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日蓮大聖人・池田大作

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自由と道徳  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  ユイグ この答えは、すでに欲望と憧憬との違いを区別したことから出てきます。
 欲望は、私たちに与えられた生理機能や性格といった無意識の深みからくるものです。それは衝動であり、したがって、人間がそれを導き抑制するためには、監督されなければなりません。それに対し、憧憬は、自己を改良し、人間性の不完全さを乗り越えようとする努力の反映です。
 この場合、社会の穏和な進歩のために社会によって設けられた道徳的尺度は、その平凡さのゆえに息苦しいものとなる可能性があり、憧憬は、ときとして、社会の法を超えて進まなければならないでしょう。
 そこから、道徳のあらゆる問題が提示されてきます。社会は、私たちの最も本能的な欲望から生じた衝動が、掠奪者となって、社会的均衡を害するようなエゴイズムを呼び起こしうることを理解しています。ですから、社会は欲望を監督しそれに足枷をはめざるをえず、そこで、個人の貪欲が全体の均衡をかきみださないために、さまざまな規律を設け、それを各人に課そうとするわけです。
3  しかし、“憧憬”によるならば、まったく違った行き方になります。憧憬は、私たちの自我があらわす独特の場合を通じて、生命の深いところからきた声を伝えます。それは、進化の法則に従い、不思議なやり方で、“創造”と、その最も明晰な部分である人間を推進して、よりよいものの獲得に向かわせるのです。それは、私たちを、現にあるところを超えたくなるように駆りたてますので、既成の規律というこの実際的な手段を超えるようにしむけることができます。
 憧憬は私たちの主体的自由の源泉であり、既存の秩序の枠の中に収まるだけにとどまらないものですから、この自由な主体性は法律によって限定されることは可能ですが、法律に対して、自由を完璧にするよう一つの圧力をかけることでしょう。
 そこに、道徳のすべての問題があります。現代はこうした規律を拒もうとしています。現代は、それらが古い社会によって立てられたもので、おそらく、あまりにも狭い公式化された理念によって硬化症に侵されていると思っています。現代は、とりわけ、これらの規律が自由の行使にとって重荷になっているという限界を認め、それに対して反抗し、拒否し除去しようとしています。
4  こうして、現代は、生命の正常な歩みである補整的律動に従っているのです。しかし、この方向にあまりにも進みすぎたならば、こんどは、反対の動きを必要とするでしょう。
 もし道徳が、その狭さに対する実り豊かな反抗によって、絶えず完成化されていくことができれば、それが必要なものであることはいささかも変わりません。それは、人間において基礎的な、よりよいものへの憧憬から生まれます。人間は、合理的思考の武装によって、これを法制化し、理念の固定した鋳型の中にこの憧憬を流し込んで、その理念に、命令や法典といったかたちを与えようとします。
 こうして、果てしない弁証法のゲームによって、よりよいものへの私たちの憧憬は、やがて道徳的規範が拘束的で圧制的になる可能性をもっていること、それは和らげられ緩和され改良されなければならないということを、私たちに感じさせます。道徳的規範がもはや窒息させるような公式でしかないときには、それに対する反動は正当化されます。あらゆる抽象されたものは動くことを妨げ、一つの固定したかたちを押しつけてくるのです。
5  現代が道徳に対してしかけている攻撃は、したがって、その最初の動機においては正当化されうるものです。しかしそれが、よりよいものを求める自由ではなく、放縦を説くようになると、危険なものとなります。社会が支配させようとしている法が不完全だからといって反対し、単純に本能にゆだね、この規範が到達した点から退歩することは有害です。
 ただ、自由が、到達された一つの段階でしかないすべての規範、したがって、退嬰主義の脅威に対して、無限の努力として働いていく場合にのみ、それは正当化されます。必要なことは、自由が、この静止状態に対して、創造的な役割を演じ、進歩の一つの道具として持続されること、より高度な“質”への新しい道を道徳に提供することです。
 歴史は、弁証法的に持続しかつ発展していかなくてはなりません。本能は、社会の完成にとって必要な法に対する集団的意識によって抑制されねばなりません。しかし、この法が打ち立てられるや、それと反対の弁証法則が、この法と、さらに遠く高く行くよう求める憧憬とのあいだに当然のこととして生じてきます。道徳においては、芸術におけるのと同じく、創造的な力があるのです。
6  池田 動物の場合は、その種によってどのように育つかはほとんど決定されていますから“氏”がすべてですが、人間の場合はどのようにもなりうる可能性を多く残して生まれてきますから“育ち”がほとんどその“人となり”を決定します。動物が誕生以来、定められた道を一直線に進んでいくのに対し、人間は前途に百八十度の選択の広野をもって生まれてくるのです。この大きな自由度が、人間の尊厳性を実現する基盤でもあり、人間が悪魔にもなりうるゆえんでもあります。日本の諺でも「氏より育ち」といわれてきたのは、こうした人間のあり方をいったものなのです。
7  古来、人間の本性について多くの哲学者、思想家が、あるいは善であるといい、あるいは悪であると主張し、性善説、性悪説を繰り広げてきましたが、このように両極端の人間把握がなされるのも、どのようにもなりうる大きな自由度を人間はその特性として有しているからにほかなりません。人間の本性は善でも悪でもなく、善悪いずれをも実現できる空白をもち、その空白をいずれにも染めうる両面の力を本来有していると私は考えます。
 この両面の力について、あなたは“欲望”と“憧憬”ということばで表現されましたが、あなたのことばを借りていえば“欲望”とは動物的・本能的なエネルギーであり、“憧憬”とは人間的・創造的なエネルギーといえるのではないでしょうか。人間はこの二つのエネルギーのいずれをも発現できる自由をもち、したがって自己をいずれかの強い影響下におくことによってどのようにもなりうる可能性をもっているのです。そして、いずれの力によって自己を支配するかという選択権を与えられ、つねにその選択を迫られているところに、人間的苦悩の本質があります。
8  動物は本能による決定論によってこの苦悩からまぬかれており、同時に決定されていることによって自由のもつ危険からもまぬかれています。しかし人間は、そのときどきに選択し、決定しなければなりません。その選択、決定において自由のもつ危険を犯さないためのルールとしてつくられたのが法律であり、社会慣習としての不文律のしきたりや掟であると考えます。これはある意味では自由の制限であり、他律的な自由の制御といえます。こうした制限、制御は、ある場合は支配者の利益のために生み出され、ある場合には人間性に対する不信にもとづいて生み出されています。こうしたものにもとづく自由の規制は、いずれも精神的後進性を物語るものでしかなく、時代とともにその拘束性が自覚されて、やがて打破への動きが生まれます。支配者の利益にもとづく自由の規制は、本質的に人間の尊厳性を抑圧しようとするものであり、不信にもとづく規制は性悪説を背景に人間の尊厳性を軽視しようとするものにほかならないからです。それは消極的、防御的なものであり、積極的、開拓的に人間の尊厳性を実現しようとするものではありません。
9  したがって、これらを打破しようとする動きは、人間の内面的進化の証明であり、あなたのいわれる“憧憬”の力に発するものですが、おっしゃるように法律や道徳的規範の拘束性への自覚が反動を正当化しますが、これがやがて放縦におちいる危険性をもつことも否定できないのが人間の現実です。そこで私は、自由というものを、もう少し違った視点から考え直す必要があるのではないかと思います。
 自由というものは、一般的には広い意味での行為の自由として認識されています。もちろん行為の自由というものの保障がなければ、いかなる自由も無意味ですが、しかし自由に行為しうることがそのまま人間の尊厳を実現することにはならないことも事実であり、むしろ一見自由とみえる行為が、じつは目に見えないなにものかに拘束されていることが多いということに気がつかなければならないと思います。この問題が解決されなければ、行為の自由というものは人間にとってつねに諸刃の剣でありつづける以外にありません。
10  ここで私は法華経の中の一節をご紹介したいと思います。それは「常に地獄に処すること園観に遊ぶがごとく、余の悪道にあること己が舎宅のごとし」という譬喩品の一節です。“地獄”とは人間として最も不幸で苦悩に満ちた悲惨な状態であり“余の悪道”とは己を高く持して他を睥睨する権威主義に堕したり、弱者の不幸を顧みる思いやりもない利己主義におちいったり、本能的欲望に心を支配されたりといったような人間として忌むべき状態を意味しますが、自らがそのような状況におちいっていることを自覚できず、むしろそれを楽しみとさえ感じ、それが最も自分として安定した姿であると感じて、それを問い直そうとしないことがあることを、この経文の一節は指摘しています。園観に遊び、己が舎宅に住する以上は、その人は自由に行為していると自覚し、たしかにその意味で自由であることは間違いありませんが、こうした非人間的状況に対して無自覚であることが、真に自由な人間であるといえるか――ここに最も根本的な問題が提起されてきます。
11  たとえば憎しみにとらわれて復讐を誓う人を自由な人間といえるか、権力欲に支配されて権謀術数に明け暮れる人の日々は、真に自由を実現した人の生活といえるかということです。したがって私は、自由というものの究極の問題は、人間の内面性の深化ということに尽きるのではないかと考えます。たとえばピアノを前におかれたとき、人はそれを他人に売り飛ばすことも、ハンマーで叩き壊すことも、でたらめに鍵盤をたたいて騒音を出すこともできますが、真に価値を創造するためには、自由を恣意的に用いてそのように行為するのではなく、自律的に制御をして演奏の技術を習得することが必要であり、最高の価値を生むためには最高の技術を体得しなければなりません。自らをそのように律しうるところに自由の極致があり、そのような自由を獲得していくところに人間の尊厳性があると私は考えます。

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