Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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行動の原理――直観と理性  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  自然は動物に本能を与えました。これは、人間においても、人間らしさのあらわれている線より下にあっては、同様です。その場合、本能が残存しているのは、生命に本質的な必要性に応じて、生命の存続を保つためのみです。そこでは決定論がすべてを占めていますが、人間らしさとともに、自由性という余白が、それに加わります。それは、彼の知性が、知性あるがゆえに生じてくる疑問に対して、彼自身が有効な答えを創造できるようにするとともに、また、それを義務ともしているのです。
 しかし、その行動の原理は、どのようなものでしょうか? 人間は、二つの行き方で現実にかかわっています。それは十九世紀初め以来なされてきた、われわれの内なる主観世界と、外なる客観世界という区分に対応するものです。
 一方は主観から起こるもので、これは、私たちにとって本能と直観のかたちで示され、一種の命令的な性格をもって私たちの深みから上ってくる内的啓示としてあらわれるものをよりどころとしています。こうして、事実、いわば内的生命、心の世界の根を通じての宇宙・世界とのコミュニケーションが行われるのです。
3  私たちは宇宙の全体を構成している一部分であり、その生命的エネルギーの一断片をあらわしながら、宇宙を構成し、宇宙の前進を刻んでいく全体的なエネルギーに参画しているわけです。私たちはそれを自らの内に味わい、内的にそれを経験します。それが、直観的なかたちであらわれるのです。これがおそらく、私たちの知性の最も純粋な部分であり、理性は、要するにそれを組織化する手段でしかありません。
 このようなものが私たちに提供されている、ときには強制的に課せられる、第一の行動の原理です。しかし、こうした指令に対して、もう一つ別の行動原理が声を発します。それは、第一のものをおおうに十分の力をもっています。これが知性で、それは、論理的な理性によって武装され、受けた教訓や戒めによって育てられたもので、私たちの行動を自分の認めた“原理”に屈服させようとします。
 動物はその本能的な決定論の働きに身をゆだねており、知性がもたらすこの二重性とジレンマを知りません。私たちの自由性は、選択と決断の必要性とともに、この二重性とジレンマから発してくるのです。
4  こうして、私たちの前に一種の空白がつくりだされ、必然的に私たちの決断力はそれを満たさなければなりません。本能的欲望という既成の原理は、しばしば現実にうまく適合しないで私たちと対決するわけですが、本質的な憧憬の深みからあがってくる声は、私たちの前進を“よりよいもの”へ向けて推進してくれます。
 直観的知性が、合理的知性によりながら、それを先導しその真の役割を果たすのは、ここにおいてです。漠然としたこれらの内なる衝動を変革し、それによって錯雑した印象の霧から、観念の明確さへと移らせてくれるのは、直観的知性です。そこで理性は論理をよりどころにしつつ、私たちの目的追求において、私たちを案内してくれるのにふさわしい道具になります。こうして、同時に、理性は私たちの前進の目標をみさせ知覚させてくれるとともに、それに到達するための道を、最も確実なやり方で練りあげるのです。この場合には、理性は、まさに、その働きが有効であるように私たちの自由に貢献する道具です。しかし、それだけのものでしかありません。
 事実、私たちの自由性による基本的な選択は理性にはよっていません。選択はしばしば道徳的意識と呼ばれる深い本質的な直観から起こります。道徳的意識だけが、私たちを待ちうけている未来という砂漠をたどるための道と方向を決定するのです。
5  池田 理性は、しばしば本能に対立するものとして論じられます。しかし、私は、本来、動物においてはそれぞれの知的レベルで保たれている調和を、人間の場合は、往々にして破壊しているのが理性であると思います。つまり、理性は本能と対立しているのでなく本能のさまざまな要素と結びついて、善の方向にせよ悪の方向にせよ、極端に増幅し、その調和ある秩序を破壊しているわけです。
 その点に注目してみるならば、私たちが問題にしなければならないのは、理性か本能かではなく、本能に結びついて増幅していくこの理性を突き動かしているものはなにかということであると思われます。そこで、それが不安や恐怖か、希望や慈愛か、ということこそ、根本的な問題ではないかと考えるのです。
6  人間に与えられた自由は、人間の前途に大きな空白を準備しましたが、この空白を、なにをもって埋めるかについて現代は思い迷っているようです。そしてなにをもって埋めるかは、理性とは別の次元の問題です。理性は案内役としての役目を果たすだけであって、目標それ自体を提示する働きをもっているわけではありません。その意味で理性それ自体は善でも悪でもなく、その性質は、あくまでも中性であると私は考えています。理性の働きによって築かれた科学が、善悪に対しては中立であるといわれるのも、科学を支える理性の特質から帰結されることです。
7  理性そのものは目標を提示しないと申し上げましたが、科学のつぎのような述懐は示唆的です。つまり、科学者が一つの法則を発見しようとするとき、その過程は、分析と実験の積み重ねによって初めて法則に到達するのではなく、まず最初に直観的なひらめきによって仮説を設け、分析と実験はそれが正しいか否かを確認するために行われるのだということです。法則(目標)が先に仮説として決定され、その後にそこへいたる道程がつくりあげられるわけで、その過程に理性の果たす役割があるわけです。
8  現代においてニヒリズムは一般的なものですが、これは自由によって与えられた空白をなにをもって埋めるべきかを見いだせないことによって起こる虚脱感であると思います。そして快楽主義は、埋めるべきものを見いだせないことによる焦燥感の反映であると思います。それはいずれも、目標到達への道を練りあげる力ももっていながら、その力を有効に作動させえないことから起こるものです。それは技術を習得しながらなにを描くべきかというイメージをわかすことのできない画家が、絵筆を放棄したり、でたらめにキャンバスに絵の具を塗りつけて気を紛らせたりしているのに似ています。キャンバスは自由によって与えられた空白であり、技術は空白を埋める方法を練りあげる理性です。空白を埋めるべきイメージは、その生命の深みから生ずる直観によって形成されるものであり、現代はこのみずみずしい直観力を失い、直観を生み出す基盤としての生命の全体観と充実感を喪失しているのです。ここに混乱の根本的な病根があります。
9  動物の場合は、狭小な空白しか与えられておらず、しかも手には一本の絵筆と一色の絵の具しか与えられていません。動物はひたすら定められた色を小さなキャンバスに塗りつけていく以外にはなく、単純ではありますが、そのかわり混乱もありません。しかし人間は、無数の絵筆と豊富な絵の具を与えられて大きなキャンバスの前に立たされているのです。
 理性は結局、直観の奴僕にほかなりません。問題は直観の質です。今日の科学の力が偉大であるように、それを支えてきた理性は巨大な力を秘めています。その巨大な力がどのような方向に向けられるかは直観の質によって決定されるわけです。理性は平和への道を構想することもできるし、戦争への道を構想することもできます。しかし、平和か戦争かは、それ以前の直観によって決定されます。したがって私は、平和の実現のためには理論的な平和論も重要であることは当然ながら、それ以上に無条件に戦争を嫌悪するものが、人間の内面深くに確立されなければならないと考えています。
10  理性を“脱獣性化の能力”ととらえている学者もいますが、理性それ自体は獣性・脱獣性といった本性とは関係なく、獣性・脱獣性いずれの本性をも表現する手段でしかありません。現代社会の混乱の一因は、こうした理性に、善なるものとして全面的な信頼をおいてきたことにあります。平和を擁護する理論も、戦争を肯定する理論も、理性は構築しうるのです。
 理性は直観の質と程度に応じて、一つの体系をつくりあげますが、その理論に整合性がそなわっていればいるほど、それが絶対化されてすべてを統一しようとします。しかし、その体系は理性によって観念の中につくられたものであって、生命の律動に支えられた現実とはかならずズレがあるものです。この事実を認識して、理性は生命を前にして謙虚でなければなりません。この謙虚さを失った結果の一つが、公害という現代の最大の問題ではないでしょうか。
 したがって、人間の進歩は理性によるのではなく、理性を操作する直観の深化とその質的向上によるのだと私は考えます。
11  ユイグ 不幸なことに、現代社会は理性の狂信におちいっています。理性は必要なものであり、それなりに満足させてくれるものですが、現代社会はそれを、あまりにもしばしば論理と混同しています。そして、深い直観によってこれを培い、均衡を保たせることが、もはやできなくなっています。
 この点でも、現代社会は過去のあらゆる社会と異なっています。事実、過去の社会と現在の社会を対置するとき、種々の観点からみることができますが、最も基本的なことは、過去の人間は、上に述べた点で動物に近いものを保っていて、内面的理解にしっかり足をふまえて生来の直観と後天的な経験とを結合していたのに対し、現代社会は客観的事実しか認めようとしないことです。
 こうして、古い社会は、なによりも主観的経験を表現することに愛着をいだきます。宗教の基盤にある神話によって、霊を呼び起こし、人びとに語りかける暗示的なイメージによって、古い社会は自らに“憑いている”ものを、およそ論理的なやり方ではありませんが、理解し制御していたのです。そして古い社会はそれをその慣例と風習によって体系化し、これがしだいに伝統や掟の総体として具体化されたのです。これらは、合理的な性格を欠いており、また説明される必要性ももっていません。というのは、それはしばしば聖なる啓示に帰せられるからで、したがって宗教によって支えられているからです。
12  その反対に、現代社会は、とりわけ十八世紀に始まったその合理主義を確立することに執着しています。十八世紀が「光の世紀(SiecledesLumieres)」と呼ばれるのは、内面的啓示の暗い時代から論理的法則の明晰な時代に入ったことを印象づけるためだったのです。そして事実、それがなしたことは、この世界についての感覚的経験を合理的に組みあげることだけでした。以来、ますます功利的な性格を強めて進行する崩壊が、私たちを宇宙との内的接触から遠ざけ、もはや科学の論理的方法によって秩序づけられた感覚的証明しか信用しないようにしむけるようになってきたのです。
 同時に、私たちは慣例と風習の文明から、管理(それはやがて官僚主義にかわります)に基礎をおく文明へと移りました。管理主義あるいは官僚主義は、論証と純粋な論理と、そして、可能なかぎり科学的方法に従って練りあげられたと自負する法規に従って社会を組織化しようとします。
 こうして最後に出たのがマルクス主義社会で、これはその政治を、科学的自負のうえに打ち立てます。しかも、この科学的自負は完全に時代遅れなのですが、そのうぬぼれは、今も存続しているわけです。
 同様に、政治はますます社会学のほうへ向かいます。社会学は、物質の科学をモデルにして、その同じ固定観念によって、新しい科学としてつくろうとしたものなのです。
13  現代の社会は自然との真実の接触を断ち切ることしかできません。なぜなら、現代社会はほとんどもっぱら都会的になり、この断絶を早める傾向があるからです。農民は、どんなに抽象的な能力を培ったとしても、自分の周りに、生活の中に、それを均衡化してくれる自然をもっています。ところが都市で生活している人は、人工的世界の中に、いわば隔離されています。議員や閣僚といった法律を定める人びとは、ますます、技術的で型にはまった、自然のあらゆる経験を失ったこの社会の落とし子なのです。
 現代人は、このように自然から切り離されていることを感じて、自然を求めに行きます。しかし、それは見せ物以外のなにものでもありません。人びとは映画や芝居に“行く”のと同じようにバカンスや週末に“出かける”といいます。その役割は、屋外の見せ物ということになります。海岸で、バカンスの日の何時間かのあいだ、海をながめている“旅行者”は、映画のスクリーンに向かって座席に座っている観客と似た状態にあります。
 そのうえ、現代の文明がますます機械的になり、すでに話し合いましたように、機械化とは、また同様に生命の正常な表れである運動の抽象化の過程であることから、そこでは、なにもかもが、かくも深く、神秘的で多様かつ理解しがたい深みをもった現実の世界のかわりに、あまりにも完璧に論理的になった、人工的な、そして人工的であることの根本的な欠陥を刻印した世界を代用することに寄与しているのです。真実は、人間が合理的手段によってつくりだし、その意図だけを反映していることの“見せかけ”の背後に隠されてしまっています。
14  池田 仏教の哲理に照らすと、この現代の危機の問題が理性と欲望の機能の異常肥大とどんなに密接に結びついているかが明らかです。しかし、それにもかかわらず、これらの機能が人間の生命に本然のものであり、生命を維持するために不可欠のものであることも仏教は認めています。ただ、今日のそれは不均衡の状態になってしまっているのです。
 仏教では、この生命にそなわるものを三つの要素に区別してとんじんととらえています。
 これらは、いま述べましたように、自らの生命を維持するために、欠かすことのできない働きであり、生命体に本来そなわっているものです。人間の文明とは、端的にいえば、これらの欲望等を十分に、また効果的に満たすために生み出され、築かれてきたものであるといっても過言ではないでしょう。
15  そこに大きな役割を演じてきたのが理性です。つまり、理性は、欲望を助けて、欲望を満足させるために働いてきました。最も原始的といわれる道具の時代から、文明は理性の産物であったといえます。
 石を割ってつくられた刃や矢じりも、その角度のつけ方には、人間理性の鋭い観察と創造的工夫のあとがみられます。しかし、このことから、理性が主役であったと思ってはなりません。理性は補佐役であって、つねに主役は欲望等であったのです。自然の生み出したものを手に入れようとして、その目的のためにつくりだされた文明は、かんたんな道具から複雑な機械へという相違はあっても、欲望が主役になり、それを理性が助けたという関係での共同作業の所産であったことに変わりはありません。
 とくに現代の文明は、その力が自然体系そのものを破壊するほど巨大化しています。それとともに、文明のもたらす恩恵が、庶民大衆の欲望にいたるまで充足できるようになったことも、現代の特色といわなければならないでしょう。
 欲望は、一つが満たされると、他の欲望をひきおこし、一度満足されても、さらに大きく肥大します。現代文明は、この欲望の追求と充足を原動力として発展してきた文明の、いうなれば一つの頂点を形成しているわけです。しかも、人間の欲望はとどまるところをしらず、ますます増長の度を加速しているのが現状です。
16  仏教では、その最も初歩とされる小乗仏教に色濃くあらわれているように、欲望の問題を真っ向から取り上げています。人間の苦悩、不幸の根源は、貪・瞋・癡にあるとするのです。小乗仏教は、これらを直接的に抑制し、除去する方向に思索と実践を進めました。
 しかし、その行きつくところは、生命自体の否定におちいります。なぜなら、欲望は生命維持のために生命が本然的にもっている機能の一つであり、生命のあらわれの一面にすぎないのですから、欲望を徹底的になくそうとすると、それを必然的に起こしている生命そのものをなくす以外になくなってしまうからです。
 これに対し、大乗仏教は、欲望そのものを拒否し排斥するのでなく、一人ひとりの人間の心の中に、自らの欲望を正しく支配できる力を養う方向をめざしました。小乗仏教を実践しようとする人が出家者というかたちをとらざるをえなかったのに対し、大乗仏教が在家の信徒を基盤にすることができたのは、このためです。
17  では、欲望を正しく支配できる力は、どのようにすれば、人間の心の中に確立できるでしょうか。大乗仏教の経典は、さまざまな実践法を提示していますが、結論的にいえば、個としての自己の生命の中核となる“小我”を超えて、あらゆる他者と一体になっている“大我”を開きあらわし、この“大我”の支配権を確立することにあったといえます。
 もとより、あらゆる人間社会には、制度化された禁忌タブーや道徳律があり、それらが人間の欲望を規制してきました。大乗仏教も、これを無用とするわけではありません。しかし、それだけでは不十分であって、生命の内から自らを規制できる力の根源を樹立しなければならないと考えているのです。
 そして、まさしく現代は、野放しになった欲望と、高度に発達した理性の所産である科学とが結びついて、巨大な物質文明を形成している時代であり、他方、欲望を規制し、正しく導くべき伝統的な道徳や禁忌は、いちじるしく無力化しています。
 とくに、その底流にある個人主義への志向性を考慮に入れなければなりません。制度的道徳の否定と、欲望の解放、そして科学探求のいずれも、この個人主義の志向性と相互に補い合いながら発展した現象といえましょう。
18  しかも、個人主義志向は、人間の尊厳という理念と密接に結びついて発展したもので、これを否定するような制度的道徳の復活は、人間の尊厳性そのものを否定することになりかねません。もちろん、人間の尊厳は個人の孤立化によっては成り立ちませんが、自立は不可欠の条件です。したがって、個人主義――いい意味での個人主義をあくまでも根本としながら、他者との正しい共存関係を実現する方向を求めなければなりません。個人の自立性と他者との共存をどう調整するかは、各個人の判断にゆだねるのが根本となるでしょう。
 そのためには、制度的な道徳の復活ではなく、一人ひとりの心の中に、自らの欲望を規制できる力を確立しなければならないということが明らかであり、大乗仏教の行き方は、この要請に最もよく応えるものであると私は信じております。
 現代文明の危機という問題は、単純にこれだけに帰するものではありませんが、まずこの人間自身のあり方、生き方から立て直さないかぎり、他のいかなる努力も、けっして実を結ばないでありましょう。
19  ユイグ しかし、人間はそれを達成できるでしょうか。

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