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日蓮大聖人・池田大作

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芸術――第三の実在  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  ユイグ あなたはいみじくも“対象をその外観を超えてとらえ認識する力”といわれましたが、それは、芸術が私たちに基本的な事実を気づかせてくれるということです。つまり、真実は一つではなく、二つあるということです。
 一方では、空間の中に組織され物質によって構成された、具象の実在があります。それは私たちの身体の感覚器官で観察できます。しかし、もう一つ別の実在があります。それは内面的な実在で、いかなる場をも占めるものでありませんから、時間はともかく空間に依存するところはるかに小です。
 よく私たちは、それが“私たちの頭の中”にあるといいます。しかし、そこでも、明確にどこにあるかを指定せよとなると困ってしまうでしょう。それは、いたるところであり、しかもどこの部分でもないのです。ということは、それは私たちの身体の枠の内側にあって、私たちの生命に属しており、ベルクソンが内面的持続として描いたとおり、流れていく時間でしかないのです。ここでは物理学によって述べられる時空間の概念は役にたちません。そうした二つの経験基準は生命の活動の中では還元不能のままです。
3  人間生命のすべての問題は、私たちの身体がそこに身を落ち着けている空間の広がりと、私たちの意識的・無意識的な生命をもたらしたり運び去ったりしている、もう一つの時間の広がりとの、この交差と干渉なのです。なぜなら、私たちは時間に従って生きており、一秒ごとに老いていきます。同じでいることはできません。時間は私たちの精神的存在の本体でさえあります。
 これら二つの世界のあいだにあって、私たちの実在は中間的存在のままです。一方で生命から意識への上昇によって、持続性の中に展開しながら、他方、その肉体的支えによって物理的世界の中に刻まれているのです。
 “現在”と呼ばれるものは、私たちの内においてもその周辺においても、かくもとらえがたいものですが、私はそれは時間と空間との、この交差点だといえると思っています。私たちが思考によって現在の外にいるとき、つまり過去や未来の自分に想いをはせているとき、私たちはその空間の中に位置するのをやめているわけです。現在という交差点にいるときにのみ、この空間の中にいるのです。
4  何度も繰り返しいいますが、西洋――この西洋という概念を私はギリシャ・ローマ世界で練りあげられた西洋、古典的な西洋という意味でいっているのですが――では、人間は外部世界を感覚機能によってとらえ、それを論理的に構築された思想によって自己の内に組織化しなければならないと考えられてきました。
 しかし、西洋には、また別の局面もありました。たとえば中世において、あるいは十九世紀においてもなお、デカルト的合理性やニュートン的機械主義によって考察された世界への不満足に応じて、そこにはずっと広い意識の広がりがありました。今日、現代文明の物質主義から脱却しようとする努力によって、現代の危機を想起しているのは、こうした広い意識なのです。
 この意識は、ドイツでは非常に早く、十八世紀末からロマン主義の前ぶれとともに発展しました。東洋の発見が、それについて無関係でなかったことは、すでにみたとおりですが、たぶん、もっと深い原因があります。
5  ドイツ人たちが、ヨーロッパ的なそれと異なる世界解釈を求める傾向をもっていたのは――ということは、北欧諸民族と共通の考え方ということですが――それは、彼らが、ユーラシア平原を動きまわっていた放浪の野蛮民族の子孫であり、したがってその起源においては、東洋、中国と関係をもっていた人びとの末裔であるからです。
 こうしてスキタイ人のようなその中継ぎの人びとは、アジアからヨーロッパへ、その曲がりくねり、からみあった装飾文様を伝え、もたらしましたが、それはスカンジナビアや、さらには八世紀から九世紀アイルランドのキリスト教細密画にまであらわれています。
 地中海人はギリシャ・ローマ世界に再び閉じこもって、そのまま残ったのでした。
 こうした基盤が、十九世紀における仏教思想の発見のための選択の土壌を形成していたのです。ショーペンハウエルの哲学は、なによりも、このことから説明されます。
6  また、外部世界を本質的に空間的なもの、内面世界をもっぱら時間的なものとして、これら二つを対立させる考え方を最初にいいだしたのも、ドイツの思想家たちでした。彼らは、それを主観と客観の二元性に要約しました。あるいは、フィヒテが一七九四年に『基礎原理』の中で述べたように“非我”と“自我”の二元性といってもよいでしょう。
 客観的世界は、空間の中での物質界によって示されます。そこではすべてが恒久的な法則に従います。すべてが、それぞれに同一で、はっきりいいあらわしうる事象に要約されることが可能です。しかし、主観的世界は、その広がりは持続性であり、不安定と変化と創造の領域です。
 これら二つの世界は別個のものですが、人間を通じて結ばれています。なぜなら、同じ人間の内側で、その意識をこれらの二つの斜面のあいだに分割しているからです。すなわち、その精神的な本質によって、人間は持続性と主観性に属しています。しかし、彼はかたちある存在であるかぎりにおいて、空間と客観的実在性とに結びついています。こうして彼の厳密な意味での知性、すなわちその思考、理性、論理は、そこに密接に適応しているのです。
7  人間存在を分割しているこれら二つの基本的実在のあいだに、人間は第三の実在を築きました。それが芸術です。これが“第三の実在”と私が呼ぶ理由です。
 厳密にいって、芸術はなにによって成り立っているのでしょうか。それは、石とか大理石、木などといった固形の要素を借りて、物質と空間の世界の中に、内面世界、主観世界の投影、いうなればその痕跡を刻み、それを確立することです。
 こうして、芸術とともに、もはや人間にとっては、内面的生命をかりたてる主観的世界と彼が肉体的によっており行動を展開している客観的世界とのたんなる型通りの共同生活ではなくなったのです。芸術作品の中にあっては、二つの世界が一挙に融解し、実在化され物質化されます。ですから、芸術作品は、非常に厳格にいうと、二つの部分から成っているのです。
 それは資材という物理的な構成物をもっており、しかもそのうえ、それを見ることによって私たちの心の働きが自らを記入することができるようなやり方で作品から発している一種の内面性、一つの内容をもっています。こうして私たちは、加工された物質的対象に内面的生命をあらわす力を与えます。そうした力は、対象物がもっていないもので、芸術家によって染みこませられるのです。
 こういうのが、芸術の奇跡です。
8  あなたが、芸術家の中に、その天分と技術との二つをあげられたのは、以上申し上げたことからも、そのとおりなのです。そしてそのことは、これから申し上げる説明によって、もっとはっきりするように思われます。
 天賦の才能というのは、その芸術家の内面の生命です。それは彼の内にたぎっており、彼の秘密です。彼はそれを所有しており、正しく表現したいと望みます。つまり、外の世界の中に刻みたいと欲するのです。そして技術は、物質的な手段であり、彼はそれによって、自分の内面的生命から発する表現力を一つの対象物の中に定着させることができるでしょう。
 したがって、もし、本来、内面的生命から押し上げてくるものがなければ、芸術作品といえるものは存在しえません。この内面的生命が“天分”なのです。そして明らかに、この内面的生命は、他の人びとにとって、豊かにしてくれるもの、つまり、彼らに広い意識と、彼らが普通に世界と彼ら自身についてもっているよりも充実し高揚した意識をもたらしてくれるものでなければならないでしょう。
9  そこに、天才というものの本質的部分があります。天才(genie)とは語源的にいうと、ラテン語のingenium(天性、素質)で、接頭語のinは、ここでは内在性をあらわします。他の人びとを豊かにするために、自らを他の人びとに伝えようと欲する例外的な存在から生まれたこの内面の創造的な力の中に天才は宿っているのです。
 技術――そして技術を動かす才能というのは、まず物質的手段を使いこなす知識と熟練です。どのように石を刻むか、どのようにブロンズを鋳造するか、キャンバスの上に色をどのように絵筆でのばすか、また、絵の具を油とか卵の白身とか、あるいは水彩画とか墨絵などの場合は水と混ぜ合わせるコツ等といったことです。
 では才能とはなんでしょうか。それは、効果的なやり方で技術を使う力であり、素材の中に、天分の欲求するメッセージを恒久的に刻み込む確固たる手段をもたらしてくれる力です。
 天分はその起源において本質的に主観的な性質のものですが、しかし、そこに、天分自体を外に発現し外の世界に自らを記入する能力である才能と、さらにまた、才能が宙に迷わないで、天分が彼に提供する目標を、恒久的なやり方で有効に達成することができるようにしてくれる技術をも含んでいます。
10  芸術の基本的な目的は時間性の中にあるものを空間へあらわさせることにあり、また彼が組織した空間的なものを時間の損傷から保護することにあります。私たちが内面的に体験するすべてのものは、それを経験し、感じ、さらには思考しているその瞬間とともに、なくなっていく定めにあります。記憶はそれを引きのばしますが、忘却してしまったらそれ以後はありませんし、最大限、この一生で終わりです。それに永続性を与えるのが、空間の世界に移すこと、つまりかたちの中に記入することなのです。それが、芸術的創造の行程です。
 そのうえ、芸術的創造は、量の世界であるこの空間の中に質を導き入れます。そして、まさにこの点では、空間は数学が可能にしてくれる測定によって処置されるので、もっぱら科学によって考察されます。芸術そのものは、内面的世界から生じます。この内面的世界だけが、質というものを感じ取ったり創造したりすることができるのです。なぜなら、心の中の問題については、測るべきものがなにもないからです。十九世紀に、精神生理学というものが発明され、心の働きに対応していると思われる肉体的表現をとおして心理現象を測定する代用品とすることが考案されましたが、実際は、これはごく初歩的な場合にしか通用しないものでこの企ては空しいものでした。
 なぜなら、それは測定しうるもの、つまり物質的世界に帰属する量的なものと評価されるもの、つまり精神世界に属する質的なものとの、抜きがたい対立にぶつかったからです。というのは、質は、数で測られるような定義によっては、もはや説明されないものだからです。それは、もっぱら、内面的な経験に属するものなのです。
11  もし、自己の内にそれを現実化し、創造的なやり方でそれを自己の内に見るのでなければ、それは知覚されることは不可能です。ある種の存在が、たとえば一つの芸術作品の中に、その質というものをけっして見ることができない、あるいは少なくとも、自分の経験と結びついた水準までしか、それを知覚することができない理由が、そこにあります。
 天才がその作品の中に注ぎ込んだものの質は、彼の賛美者たちが感じ取ることができるものを凌駕していると考えることができます。天才の作品の中には、才能の豊かな人であっても、一人の人間がそこに感じ取りうるよりもずっと多くのものがあるということがありえます。
 しかし、ここでは、外的世界と内面世界、客観性と主観性のあいだの対立は超克されています。そこにあるのは、量的なものと質的なものという、この新しい対立なのです。
12  私たちが“質的なもの”を思い起こした瞬間から、もはや空間の中に位置づけるのでは十分ではありませんし、時間の中に位置づけるのでも、もはや十分ではありません。価値の漸増、つまり質の増大という梯子を加えなければならないのです。これは巨大な革新です。
 そのとき初めて、最も肉体的、感覚的、官能的なその基盤から、感情と思考を超えて、思想にいたり、精神的経験にいたる、人間を導いているこの前進的上昇が理解されるのです。
 質は人間を、価値の梯子の上にのせる一つの上昇する動きであり、それはその漸増によって、聖なるものである無限へ向かって伸びています。人類が神としてあらわしたものは、この絶対的なものなのです。

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