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日蓮大聖人・池田大作

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目に見えるものを超えた芸術  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  目に見えるものを超えた芸術
 池田 あなたは、私の質問に対して、芸術的創造というものの本質を明らかにされ、私が質問に意図したより以上の答えを懇切に示してくださいました。
 物事の外観を超えてその奥にあるものを認識する能力を、仏教では五種の眼という原理を立てて示しています。つまり、眼といっても、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五種があるというのです。
 肉眼とは、対象の物質的側面をとらえる感覚器官の一つとしての眼です。天眼とは、物質的な外観を超えたものをとらえる眼ですが、しかし、これは、ただ肉眼では見えないものをも見る力というにすぎません。いうなれば、超能力というようなものと考えられます。
 慧眼は、事物の内あるいは事物相互間に働いている法則のようなものを看破する眼です。ふつう、この慧眼が、科学者の、事物の法則性をとらえる知恵の眼であるとともに、芸術家の、事物の本性をとらえる天才の眼に相当すると思われます。
 法眼は、衆生を苦悩や迷いの世界から救うために一切の法を知見する菩薩の眼であるとされます。仏眼とは、一切の事物・事象を、過去・現在・未来の時間の流れと、全宇宙的な空間の広がりの中に、正しく見きわめる仏の眼であると定義されます。
2  すなわち、仏眼と法眼は、仏や菩薩といった、仏教で説かれている救済者が、人びとを苦悩の底から救いだすという目的のもとに働かせる眼つまり智慧です。私は、芸術家や科学者であっても、たんに自らの創造欲を満たすためや自らの精神的充足のためでなく、芸術や科学における仕事によって、人びとを苦悩や迷いの中から救いだそうという姿勢に立っている場合には、その人において働いている眼は――仏眼とまではいかないまでも――法眼となっていると思います。
 仏眼は、あなたがおっしゃっている無限のものをきわめつくした立場が仏ですから、そうした無限のものを、すでにきわめた存在にのみそなわっているというべきでしょう。
3  しかし、ともあれ、真実の芸術家は、変化してやまない現象の世界にのみとどまるのでなく、その奥にある不変の世界に眼を開き、その道は無限なるものへと通じています。私は、ここに、芸術と宗教との深いつながりの根があることを実感するのです。
 芸術は、こうして、たんなる物質的外見に負うところが少ないため、絵画や彫刻は、対象の事物のかたちを模写することから出発するわけですが、同じ対象を扱っても、民族や文化によって、いちじるしい特徴の違いがあらわれます。私はそこに、たんなる手法の違いではない、もっと根底的な、とらえ方の相違があるとみなければならないゆえんがあると思います。それについて、どう考えるべきですか?
4  ユイグ 絵画と彫刻が、その発祥以来、目に見える世界の忠実な表現に専念してきたことはほんとうですが、しかし、それにしても、長いあいだ、そこに目的があったのではなく、手段であったことを認めなければなりません。人びとが、身体や事物の外形を固定化したのは、そこに託した理念をそれによって呼びさまさせる目的からでした。すでに専門家の研究で明らかなように、先史時代の芸術の中に、動物の描写を認めることができますが、その意味を解読する鍵はまだないにしても、そこに象徴の全体系を感じ取る必要があります。それによってその芸術家が属していた社会の魔術的あるいは宗教的な信仰を固定化しようとしたのです。
5  すでに発展した社会では、芸術は、非常に長いあいだ、この役割を担ってきたことが考古学によって証明されています。キリスト教紀元の最初の数世紀、教父たちはこの機能を再確認しています。この時代の図像学についての大家たちは、エミール・マール(フランスの美術史家)からパノフスキー(ドイツの美術史家)にいたるまで、これが中世のあいだをとおして、発展していったことを証明しました。東洋においても確証されているように、宗教芸術というものはすべて、意味をあらわすために表現されており、そこではイメージはつねに一つの理念を隠しているのです。
 この条件つきで、芸術は、自らの完成のために、その写実主義を絶えず発達させてきたこと、そして、それは、しばしば、その目的を達成してしまったこと――たとえば、十七世紀のオランダの絵画がそうです――を認める必要があります。
6  しかし、芸術が外的実在を複製することを役割とするものでないことは、まったく明らかです。この理念は、ブルジョア的、物質主義的、実際主義的な社会の興隆によってのみ、一つの信念になったのです。芸術の歴史をみると、厳密な写実主義の追求、実物そっくりの絵の追求は、多くの場合、ブルジョア的な美学や思想が支配するようになったときにあらわれていることがわかります。
 芸術のはらんでいるものは、すでに話し合いましたように、二つの実在性があることが理解されるようになって初めて、ほんとうの意味で理解できるようになったのです。その一つは、外的実在、あるいは、客観的実在といってよいものです。それは“写実主義”と呼ばれるかたちの芸術が対象とするものです。しかし、もう一つ、主観的実在があります。これは私たちが自身の内にも体験しているもので、本能や感受性、思考等が広がっている心理の複雑な世界を構成しています。
7  事実、芸術作品の固有の機能は、客観的実在と主観的実在とのあいだの均衡とつながりをつくりだすことです。客観的実在は、その作品に、伝えるべき言語の素材を提供し、見る人がそれを読み取れるようにしてくれます。一方、主観的実在は、象徴的な力をもつようになったイメージの中に、それが保持している心理的内容のすべてを注入します。
 このことから出てくることは、芸術は、その“第三の実在”としての仲介的・調停的役割によって、一方では、それが科学の引き出した不変の法則に従っていることから、明らかに時間・空間をとおして同じである外的・恒久的実在と、他方では、多様で不安定で変わりやすい内的現実とのあいだで、宙吊りになっているということです。
8  事実、内的実在は、個人により、その性格、一人ひとりの性癖によって違っています。それはまた、この個人の属する集団によっても違いがあります。集団は、その教育により、それが構成する環境の働きによって、それに属する各個人に、その特色や思考法を刻み込むからです。こうして、多様で矛盾さえしている要素が確立され、それらは、芸術が示しているように、主観的実在と深く融け合いながら、客観的実在のうえに作用してくるのです。
9  このため、同じ対象を扱いながら、各社会、各時代、各人間集団、各世代によってばかりでなく、各個人によっても、異なった解釈が出てくるのは、自然であり、また避けられないものとなってくるわけです。その解釈は、それを写す手段、まず第一にかたちをどう解釈するかにあらわれます。目によって記録された光景を、人間の精神がつかまえ、それを明瞭なものにするのは、この解釈によってであるからです。これが、まさに芸術の機能なのです。
10  池田 あなたがここでいわれたことは、私が提起した疑問に対する非常に明快なご説明であるとともに、芸術の本質、ひいては文化というものの本質を示されております。
 目に見える具体的実在は、主観的実在を物質のうえに投射したものであり、事実、芸術と文化は、人間の客観的実在に対する主観的実在からの解釈にほかならないといえます。
 この問題に関連して、私が危惧している現代の傾向の一つは、各文化の伝統が生活の中での生きた力を失いつつあるということです。それは、各民族が長い歴史の過程を経て培ってきた独自の主観的実在が失われつつあるということでもあります。
11  たとえば、今日の日本の若者たちにとって、日本古来の芸術や文化は、西洋の美術よりもはるかに異質な存在になってきています。日本の伝統的芸術である能や歌舞伎を若者たちが見ることはほとんどありません。浮世絵や水墨画を部屋に飾ることも、おそらく皆無といってよいでしょう。現代の若者たちにとっては、能や歌舞伎よりも西洋近代劇のほうが親しみがあり、むしろ、今は映画やテレビのドラマが最も身近な存在です。絵画も、西洋近代画家等の作品に親しむ人は、クラシックな人とされ、今は、写真が主流を占めています。
 これらに共通しているのは、画一的に大量生産されるものであるということであり、初めから大量生産と多数の人びとに受け入れられることをめざしているため、作者の個性やいわゆる主観的実在性は影をひそめたものとなっている、ということです。もちろん、それが作品である以上、作者の主観的実在性がまったく投影されないということはありえません。しかし、少なくとも、そうした主観性は、なるべくめだたないように工夫されています。
12  現代の人びとにみられる特色は、真っ向から語りかけられることを避けることのように思われます。おそらく、このため、強い主観性を投射した作品を避け、ただ客観的実在を、作者の主観を押し殺して、リアルに、クールに描いたという印象をもった作品を好むのでしょう。
 これはさらに、ほんとうの客観的実在に触れる機会が少なくなっている現代社会においては、人工的なこうした作品に、その代用品が求められているということかもしれません。たしかに、窓を開けても隣のビルの壁しか見えない住居にいると、せめて広々とした野原や林を写した写真を掛けて、心の広がる窓をその映像に求めたくなるのではないでしょうか。
 私は、このような代用品の典型がプラネタリウムではないかと思います。同様のものがフランスにもあるかどうか私は知りませんが。
13  ユイグ まったくそのとおりです。フランスの場合、発見宮殿(ソルボンヌに付属している展示館)がつくられたのは一九三七年のことです。
14  池田 日本の東京では、すでに二十年以上前から、あるデパートが半円球の内側に星を電気で投影した、人工の夜空をつくって、子供たちの星座の勉強に役立てています。それは、東京の空が大気汚染と、広告用の照明等のために、晴れた夜空でも、ほとんど星が見えなくなった時期とちょうど一致しています。
 夜の星空についてばかりでなく、現代人はあらゆる場面について、プラネタリウムと同等の人工的代用品を求めています。気をつけなければならない点は、どんなに客観性を装っても、やはりそれは主観性を反映しているということです。
 明らかに作者の主観的実在をあらわしている作品にふれるときは、見る人は、その作者と対話するつもりでそれを見ます。それを客観的現実と見まちがう心配はありません。ところが、客観的実在の代用品である場合には、それ自体を客観的実在と思い込んでしまうおそれがあります。いいかえれば、作者がそこに投射している作者自身の思想や見方を、見る人は、それがあたかも自分独自の思想や見方であるかのように思い込み、偽りのものを本物と思い込んでしまうのです。つまり、一種の洗脳効果があらわれるわけで、これは全体主義におちいる危険性を要素として秘めているというべきでしょう。
15  この効果が最も気軽に活用されているのが商品広告の分野です。それが商品の購買欲をかきたてるためにのみ使われている段階では害もそれほど深刻ではありませんが、政治的信条や人種的偏見等の分野で使われると、恐ろしい結果をもたらすかもしれません。
 私は、こうした芸術その他文化的作品の中に反映された主観的側面を人びとが真っ向から受けとめ、作品にあらわされた作者の主観と語り合っていく強さを人びとが培っていくためには、自身が歴史の中に養われてきた伝統の深みを理解し、親しみ、自分のものにしていくことが大切であろうと思います。

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