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日蓮大聖人・池田大作

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人間の未来  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  人間の未来
 池田 現代の科学者たちは、この現代の危機は、たんに一つの文明の危機ではないことを強調し、警告しています。つまり、ここで問題なのは、人類の存続そのものであるというのです。あなたの率直なご意見では、人類が未来に存続できる可能性は、どれくらいですか?
2  ユイグ すべては、いま話し合ってきた、人間のもつこの自由にかかっています。それは、人間意識の特性であり、人間の意識によって初めてあらわれたものです。たしかに、この自由は、私たちの知的手段と明晰さ、情念に対する抑制といったものの不十分さ、そしてまた、諸本能の決定的な力のために、きわめて限定されています。
 ですから、この自由性の部分は、きわめて壊れやすく、つねに脅かされていますが、しかし、それは存在しており、議論の余地のないものです。
 人間の未来は、まさにこの自由性にかかっています。この予測は、ですから、かんたんです。もし、人間が自ら火をつけたこの発展を受動的に受け入れ、斜面をころがる車のように、自らが向けられた方向を変えようとしないで、ただたどるだけで満足しているなら、確実に破滅に到達するであろう、ということです。
 しかし、ありがたいことに、明晰さにもとづいた、この自由性の余白があります。たとえば、私たちが行っている対話も、このいっそうの明晰さをめざす努力の一つではないでしょうか。私たちは、自分の行動を明晰さの視点に従わせる本質的な自由をもっています。だからこそ、未来の予見が不可能でもあるわけです。なぜなら、肉体的圧力はあっても、道徳的抵抗が働くことができますから、部分的にしか決定づけられないからです。
3  最初の可能性は考えることができますが、人間は盲目的なままです。それから少しすると、人間は自分が作動させた技術的手段に抵抗することがもはやできなくなるでしょう。技術的手段は自らの力を求め、その絶えまない拡大を追求していくのです。その結果、人間性は破壊に当面することにさえなるわけです。私としては、このことについて、すでに仮説を述べておきました。
 しかし、私たちが知っている何千年来の世界の歴史においてつづいている生命の飛躍というものは、それにもかかわらず、とどめられないでしょう。生命はその進行をつづけるでしょう。それは、その発展に有利であるかぎり、一つの種の中に具象化します。その種が有用でなくなり、拘束になったとき、種は死滅します。しかし、生命はそれを超えて彼方へと進んでいきます。
 生命は、このようにしてさまざまな試みをし、企てをしては、それを捨ててきたのです。先史時代において、たとえばディノサウルスとかプレシオサウルスといった巨大爬虫類は、自らの適応能力の無力あるいは無効性のゆえに消滅しました。他の種は進化を停止し、そのままとどまっています。
4  私たち人類は、サルの末裔だといわれました。それが間違いであることは、今日では、よく知られているとおりです。私たちはサルの子孫でなく、サルはたんに一つの枝分かれであり、一つの試みであって、それは行きどまりです。これは人間に先行した最後のものというだけのことであって、それはずっとつづいている枝を構成しており、科学者たちはこれを“門”と呼んでいます。サルはその到達した頂点で停止し、それ以上進むことができなかったのです。彼は姿を消すことなく、新しい冒険にその位置をゆずったのです。
 この新しい冒険を形成しているのが人間です。彼は彼より前には知られていなかった発展を実現する手段に恵まれています。彼は精神の高みにまで上昇することができる、非常に伸張力がある知性をもっております。もし、人間がこれを有益に使わず、不随にし窒息させる鉄のコルセットの中にそれが生ずる体系を閉じこめておいたとしても、生命は束縛されることはなく、つぎの分枝を伸ばすでしょう。この新しい“門”は、ちょうどサルが、のちに人間がどんな存在になるかを知ることができなかったように、私たちには知ることのできないものです。
 ですから、この問題はかんたんです。もし人間がその機能を満たしつづけるなら、ということは、生命を、そのとどまることをしらない自己完成への推力にまかせ、それが遂行する上昇の道をさらに遠く行くよう助けるならば、そのときには、この推力自体、人間が障害を排除し、彼がかつて経験しなかった発達を遂げることを可能にしてくれるでしょう。
5  もし人間が、自分が与えられた自由を無視して、必要な努力をまっとうせず、それを遂行する知性をもっていないならば、私はそう確信しているのですが、自己破壊の現象によって人間はついには滅亡の脅威にさらされるでしょう。そのことは、世界が、別の手段、別の解決法によって、その進行をつづけることを妨げるものではありません。
 仏教の考え方も、この仮説に相反するものではないと思います。というのは、仏教の考え方は、かたちこそ違っていますが、私が申し上げていることと一致する一つの思想、信念を提示してくれているからです。
 仏教によれば、私たちがもっている自由に応じて、それを善用するか悪用するかで、生命の連続の中で進歩か退歩かの報いがあらわれるわけですが、それは私の信じているところと類似した考え方を進めたものです。絶えまなく自らを超えていく連続する生命におけるこの能力は、もし行動の自由が善に活用されるならば、人類総体にも適用されうるのではないでしょうか。
6  たぶん、仏教の思想と私がもっている信念とのあいだにあると私が自分で思っている平行関係は、さらにずっと推し進めることができたとしても、それは、明らかに異なった思想の伝統と歴史条件の中で形成されたものであることが理解されるだけかもしれません。しかし、文化的遺伝によって思想が私たちを閉じこめている体系を超えて、このように意味ぶかい一致があることを明らかにするのは、興味あることではないでしょうか。
 この生命のもっている推力は、先ほどお話ししましたように、人間を通じてその冒険を進めているわけですが、これはしかし、たぶん、人間よりさらに進んだところまで行くことになるでしょうし、またそれが、この地球上以外のところで遂行されていないとはかならずしもいいきれません。
 なぜなら、探求すればするほど、生命が、したがって、その企てと上昇が、無限の恒星間空間の中では目にもとまらないほどのこの微小な遊星上でしかあらわれていないと考えることは困難であるからです。これは、すぐれた科学者たちの大方の考え方であると思います。
7  モノー(フランスの分子生物学者)のような学者が、生命は絶対的に予測不可能な偶然から生まれた、したがって、この地上に生命を出現させた状況的条件の蓄積を考察することは、まず、できないほどである、といっていることを、私はよく知っています。しかし、私はそれには反対です。私の考えでは、モノーは、きわめて限定された科学的思考法に屈従しており、十九世紀の偏った物の見方から抜けだせないでいるのです。
 なぜかというと、私たちにこのことを明らかにしてくれているのは、科学自体なのです。私自身、ワシントンの科学博物館で見たのを思い出しますが、隕石に生命を構成する要素の痕跡が観察されているのです。同様に、宇宙空間においても、生命物質に見いだされるアミノ酸の存在することが確認されています。ですから、生命は、信じられないほどの偶然性で地球上でのみ創り出された、奇跡的で唯一の場合ではないわけです。生命は、他の星でも、誕生しうる力をもっています。
 したがって、宇宙の他のどこかで、生命の進化がその分枝にまで達していることも、まったくありえないことではありません。そうしますと、もし人類が錯乱の中で、自己の地球に結びついた部分を廃棄したとしても、それは、他の場所で、異なった条件の中で、別のかたちのもとに、存続するであろうと考えることができます。
 仏教は、私たちも来世はこの地球とは別のところに出てくる可能性があると考えているのではありませんか。
8  池田 事実、仏教によると、来世は、この地球とは別のところに生まれてくる可能性があります。
 仏教の経典には、釈迦牟尼の説法の場に、はるか遠い世界から菩薩たちがやってきて、釈迦牟尼の説法を助けるというシーンが描かれています。その遠い世界とは、この地球上の世界とは別の、現代的に表現すれば、宇宙の彼方の世界と解釈する以外にない、はるかな遠い世界です。
 また、たくさんの経典の中でも、私たちが最も重要な経典としている法華経には、東方の宝浄世界の多宝如来が、宝の塔に乗ってやってきたこと、また、東西南北、上下のあらゆる方角の向こうから、数えきれないほどの数の仏たちがやってきたことが述べられています。これらの仏が住んでいる世界も、宇宙空間の中の、地球とは別の世界と解釈されます。
 さて、仏教では、こうした世界のおのおのは、成(形成期)―住(生物の生息する時代)―壊(崩壊していく時)―空(崩壊してしまった状態)を繰り返していくと説きます。しかも、人間を含む生命体個々は、それぞれの行為によって原因・結果の法に従いながら、無限に生と死を繰り返しつつ、存在していく、としています。
 このことは、これまで住んでいた世界が崩壊したとき、生命体は自らが生を営むにふさわしい別の世界に生じて、そこで生命活動を営むであろうことを意味しているのです。
9  また、あなたは、生物の進化の歴史を振り返り、ある生物が自らのもっている能力を十分に発揮できず、その世界に適応できなくなったときには滅び去って、そこに適応できる別の生物に主役の座を明け渡すといわれました。
 この環境世界と生命主体との関係は、まさしく仏教の教えているところと合致しており、仏教では、これを“依正不二”の原理で示しています。法華経では、舎利弗らの弟子たちが、未来、いかなる世界に、どのような名前の仏となるであろうとの記述がありますが、そこに記されている世界の名と仏としての名とのあいだには対応関係があります。先の、宝浄世界の多宝如来というのも、同様です。これらは、仏とその住する世界の関係ですが、私は、これは、生命主体とその環境世界との対応関係についての仏教の基本的な考え方を反映していると考えます。
10  さらに興味ぶかいことに、仏教では、今この世界に人間として生を享けていても、その行為の集積によって、次の生において、かならずしも人間とはならないかもしれないといいます。そうした行為は、欲望や憎しみ、慈愛等々の、心理的動機の内容によって善悪に分類されるもので、たとえば強い憎しみを繰り返した場合は、次の生は毒ヘビのかたちをとるであろうというのです。
 人間の特徴を思考・知性とすることは、仏教でも当然で、本能的な衝動、欲望等を知性によって抑制している、均衡のとれた平静さが重んじられます。もし、そうした知性を活用することなく、感情や本能的な衝動に身をまかせて人を傷つけることが重なった場合は、もはや知性をはたらかせる能力をもたない動物として生を享けることになるわけです。
11  以上のことから考えてみるのに、人間として知性を発揮し、充実した人生を送った人は、かりにこの地球が滅び去るか、あるいは、地球に人類が住めなくなったとしても、次の生は、別の世界に、人間として生まれることができることになります。しかし、それでは、自分は別の世界に人間としてまた生を享けることができるから、この現在の世界が滅びようとしていることに対して無関心であってよいかというと、それは、人間らしい知性の発揮を放棄していることになりますから、次の生で人間になれなくなるのです。
 したがって、私たちは、自ら人間として未来にも生を享けることができるためにも、人類を滅亡の危機におとしいれている現代の諸状況に対して、そのもっているあらゆる知性をふりしぼって、改善の努力をし、人類の運命を、存続へ、さらに繁栄へ、さらに質的向上へと向かうようにしていかなければなりません。

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