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権力と芸術  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  権力と芸術
 ユイグ 芸術固有の特質は、社会からしばしば軽視されるものです。社会は往々にして芸術を無視し、あなたが示されたように、ある種の軽蔑の目を向けてさえきました。また往々、過度の関心を寄せることもありますが、それがあまりにも実利面に向けられたものであるため、そうした不当な処遇の仕方が芸術の堕落を招いていることがわかります。これは独裁体制では普通のことです。
2  池田 芸術が人間の高度に精神的な創造活動であることは、あまりにも無視されがちです。ファシズムやマルキシズムにおいては、この芸術を権力によって奨励したり、または権力者が好ましくないと判断したものに規制を加えたりする傾向があります。
 たしかに、芸術に名を借りて、人びとの精神に退廃的な風潮を生み出す場合もありえますが、だからといって、それを権力で抑制するのは正しくないと思います。この芸術と権力の問題についてあなたのお考えをうかがいたいと思います。
3  ユイグ この分野でもまた、合理的、権威的、独善的な支配に対し、生命の自然で自発的な働きを、なんとしても守らなければなりません。
 抽象的な力で武装した国家は、集団的な規模を大きくするにつれて、個人に対して、あらゆる権威的重みをかけ、強制権の道具になります。現代では、社会は、あらゆる形態の人間活動に対し、その命令を押しつけようとします。そして、人びとが自由のめざめをもたらす、あるいは少なくともそれを尊重してくれるであろうと期待している左翼イデオロギーも、社会が援用すればするほど、逆に、よけい、社会の命令権が強まることになるのです。これは、行政上の誤りであり、技術的な欠点なのです。
 国家は、あらゆるかたちの知的創造に対して、それを調整する原理を、すぐにも独断的に適用したがります。これは一つの災難です。なぜなら、それがなされるや、知的創造活動の、本来の機能は奪われてしまうからです。
4  事実、周知のように、とくに芸術の特性は、芸術家がその最も奥深い感受性の中で感じ取っているものでありながら、まだ明確な方法で知覚していないものを投影させることにあります。彼は、内面的に彼に働きかけてくるもの、まだはっきりしたかたちをとらない原始星雲のようなものをその芸術作品の中に投影させます。彼は、作品によって、それを外在化し、それを明確にとらえるのです。
 また、しばしば、芸術作品は、まだ引き出されていない前駆性の直観を担わされているものです。こうした直観の中には未来が宿っており、この直観の中には、抽象的な固定化の中で凝固し未来を閉じこめている現在の停滞に対する救済的な反動が下準備されているとさえいうことができます。
 しかし、私は、この問題が日本ではどのような状態になっているかを知りたいと思います。
5  池田 まず確認しておきたいのは、芸術家は、大衆に対して自らの思想や感情を表明するうえで、自由でなければならないということです。たとえそれが既存の秩序を破壊することになっても、です。だが芸術に対して権力が介入する口実は、芸術が大衆の前に公開されることによって、大衆に反権力・反政府的な思想や感情を吹き込むということにあり、現代においては、マス・メディアの発達によって、公開性の規模が巨大になっていることが、とりわけ、そうした口実を与えています。
 今日、日本では、反政府・反権力の色彩をもった政治的思想に対しても、それを発表し表現するうえでの規制はありません。それは、憲法によって、明確に自由性が保障されていますから。しかし、性風俗等の露骨な表現については、かなりきびしい規制があり、欧米の多くの国ぐにではすでに許されているそうした自由にくらべて、日本の後進性を指摘する声も少なくありません。
6  たしかに、法と公序良俗の番人を自称する役人や裁判官の中には、謹厳な人が多いようで、ふつうの人はなんとも感じないものを「いちじるしく羞恥心を覚えさせる」として、違法とする傾向もあるようです。このような、法の運用にあたる人の個人的・主観的感覚が社会的・実際的基準とされていることへの反感があるわけです。この点は、私も、反発するほうが筋がとおっていると思います。
 しかも、私がなによりも問い直すべきであると考えるのは、それが政治的なものにせよ、道徳的なものにせよ、権力をもった人びとの判断が決定権をもち、権力をもたない人びとは、権力者の判断の結果を、否応なく押しつけられるという、この基本的な原理そのものです。
 西欧諸国、とくにフランスにおいては、一七八九年の大革命以来、幾多の民衆の戦いによって、このような判断をする主体は民衆の一人ひとりであるという原則が当然のこととなっており、そこに民主主義精神の特色があるのではないでしょうか。ところが、日本では、まだ、そこまで到達していません。日本国民に民主主義と種々の自由が与えられたのは、第二次大戦後、アメリカ占領軍司令部の圧力によってであったのです。
 その後、三十年間の歴史を経て、民主主義と自由を、与えられたものとする古い世代と、もともと自らのものとする新しい世代との勢力関係が、ようやく相拮抗するようになりました。今日が、きわめて不安定な時代であるのは、このためであると私はみています。やがて、新しい世代が圧倒的な優位を占めるようになれば、もっと安定した社会になるでしょう。
7  しかし、だからといって、あらゆる困難が取り除かれるわけではないでしょう。新しい世代が、はたして、どれほど自らの主体者としての自覚を明確にもっているかとなると、まだまだ不安は残ります。まして、自らが主体者となっていけるための、判断の基礎や自己規制力を身につけているかどうかとなると、いっそう心配です。したがって、個人個人が、政治的にせよ道徳的にせよ、判断の主体者であるとする人びとが主導権をもつようになったとしても、幾多の失敗はあるだろうと予測しなければなりません。
 だからといって、権力をもった少数のエリートにその判断の権限をゆだねるべきだという逆コースをたどるようなことがあってはならないでしょう。私は、このときが最も危険なときだと思います。ヨーロッパ史でいえば、ワイマール体制の中からのヒトラーの台頭が、まさに、この失敗の恐るべき典型であるからです。
 ちょうど、この過程は、一人の人間が、親の支配下から脱して独立していくのに似ています。独立の意欲だけあって、まだ経験がなく、まして自立できる力を教育されていない場合は、独立してからがきびしい試練のときになります。しかし、試行錯誤しながらも、自立していかなければならないのです。
8  権力と芸術という問題から、少し幅を広げた論議をしてしまいましたが、これは、芸術こそ、人間の深い内面から発する、主体者としての叫びであり、自己主張であると考えるからです。私は、宗教、とくに仏法の信仰は、最も尊厳なものの基盤を、人間の外にある神に求めるのではなく、各人の内奥にある仏性に求める意味において、さらに本源的な自己主張と、自己の主体性樹立の土台になることができると考えています。
 それは、芸術か宗教かという問題ではありません。それらが、ともに、人間個人の深い内面から発するものであることは疑いありませんし、したがって、いずれも、権力をもつ人びとに判断を独占されることに対する、反抗と攻略の力になることはまちがいないからです。
 そのためには、芸術は、たんなる技能にとどまってはなりませんし、人びとから愛玩され称賛されることのみをめざすものであってはなりません。宗教もまた、たんなる儀式にとどまってはなりませんし、死後や未来のことのみに人びとの目を向けさせ、現実に対して盲目にさせるものであってもなりません。つねに自己を凝視し、自己の尊厳をなによりも大事にし、現実の生活と社会の中で顕現してくる、自己の本能的欲望や衝動に対してさえも自己主体性を貫いていこうとする、本来の精神を堅持していくべきです。ここにこそ、芸術と宗教とに共通する、最も尊く、創造的な特質があると考えます。
9  ユイグ この芸術の概念は、まさしく宗教の概念と相通ずるものですが、しばしば芸術家自身に欠けています。彼らは多くの場合、その時代の思潮や流行の理論に合わせ、時代の好みや顧客の要求に迎合し、また知的風潮に従おうとする軽薄さから自分たちが加担している美学理論に合わせるだけになってしまっています。脅かしているのはもはや権力ではありません。芸術家自身が、自分を見いだし、自信をもつことができないでいるのです。現代の芸術はこの逆の意味の危険に負けてしまったことを認めなければなりません。それは、その革新的で創造的、反秩序的な機能をあまりにも意識しすぎました。その機能を、現代芸術は、もはや自発的な衝動の偶発的な反動としてでなく、そのかわりに、明確で巧妙に計算された方法として、その機能自体のために開発しました。
10  人びとがいまだその射程距離を理解するにいたらないために、あちこちぶつかり、ひっくり返す、抑制しがたい跳躍に代えて、“新しいものをつくる”合理的な意志が立てられたのです。そして、この新しいものを、人びとは、芸術家の本能的な創造力よりも、芸術哲学あるいは、むしろ成功の報酬に基盤をおいている教条的理論によって定義づけようとしたのです。とりわけ、人びとは、線で引かれたようにみえる道を、特定の値のせり上げによって“より遠く”行けば十分だと思ってしまったのです。
11  また、芸術家がその自由によってその時代の意見を批判し“混乱”をひきおこしたとしても、芸術家の自由を尊重することと、ある種の人びとが創造的活動とその大胆さを表現することを口実にしてやっている組織だったやり方に対して鋭く批判することは別です。
 いずれにせよ、国家の権威は、いかなる場合にも、介入すべきではありません。一つの獲得された組織、打ち立てられた“体系”は、法律や規則によって、自らをともかく維持しようとしますので、それは、芸術作品の中に芽生えている豊かな新しさや、かりにそれが習慣や慣例、現存の思想を損なうにしても、一つの態度のもつ真実の価値といったものを判断するのには不適切です。
 権力が介入することは、抑圧するにせよ奨励するにせよ、調整的なものでしかありえませんし、芸術から、その機能そのものを奪うことになります。それは“健全な伝統”の昨日と“革新的な大胆さ”の今日といった外的な兆候を認識することしかできず、したがって、それを凝結させ、中和させることしかできないのです。
12  このことは、いかなる場合にも、芸術は“社会参加(アンガジェ)”の芸術ではありえないことを示しています。なぜなら、この言葉が現実にもっている政治的な意味での“社会参加”をいう人は、一つの政党のような公式化され確認できる理念の体系に芸術家が参加することを考えているからです。こうした服従は、集団によって練りあげられたドグマに主観的・個人的直観を従わせることによって、その働きを妨げることにしかなりません。ですから、社会参加の芸術は、権力と同じように、ほんとうの芸術を妨げることになります。真の芸術は、国家の権威主義とか、一つの教義へ知的に参加させようとする誘惑から等距離を保ちつつ、自らの自由を保持するところにしか存在しえないのです。
13  池田 芸術が意図的な目的をもつとき、芸術としての価値を失う場合が多いものです。とくに芸術がなによりも先入見を伝える手段とされたときに、その欠如があらわれるようです。反対に、もし優れた感受性で現実を率直に受けとめるとともに、一個の人間として絶望から希望への転換がなされたうえで、自然に表現されたものであるなら、その作品の芸術的価値はけっして損なわれることはないと考えます。
 権力者に媚び、権力者の偉大さを知らしめようという意図で描かれた絵や、つくられた彫像は、その権力者の威厳という彼が直接にあらわそうとしたものと同時に、じつは彼――芸術家――の権力に媚びる精神的態度を如実にあらわしてしまうことになりますね。まさに、そこに、そうした絵や彫刻が見る人をして、一種の恥辱感や嫌悪感を覚えさせるゆえんがあると思います。
 そうでなく、もし、その芸術家が心からある人物に対して尊敬や愛情をいだいている場合、その人物を素材に描き、あるいは彫刻したものは、その純粋な尊敬心や愛情を、自然に見る人に伝えるでしょう。私は、こうした芸術作品とその作者の心の中に真実にあるものとの密接で強い関係を正しく認識することが、現代の文明において、とくに大切であると考えます。
 芸術がその技術的側面にとらわれているときには、芸術的創造にたずさわる人びとは、自らの心を見つめ、その人格的な深化、向上を志すことを忘れるような方向に進みがちです。
 これでは、芸術の尊厳性は失われてしまいます。それは、自らの独特の尊さを人びとに訴えることができず、権力のために奉仕するプロパガンダの一部門に自らをおとしめるばかりです。技術や説得力の巧妙化によって、作者の卑劣な姿勢の露見は防いだとしても、人びとは、その内容がいかに空虚であるかを見逃すことはないでしょう。
 私自身は、技術的には稚拙であっても、つくった人の豊かな心がにじみでているような芸術作品に心をひかれます。その意味で、ほんとうの芸術家とは、その優れた技術、強い個性とともに、なによりも人間的・内面的な豊かさ、人間や万物に対する深い愛情をもった人でなければならないと思っています。
14  ユイグ あなたが提起されたのは、作品の“内容”とその真実性という、根本的な問題です。“題材画”に反発して、現代の芸術は、たんに“美の追求”だけになっている場合がほとんどです。これもまた、別の方向への行きすぎです。
 たしかに、質と芸術的価値の追求が永久に芸術の本質であるとしても、このことは、その作品が一つの“内容”をもつことをなんら排除するものではありません。ただ大事なことは、この内容は、感じられたとおりの姿を残していて、しかも芸術的手段のみによって伝えようとされなければならないということです。いかなる場合にも、それが、すでに考察され公式化された観念にすぎなかったり、自らを示す補助的手段しか芸術の中に求めないような考え方であってはならないということです。
 この保留をつけたうえで、芸術作品が、他の人びとに伝えたい内面的メッセージを担っているものであること、しかしそれは、概念的・論証的な手段によってでなく、イメージの暗示的・情動的力によってなされるべきことは当然です。
15  こうして、芸術作品は、たんに芸術家の個人的実在、彼の自我をあらわすだけでなく、彼の生きている時代と、その属している環境の、集団的現実に対する運命的な参画をも、いみじくも表現することとなるわけです。
 さらに肝心なのは、つぎのことに立ち返ることです。つまりその芸術家が表現しているすべては、彼の内面の鉱山から抽出された原石であり、ただ美術的な完成をめざしてのみ噴出され開発されるということです。ここで、私たちはもう一つ別の領域、つまり質の領域に入るのです。
 ここに、芸術がかくも重要である理由があります。ここに、芸術が精神的生活の主動的要因の一つを構成していることの理由があるのです。物質とその開発、経済優先主義によって、量的なものが結局はいっさいを支配している現代社会にあっては、芸術は一つの試薬として働きます。
 芸術のこの本質的な面こそ、今日のあやまちのいくつかを修正しうる解毒剤という、私たちが現代文明の中で芸術に与えるべき立場を証明しています。
16  たとえばフロイトのような人は、現代の文化を、性欲といった部分的な鍵でしつこく関係づけることによって、現代文明を方向づけ、それを開花からそらせることにあれほど貢献したのですが、そのフロイトでさえも、芸術について語るときには、巧みにこの複雑な性格を強調したのでした。彼は、夢のイメージと同じように、芸術にあらわれるイメージも、内面的衝動や魂のかくれた強迫観念の投影として判読することができると述べています。
 しかし、いみじくも彼は、芸術とイメージを区別するものを明確にしています。それは、芸術家は意識によってすぐにイメージをとらえ、意識して仕上げるのであり、なかんずくフロイトが付言するには、芸術家はそれに美術的な価値を付加するために、このイメージを利用するのだということです。
 したがって、芸術家はイメージを物質的な生のままの事実の領域から、質の領域へそれを移行させ、量的事実を質的事実に変質させるのです。

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