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芸術への尊敬心  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  芸術への尊敬心
 ユイグ 文明の発祥以来、芸術は社会において不可欠の機能を果たしてきましたが、だからといって、人びとが芸術の本性や、ましてその高い役割について、つねに関心を払ってきたわけではありません。
2  池田 ヨーロッパの歴史をみると、ヨーロッパ人は芸術というものを、永遠的なる存在に結びつくものとして尊重してきたように見受けられます。
 これにくらべて、日本や中国では、つねに最も尊いとされる位置を占めてきたのは、その時代の権力者であって、芸術家はきわめて低く平凡で、むしろ賎しいものとされてきたようです。
 日本の父親たちにとって――もちろん、父親自身が芸術家である場合は別にして――息子が芸術家を志すことは、大きな悩みであるといった状態がずっとつづいてきました。これは、日本の文化において、芸術のおかれてきた立場を象徴的に示すものといえましょう。
 芸術の立場についてのこのような対比に関して、あなたはどのように考えられますか。
3  ユイグ 芸術が民族や文化によって異なるとすれば、芸術に対する評価も民族や文化によって違い、それに与えられた地位も同じでなかったことは明らかです。しかしながら、東洋と西洋とで、芸術の考え方に、根本的な違いがあったとは、私は確言できません。なぜなら、西洋でも、芸術家は古代ギリシャ以外ではそれほど高い地位を占めていませんでしたし、それは古代ギリシャの理想がルネサンスによってよみがえるまで、そうであったからです。
 しかし、十九世紀にヨーロッパが日本や中国と接触をもつようになったとき、はっきり対照があらわれます。西洋がずっと進展していたのに対し、これらの国ぐには古いままの状態に取り残されていたのです。
 芸術の中に、たんに職人の仕事の巧みさだけをみるのでなく、特殊な高貴さをもった独自の活動であり、人間が立派に自己の使命とできる目標の一つとして認めたのは、ギリシャの思想家たちです。それが“美の追求”だったのです。種々の現象や、その本性と存在理由について、そのあらんかぎりの合理的分析力を用いて問うことによって、彼らは、芸術が太古から存在したこと、そして、それが示している美への追求に驚いたのです。美の追求について思索した彼らは“善”に似た一つの大きな道徳的規範をそこからつくりだしました。
4  しかし、ギリシャ人のように強い意識の対象ではなかったにしても、事実においては、芸術は人間が存在した初めから存在しています。このことは、まさに質が、現代の技術文明が仕向けているような実用性と量の領域に帰着することのできない、抗しえない欲求であることの証左です。完全な人間においては、つまり、現代人のように分解されて本来のものを十分に行使できなくされているようなことのない人間にあっては、質への欲求は、食べるという肉体的欲求と同じようにまったく自然な、一つの心理的欲求なのです。
 さらに付け加えていえば、この新しい概念と新しい要求を世界の中に導入するのが人間なのです。しかし、注意深く観察するなら、高等な動物のいくつかにおいても、“質”はひきつける力をもっていることがわかるでしょう。この質の追求によって、人間は自らの位置を創造の頂点に正当化するのです。質の追求こそ、初歩的な生物と同じく、事物の組み合わせであるといった現実の存在から自分を区別し、たんなる物質性を超えようとする努力のあらわれです。それが人間を、聖なるものである絶対を求めて精神性に近づかせる一つの超克の道に入り込ませていくのです。
5  したがって、質の追求は本質的なものです。それは人間の本性と固有の使命を特色づけるもので、ゼロの水準つまり具象物の水準から離れようとする渇望なのです。質の追求が開始し理想へ導いていくこの垂直上昇への呼び声を、人間は驚くほど自己の内に感じています。
 この追求は人間に先天的なものです。それは、つねに存在してきました。このことは、最古の文明、先史時代から、道具は、ただ利用するためにつくられたのでないことからわかります。それは、一つの役割を果たすように考えられているわけですが、その機能を満たすためばかりでなく、その線とかたちによって今日私たちが美的と呼んでいる喜びを得られるように仕上げられているということです。
 東洋であれ西洋であれ、指導者たちは、一つの物体が質を付与されると、それがただたんに機能のためだけにつくられているよりずっと大きな魅力をそなえることに気づかずにはいませんでした。宗教と権力、僧侶と王たちは、以来、この心をひきつける力を利用することが、いかに大事であるかを感じてきました。
6  エジプトでも、メソポタミアでもインドでも、僧侶たちは、彼らの宗教の偉大な神話をかたちにあらわさせたとき、それがより雄弁で、より人びとの心をとらえるものになることを望んで、芸術家たちに、質がもたらすこの魅惑と幻惑をそなえた画像や彫像を作るよう求めたのです。
 彼らは芸術理論は一つとしてもっていませんでした。だが、それにもかかわらず、一つの物体が美しさを付されたとき、それがよりいっそう人の心をひきつける一種の熱を事実、得ることを、暑い寒いと同じくらいはっきりと彼らが知っていたことは確かです。基盤となる偉大な神話を信徒たちの視覚に語りかけることばとなる画像や彫像のために、この力をそれに与えることのできる人間が求められました。それが芸術家と呼ばれた人びとなのです。
 同様に、王は、その同時代人や未来のために、自分が切望した栄光の証拠として、自らの治世の偉大な出来事を語らせようとしました。彼は、たとえばカデシュの戦い(カデシュは地中海東岸一帯の地域。紀元前一二八六年、エジプトとヒッタイトが戦った)を、記念式典であらわすだけでは十分でないことをよく理解していました。目に見える物語としてこの放射力を得ることが必要でした。そこで、ラムセス王は、その治世の最もすぐれた芸術家を求めたのです。
7  いつの時代でも、芸術は、社会の中で必要な位置を占めている人間の自然の機能でした。それにもかかわらず、芸術家は、職人や労働者とあまり区別されなかったのです。芸術家は職人や労働者より一つ上の部類というにすぎませんでした。ですから、芸術家がそのすぐれた栄誉をまとうには、西洋思想の真実の創始者であるギリシャ思想が他のあらゆる概念と同様、芸術にも、その分析と理論づけの才能を適用するのを待たなければならなかったのです。
 それ以来、西洋は種々の段階を経てきました。そこでは、ギリシャ思想の記憶が消えるか、あるいは逆に蘇生されるかにしたがって、自立の意識と芸術優先の意識も、薄れたり逆に強まったりしました。蛮族の侵入によって画されたローマ帝国の終末から前期中世は、衰滅と一致しています。芸術家の役割は混迷に逆戻りし、もはや巧拙さまざまの熟練職人と区別されません。その顕著な証例は中世にあらわれています。
 十五世紀のフランドル(ベルギー西部からフランス北端にかけての地方)では、画家と鏡職人とは同じ組合に入っていました。これは、板ガラスの裏に箔を張ることによって実物に忠実な像を反射する力をそれに与える技術方法と、自分の目の鋭敏さ、手の技術、洞察力により、筆と絵の具で世界を再生し、その外見を競う才をもった人間とは同列にあるとみなされていたことをあらわしているのではないでしょうか? 当時の人びとを最も感動させたのは、ですから、その技術的な成功であって、質ではなかったのです。鏡の受動的な反射と画家の質的で創造的な反射とのあいだに、まさしく芸術の広がりという隔りのあることが忘れられていたわけです。
8  同じ十五世紀のイタリアで、芸術家の優位に対して意識が再びもたれるようになるためには、古代の思想、ギリシャの哲学と、とくに美を高い精神的段階に位置づけたプラトン哲学が復活することが必要でした。
 その証拠として、ルネサンスにいたるまで、芸術家たちが自分の作品に署名をしなかったことをあげることができます。ロマネスクやゴシックの開花期を通じてずっと、ギリベルトゥスのように、石に名前を刻んだ例はきわめてまれなことです。これはエジプトの芸術において、アブ=シンベル神殿に芸術家の名前が記されていないのと同じことです。芸術家たちは、自分の仕事をよく心得、自分に与えられた任務を果たす、よき“製造業者”としてしか、自分を考えていなかったのです。
9  それに対して、ルネサンス以後、芸術家は“美”を創造する力をもった人間になり、そして美はきわめて重要ななにかであると、人びとから考えられるようになりました。それ以来、芸術家は社会においてすぐれた位置を占めるようになったのです。ちょうど僧がその宗教の司祭であるように、芸術家は、いうなれば芸術の司祭になったのです。そして、このことは、たくさんの逸話が証明していますが、たとえば、なにびとの前でも譲らなかった皇帝カルル五世が、ティツィアーノ(ルネサンス期のイタリアの画家)の捨てた絵筆を集めるのに夢中だったというエピソードがあります。こんなことは、それまでは、考えられないことでした。
 しかし、西洋社会でのこの芸術家の優位は、貴族社会でしか保たれませんでした。君主や貴族は、芸術家が、要するにその道において一種の貴族階級であることを理解し、その結果、生まれによる貴族階級は、少しは自分を上におきますが、芸術家と付き合うことができると考えたのです。十七世紀においてルーベンス(フランドルの画家)は王侯と同じ服装をして剣をさげ、アントワープに邸宅を持ち、ステーンには城を持っていました。そのうえ、尊敬されていたので、スペインやイギリスに大使として派遣され、そこで、世界の重要問題に関与することになります。
10  しかし、注意しましょう。物質主義が、ブルジョアの興隆によって重要性を増すようになるにつれて、質的なものは量的なものに、もっとはっきりいうとカネの価値に席を譲ります。ブルジョアは、この自分たちの価値の秩序を乱す芸術家を警戒して「いったい彼はなんの役にたっているのか?」といいます。それにもかかわらず、ブルジョアは、芸術家の作品が高く売れることに気づいて、彼らを尊重するようになります。だが、ただ追求し創造する喜びのために“時間を浪費している”芸術家はバカにしてしまうのです。
 これは、あなたが日本についていわれたのと同じ現象です。なぜなら、ルネサンスや十七世紀の人は、自分の息子が芸術の才能をもっているとわかると、大きい希望をいだきました。ジョットー(イタリアの画家)は貧しい羊飼いでしたが、人びとは彼の天分を知ると、彼からあらゆる可能性を引き出すようにはからいました。それに対して、物質主義的になってしまった十九世紀のブルジョアは、芸術家の息子をもつと、不安になり、悲運を嘆いてこういったものです。「やれやれ、ヤツは夢と空想と幻と、ありもしないことにとりつかれ、なんの役にもたたないことに耽っている……」と。
11  芸術作品がその希少性と人の心をひきつける魅力によって商売になりうることにブルジョア階級が早くから気づいていたことは事実です。こうして、芸術作品は経済の仕組みの中に、だんだん大きい位置を占めていきました。二十世紀には、カネの値打ちが下がったとき、しばしば、芸術作品の値が相対的に上がることが知られ、一つの“確実な価値”となり、やがて、熱狂的な投機の対象になりました。この事実から、芸術家に対する尊敬はたいへん高まっています。しかし、そこで彼らが考えていることはなんでしょう。
 要するに、これは異常なことです。ふつう、高く売れる物品を製造するには、往々にして高価な原材料を買って、労働者の費用のかかる作業によってそれを加工しなければなりません。ところが、芸術家は、いうなれば原材料は一枚の布と絵の具だけで、すべてを自分から引き出すのです。ですから芸術家は、根本的に、事実においてより以上の利益をもたらす人間なのです。
 こうして、芸術家は、かつて貴族社会の中で働いていたのとは違った理由によってではありますが、結果的には、ブルジョア社会の中で、ますます大きくなる尊敬を勝ち取ったのです。
12  以上のことを要約していいますと、西洋においては事情の推移は複雑ですが、東洋で起きてきたことと、そんなに違ってはいないと思います。私の東洋についての知識は、あなたには及びませんが、芸術家についての評価は、同様の変動を経てきたはずです。中国の皇帝たちは、詩人や芸術家もまた大貴族であることをよく知っていました。一人の皇帝は、その機会があれば、自ら詩人あるいは芸術家たることを恥としませんでした。
 たぶん、東洋においても同じような変動がありました。芸術家が軽蔑的にみられるようになったのは、商業とブルジョアの時代になってからだと思います。これと反対に貴族主義の時代には、芸術家は非常に高く評価されていたと思います(私は、その例を中国についてあげましたが、日本についても同様の例があると思うのです)。ですから、東洋と西洋とのあいだに、この点で基本的な違いがあるとは、私は思わないのです。
13  池田 私のみるところでは、やはり、東洋と西洋とでは、芸術家に与える評価の高さに、根本的な違いがあります。
 もちろん、あなたのいわれるように、ヨーロッパにおいても、時代によって変遷があり、近代のブルジョア社会にあっては、芸術のもつ質に対する崇拝の観念はなくなり、カネという量的なものに換算されているのが実情かもしれません。また、東洋においても、国によって違いますし、また同じ国、同じ文化圏でも、時代による移り変わりはあります。
 しかし、それにもかかわらず、根本的なところで東洋と西洋との違いがあると私は認めざるをえません。それは、たとえば、東洋の中でも中国で、芸術家を重んじた皇帝もいますし、自ら芸術家であった皇帝もいます。だが、そうした皇帝は、後継の皇帝からも、歴史家からも、そして民衆一般からも、文化の興隆に貢献した皇帝として高く評価されることはあまりなく、むしろ皇帝としての道を踏みはずした、あるいは柔弱の風潮をもたらした皇帝というきびしい評価をされることが多いのです。
14  もちろん、芸術を軽視した皇帝が立派であるとされたわけではありません。繁栄と興隆の時代は芸術も栄え、すぐれた作品が残されているからです。ただ皇帝は、そうした繁栄と興隆をもたらしたことによって称えられたのであって、芸術を重んじ、芸術を愛好したことで称えられることはなかったのです。繁栄と興隆の産物としてすぐれた芸術作品も生み出されたということです。
 この背景には、私は、東洋的考え方においては、最もすぐれた、尊い位置を占めるのは皇帝であったことがあると思います。皇帝は神の意志の代弁者であり、その目的は国の繁栄でした。これに対し、西洋では、神と皇帝とは別にあり、神の意志を代弁するものも、たとえば法王や教会のように、別のかたちで存在しました。いわゆるシーザーとは別に神があったわけです。しばしば、死んで後に聖人とされたにせよ、です。
 東洋では、この例でいえば、神はつねにシーザーをとおしてあらわれ、神に仕える人びともシーザーの命令には絶対的に服従しなければなりませんでした。ここに、たとえば西洋では、神の栄光に直接仕えるという意味で、美を創造する芸術家は皇帝の権力の外に存在することができましたが、東洋では、一貫して、芸術家も、皇帝あるいは統治権力の支配下におかれ、服従を強制されてきました。
15  あなたもいわれたように、たしかに西洋でも移り変わりはあったでしょう。しかし、統治権力が、他の力の支配をいっさい認めなかった時代がどれほどあったでしょうか。私の理解しているところでは、そういう時代はローマ帝政時代の中でも、キリスト教化以前の時代と、近代ナショナリズムの時代だけです。それ以外は、あるときは神々が、あるときは教会が、そしてあるときは普遍法といったものが、統治権力とならんで、あるいはそれ以上の位置を占めた時代がつづきました。もし、これが、少しのあいだであったとしても、そういう時代があったこと自体が、人びとの意識に与える影響力は無視できません。
16  東洋では、つねに統治権力者が最高の地位を占めてきました。そして、すでに述べたように、統治権力のめざすところは、国の繁栄であり、したがって、民衆も、この現実的な繁栄に貢献することが価値ある生き方とされ、実利的な繁栄つまりあなたのいわれる“量”の価値こそ尊重され、それとは異なる“質”の価値を求める芸術は、どちらかといえば余計者、はみだし者とされてきたのです。この“質”の価値を認めたのは、“量”の面では十分に満たされた人びとのみであったといってよいでしょう。

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