上昇の努力を含む連続的な段階によって、人は、彼が“恍惚”と呼んだもの――つまり神との出会いと交流――に向かわなければならないという考え方です。
 彼が西暦三世紀に心にいだいたものは、その後、西洋で多くの偉大な神秘主義者にその類似がみられますが、それがさらに、約十四世紀後のレンブラントの時代になって、絵画の着想に取り入れられ、自然発生的に翻案されるのです。
 十九世紀のドラクロアのような画家が、その自身の内面的生命からほとばしって閃く光によって、そのデッサンの筆の運びや絵筆のタッチ、さらにその色彩に与えた深みの中にあらわしているものをみますと、この同じ血統を引いているということができます。
14  事実、彼にとって、それぞれの色調の釣り合い、各彩色の調和は、この血統を引いているといえるような情動的・暗示的な力をもっていなければなりません。そのような芸術は、出発点として外部の世界を、日本人になじみの手描きの方式で表現しますが、それと同時にそればかりでなく、物質とそのイメージとは異なった、重量も密度もかたちも呼び起こさない色彩の打ちとけた雰囲気を含むにいたります。
 この色彩の雰囲気というのは、まったく非物質的であるが目に見える唯一の実在と同じ性質をもっています。つまりそれは光であり、精神の力と非常に近い類似物なのです。というのは、精神は私たちにおいては物質とは最も関連が少ないもので、私たちの内面的生命の飛躍を生み出すものだからです。もし、“魂”という語が現代の大多数の人びとにとってそれほど理解しがたいものになっていなかったら、私としては“われわれの魂”といいたいところなのですが。
15  池田 しかし、今あげられたのは例外的な人びとのように思われますが、あなたは、そこに西洋全体に通用する性格があらわれているとお考えになりますか?
16  ユイグ その具体的な事実のもつ意味は東洋と異なっているにしても、事実、西洋が物質主義にばかりひかれているとはいえません。東洋と同じように、西洋は精神的な啓示を受け入れてきました。しかし西洋がそこに到達したのは事実ですが、そうした面は、天賦の使命としては、より恵まれなかったほうであり、しばしば、旧来の態度に対する反動によってであって、充足感が脅かされたときにそれを立て直す必要性が、ある種の人びとを動かしたというにすぎません。
 そして、レンブラントやドラクロアの最も深い発見も、彼らだけにとどまり、それに対して反抗的だった同時代人たちにとっては、無関係のままであったことは確かです。
 西洋が、その客観的・合理的な立場を超えて、東洋が太古の昔から行ってきたこの伝達の情念的・精神的な力を、デッサンにおいて自由に開拓し、さらに困難な絵画において開拓するために、ルネサンスから何世紀もつづく努力を必要としたということは、驚くべきことでさえあります。
17  さらに注目すべきこととしていいますと、レンブラントは東洋の芸術に興味をもち、ペン画でペルシャの細密画を模写さえしました。同様に、彼よりも前に、レオナルド・ダ・ヴィンチも、東洋について無知ではなかったはずです。ジョコンダ(モナ・リザ)の微笑と仏陀の微笑のあいだに、ある種の関係が認められると指摘したのは、私が初めてではありません。博学の人たちは、もしかしたらレオナルドは極東の芸術についてある種の知識をもっていたかもしれないとさえ考えています。
 チャールズ・スターリングのような学者たちは、かなりの確信をもって、マルコ・ポーロ以来、極東に行った旅行者が中国の巻き軸の絵をもって帰ってきた可能性があり、そう考えると十五世紀以後に特徴的にあらわれる、中国絵画との不思議な共通性が解明されるといっています。
18  しかし、これらの芸術家たちが東洋に対して好奇心をもちえたのは、西洋がまだ表現していず、必要を予感していたなにかを彼ら自身のうちに覚知したからだということを付け加える必要があります。
 同様に、今日、ある種の人びとが仏教にめざめ、それに打ち込むことができるのは、彼らが、西洋が引き出しえなかった精神的な真理を同じ水準で仏教が見いだしており、それが彼らを満たしてくれることを感じているからです。しかし、だからといって、このことは、彼らが西洋の伝統の中にとどまることを妨げるものではなく、そのために彼らが仏教徒になるのではありません。
19  池田 何人かの西洋の芸術家がその天性の直観に恵まれて、ある面で、中国や日本の文字のめざしたものに近づくにいたったとしても、中国や日本の文字がはるかに体系的に記号表現の可能性を示し、発展させたのには及びません。
 中国、日本の文字は、対象の事物を直観的にとらえ、そのとらえたままにあらわしたものです。したがって、それを読む人の読み方も、きわめて直観的です。というより、文字が、見る人の心に直観的に訴えかけてくるのでしょう。
 そして、こうした象形文字に起源をもつ中国、日本の文字は、記号的な西洋の文字と違って、異なる文化の人びとにも、その訴えようとするものを、比較的容易に伝える可能性をもっているのではないかと思います。すなわち、その文字の読み方はわからなくとも、その字が残している象形性によって、それがあらわす内容を直覚することが可能であろうということです。
20  もちろん、だからといって、世界じゅうの人が中国や日本で用いられている文字を使用すべきであるというのではまったくありません。ただ理解のしやすさ、理解するために前提の約束事を熟知する必要性がうすいという意味での理解のしやすさをいえば、この中国、日本の文字がそれに近いといえるのではないかということです。
 このことから中国ならびに日本に書道という一つの芸術の伝統があることがよく理解できます。
 私自身、書道の専門的な修練を経たわけではありませんが、しばしば筆をとることがあります。色紙と呼ばれる紙に、簡潔な文字を書くのです。和歌や俳句のように十数字から成る場合もあれば、二、三字、ときには一字のこともあります。
 表意文字ですので、たった一字でも、非常に深い意味をそこに含ませることができますし、また、筆の使い方によって、自分の伝えたい心をあらわすこともできます。ともあれ、書道は、日本や中国の歴史において、一つの芸術分野を形成し、不滅の名声を残した名筆家を生み出してきたのです。
21  ユイグ 中国と日本の文字の話から、こうして、コミュニケーションの手段の基本的な二元性をより深くとらえることができました。ここで述べたことは、絵にも文字にも同様にあてはまる問題で、文字には、ご存じのように、まさしく、二重の力があります。まず、文字は集まって、音節と単語を形成し、一つの意味をあらわします。それによって、文字が結びついているのは、知的・合理的な分野です。文字が一つの意味をもっているということは、つまり文字は、言語をつくっている定められた約束のシステムによって、一つの観念をあらわすことができるということです。
22  しかし、あなたも観察されているように、書かれた文字は、同時に、その書き方の暗示する力によって、もう一つ別の意味を帯びます。それは、もはや合理的思考が形成しているフィルターをとおすのでなく、まさに直接的な伝達と表現の行為ともいうべきもので、書いた人の内面的生命からそれを見る人の生命の内面へ伝わるものです。東洋は、この第二の能力を極限にまで発達させることができました。
 しかしながら、西洋では、絵画が、違った道によってではありますが、それに似た成果を達成してきたのです。
 西洋の絵画は、高い水準に達した写実主義の伝統に支えられて、厳密に対象を描き、それを再現させ、理解することができます。そのイメージはなによりもまず、理解ができます。
23  そのうえ、この表現能力を観念の分野にまで広げるために、西洋は寓意を用いました。約束事によって画像とそれがあらわす抽象的概念とのあいだに、慣用的に対応関係を立てることができます。たとえば、月桂冠をかぶり、トランペットを吹いている天使の絵が“栄光”をあらわすことは、慣例と画像解釈の理論によって、だれにでもわかります。
 こうして、画像は、ことばと同じやり方で、抽象的観念の翻訳者になったわけです。
 しかし、画像はまた、すでに見ましたように、強く感じていることを、その力が書き方に刻みつける特徴を通じて伝達することもできます。
 さらに、画像は、それによって誘発され、私たちの感覚的な生命を揺り動かす漠然とした結合によって、霊を呼びさます秘密の力をもっています。それは、その作者が実際には意識しない象徴的な意味を担っているのです。
24  寓意の意義は、人物なり事物なりによって、ある定められた独特の性格を表現することにあります。そこに、あらかじめ設定された一つの意味が与えられ、ちょうど、単語の意味が辞書の中に記されているのと同じように、人びとは画像解釈学の提要によって、それを解読することができます。
 その反対に象徴は、あるイメージを直覚的に用いて、それを自らにも、他の人びとにも説明しないで、ある種の“精神状態”を伝えます。たとえば、著名な心理学者、マックス・ピュルベは、ページの余白やカンバスの白地は人がそこになにかを記入することができるものであって、それ自体、一つの意味の潜在力をもっていることを観察しています。そして、これは、芸術作品においても、書物においても、同じように認められるというのです。
25  また、たとえば、左下から右上へ上昇する線とか構図とかは、未来へ向かって飛躍する勝ち誇った感情を伝えます。その反対に、右下から左上へ上がる斜線は、あまり意気揚々たる性格の意味合いはもたず、むしろ憂い哀しみに近いものをあらわすというのです。
 精神分析学は、右は父に固有の側で、左は母のほうであり、左の高みから右の低部へ降下する斜線による構図は、抑圧と失敗と憂うつ等の印象をもたらすといっています。
 こうして空間的分野について真実であることは、さらにあらゆることについても真実です。しばしば申し上げてきたように、図像解釈学を拡大していえることは、いろいろあるでしょう。それは、事件や文献といった事実によって明らかにされる関係だけには限定されえません。
 つまり、そこには、それが暗に伝えようとするものの図像解釈もともなっているはずで、この暗示的なものが、しばしば無意識層に加えられるショックを介して、私たちの情感の働きを活気づけてくれるのです。
 地面に非常に力強く刻まれた像があると考えてください。そして、それが少しずつ、この地面からあらわれ、垂直に立ち、伸びあがります。ついている翼は大地から離れていこうとする印象を強調しています。像は腕を高く光のほうへ突き出し、上昇しようとしています。
26  これが象徴しているものは、だれびとにも容易に感じとれ、認識されるでしょう。見る人は、それについて説明してもらう必要はありません。それは、重力に縛られた物質に対する戦い、物質の縛から逃れて、非物質的な空気や光、高みの中に自らを解放し、精神的なものへ上昇しようとする戦いを感じさせるでしょう。
 たとえば、ドラクロアがルーブルのアポロの間の天井に、神と大蛇ピュトンの戦いを描いていますが、それが古い神話にあるよく知られたテーマに依拠している一つの寓意であることを、西洋文明の歴史家はギリシャ神話の中に位置づけることができます。
 しかし、ドラクロアにとっては、これはそれだけのものではありません。彼はこの神話を用いて、見る人を衝撃する一種の閃光により、泥沼の中で死体のあいだを動きまわる怪物によって象徴される野獣的本能から自らを解き放とうとする人間性の努力をあらわしているのです。
 この怪物とは反対に、ポエビュス(アポロン)は光の神で、この神が白馬に引かせた四頭立て二輪戦車に乗ってあらわれたことは、自らに打ち勝って自己の深い運命である上昇の義務に専念しようとする熱望をあらわしています。ちなみに馬は、太古以来、魂の表象体系に結びついた高貴な動物なのです。
27  まさにドラクロアが私たちに語りかけているのは、神話に付随した既知の主題とは別のことなのです。彼は、彼がその描いたものの中で繰り返し語っているこの内面的葛藤の本質的なドラマへ、私たちを引き込み、それによって、各人のすぐれた部分が劣った部分に対して支配力をもつよう期待したわけです。
 このように、西洋の絵画に固有の手段を用いて、彼は一つのメッセージを表現したのです。このメッセージは、その衝撃的な神経質なデッサンによってと同様、その色の抑揚によってもあらわされています。闇と怪物の泥だらけで緑がかった色の重苦しさから、上へ行くにつれて虹の多彩な色に結びつき、太陽の火床の光へ向かっていくのです。
 彼は、ピアニストが、その鍵盤の震動する音域を利用するように、この色彩の音階ともいうべきものを用いています。そして、彼にとってはこの鍵盤の震動が、日本の書道家がその筆の運びによってあらわしているものを伝える役をしているわけです。
28  さらに付け加えていえば、現代において西洋の芸術の発展が招いた転倒から、デッサンは――絵画も同じです――もはや、あなたがいみじくもいわれたように“自己の前にある対象”を再生する義務を負っているとは考えていないのです。そこに、抽象芸術の冒険が始まるわけですが、幾何学を支えにしたものや、マレヴィッチ(二十世紀前半のソ連の画家)派やモンドリアン派の描いているものとは別に、もう一つの流派があらわれます。それは、アメリカ人たちが意味深くも“行動絵画”アクシヨン・ペインテイングと呼んだもので、アメリカではポロック、フランスではマテューとかアルトゥングが、手の衝動を記録する筆の純粋な画法に基礎をおいた芸術を考えついたのです。
 しかも、これらの芸術家の多くは、日本の書道に興味をもっており、トビーなどは、東洋に長いあいだ滞在していました。そして、このような傾向は、十九世紀末に極東の芸術について、なによりも浮世絵を通じて知識が得られるようになって以後、初めて西洋にあらわれたものであることを強調しておく必要があります。
29  池田 浮世絵は、日本において江戸時代にいわゆる庶民の世界の芸術としてあらわれました。明治時代になって、江戸庶民の文化的伝統は陰にかくれ、浮世絵は一般の人びとからは忘れられてしまいました。
 最近になって、日本の浮世絵がヨーロッパとくにフランスの近代画家たちに大きい影響を与えていたことが知られ、日本人自身が驚いているような状態ですが、浮世絵のとくにどういった点が西洋近代絵画に影響を与えたのでしょうか。

1
1