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日蓮大聖人・池田大作

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欲望と憧憬  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  欲望と憧憬
 ユイグ あなたは、私たちを束縛している運命の総体を“業”として描くことにより、意志によって強化された“道徳的飛躍”は“精神的飛躍”がよりよいものとしてあらわれる方向へ私たちを導いてこの運命に反抗することを示され、しかも、それとともに、よい業と悪い業の区別もされたわけです。これは、私にとって驚嘆すべきことです。このことは、私たちにとって中心的な問題点を理解するうえで助けになります。
 相対立する二つの条件を体系的に対置して、一方は決定論、一方は自由と分け、教条主義的に、したがって安易に割り切ろうとする誘惑に負けることのないようにしましょう。フィヒテ(ドイツの哲学者)が“懐疑”を分析して、それが決定論でしかありえない客観的思考と、自由の証である主観的感性との合成と矛盾の結果であることを、その著『人間の目的』の中で示したのは、すでに一八〇〇年のことです。
 論理によって窒息させられた精神にとっては相容れないとしかみえないさまざまな局面をもった現実を把握するには、心理学に頼るのがよいでしょう。そうすると、私たちの内に異なった、基本的な二つの圧力が働いていることがわかります。
2  一つは、直接的で衝動的なもので、私たちを縛っていて、私たちが“運命”と呼んでいるもの、つまり、あなたが「経験を通じて得られた本能と本能的衝動」という中に含められたものすべてに従わせています。私は内面世界からきた指令と外面世界からきた指令とを万力の二つの歯にたとえ、その総体が私たちの“決定論の部分”をつくっていることを示しましたが、ここでもまた二つの歯が私たちのうえで閉じてくるのです。
 しかし、進化の全体があらわしているのは、私たちの最も深い本性、たぶん、さらにその向こうからくる、もう一つ別の力で、これは上昇の流れです。それもまた、一つの本能として、私たちを実現し、私たちを超克するよう語りかけ動かす力です。
 この第一の力が欲望で、第二が憧憬です。そこでもまた、生命の本源的な法、すなわち、相対立するもののあいだにある緊張が働いているのです。私たちが従っているのは運命にではなく、二つの極のもっている引力にです。この二重の引力の調節の仕方が私たちを左右します。欲望の充足は、その飽満へと私たちを押しやるか、あるいは私たちがそれによって、進化とその予感される究極性に参画するこの飛躍をひきおこします。
3  私たちは、動物的な出発点に引き戻そうとする重みに身をゆだねるほうを選ぶか、あるいは、それに打ち勝って、創造に一つの意味を与え、未来を開く上昇の流れに与するか、いずれかです。
 そうです。現世の欲望は、私たちを“感覚と欲望の奴隷”にして自由を奪います。しかし、憧憬は一つの決断力であって、私たちを自由にします。したがって、そこから明らかになることは、物質が現世欲の本来の分野であるのに対し、質だけが憧憬を説き明かすのです。事実、現世の欲望は、すでに存在しているもの、私たちの前にあるなにかに向けられます。それに対し憧憬は、世界の秩序の中にはまだ存在しないなにかに向かうもので、すでにあるものに満足せず、私たちが現にあるより以上のことを求めます。
 そして、そこで私たちに求められるのは、量的意味をまったく除いた“より多く”です。それは質の秩序の中に入っており“よりよいもの”と一つになっていくわけです。
4  繰り返しになりますが、物質科学は、その名前が示すように、ただ物質的分野に適用されるものです。つまり、物質と量の分野にのみ適用されるのであり、それによって物質科学は、必然的、ほとんど運命的に、内面的な道への意識と質の観念を曇らせました。現世的欲望は“より多く”を求め、憧憬は、“よりよく”を求めます。これらのことばの区別は、事実の要求に応えてなされたものにほかなりません。この二つは反論の余地のないほど明白であるからこそ、これら二つのことばがつくりだされたのです。
 ですから、憧憬は、まだ存在しないもの、そして人びとがこの世界の中に導入したいと望んでいるものを創始しようとします。それは創造を導き、自由の道の先端に位置しています。
 それがみられるのが芸術家においてです。芸術家がある作品の構想をいだくのは、一面では、それを実在化するためであり、したがって、それを具体化することによって、自分の胸中に見てはいるがたんに潜在の状態にあるなにかを他の人びとに示すためです。それは、現実の中にまだ見いだされない一つの“質”の要素を導き入れるためでもあります。彼は、外的世界の中に、自分が欠けていると感ずるこの物体をつくりだすために、のみ、あるいは、筆を手にするのです。
5  したがって、そこには、創造の行為、存在しているものへの断固たる発明・付加の行為があるわけです。事物の既存の秩序を修正するこの個人の自発性は、人間に固有の自由のあらわれです。人間だけが、物理的宇宙の決定論の中にまだ存在せず、また入ってこないなにかを予感し欲するがゆえに、この世界に付け加えるこの力をもっているのです。彼はこの物理的宇宙から“圧力をうける”かわりに、それに対して“衝撃を与え”ます。学者も、創造者となったときには、これと同じ働きをします。
 人間は、なにかを前にして、現実が彼に提供する一つの対象を前にして欲望を感じているときには、それに“忍従”し、したがって、決定論の体系の中に入っています。しかし、そこになにかを加え、他の人には予見できない質の水準に到達しようと熱望しているときには、彼は創造的な一つの行為、一つの自由な行為を準備しているわけです。その形式は、なるほど彼がうけている種々の影響に依存していますが、その質はそうではないのです。
6  ですから、自由の本質は、この“質”に存するのです。そして、繰り返し申し上げますが、この飛躍は人間にのみ属するもので、人間固有のものであり、少なくとも理性と同様に、最も近い動物からも人間を区別しているものなのです。
 芸術における作品について真実であることは、存在における私たちの行動についてもまた真実です。実際的な目的は決定され予見されることが可能ですが、それに生命を吹き込む道徳的質というものは、そうはいきません。自由は二つの道を用意します。そしてこのゆえに、伝統的な哲学が教えるように、美と善とは、必然的なそしていわば並行的な二つの原動力であるわけです。
7  池田 いまあなたがいわれたことは、私が日ごろ考えているところとまったく一致しているので驚くほどです。
 人間の自由の拡大は、外界の事象の支配に対してと、“自我”の内にあるもろもろの力による支配に対してとの、両面の戦線で繰り広げられるべきものです。科学技術の発達を中心にした文明の発展は、外の世界での自由の拡大を人間にもたらしました。このおかげで、自然の災害が与える苦しみは大幅に減少してきましたし、飢えの苦しみも、いくつかの社会ではなくなっています。
 しかし、その半面、自己の内にある力に対しては、とくに人間的堕落をもたらす本能的衝動や欲望の力に対しては、むしろ、それを解放してしまうという誤りを犯しています。外の世界に対する支配力の拡大自体、こうした欲望への服従を代償にして得られた勝利であり、あるいは人間が欲望の奴隷となって咲いた結果であったといっても過言ではないように思われます。
8  私は、こうした人類の近代史の歩みをみるとき、広く知られてきたファウスト博士の話を思い出さずにいられません。彼は、若さと富を得るかわりに魂を悪魔に譲る約束をします。ゲーテの作品では、ファウストは最後に神(聖母)に救われ、悪魔のメフィストフェレスは大いに悔しがることになっていますが、現実の人類の場合、最後の土壇場で、首尾よく救いの手をさしのべてくれる“聖母”はいるでしょうか。
 私は、現実は、はるかに峻厳なものであり、これを支配しているのは法であって甘えさせてくれる“聖なる母”などではないと思います。したがって、人類は自らの意志で、自己の最も尊い魂を、浅はかな欲望の満足のために代償にしようとした誤りを正し、内なる生命自体に対して、これを支配するための戦いを開始すべきであると考えるものです。
9  仏教における“業”は、西洋で運命(destin)と呼んでいるものに対応しています。しかし、業とは“行為”の意味で、それが、その人自身の行いによって生じた結果であることを示しています。どのような性格構造をもち、どのような環境的条件に生まれるか、つまり、内面的にも外的条件の面でも、その人の現在の存在のいっさいは、業によるのだという考え方です。それは、神などといった第三者が定めたり、動かしたりしているのではないということです。
 ですから、すでに述べた私たちを束縛し支配しようとしている内的・外的両面の力のすべてが、この業のあらわれとして含まれるわけです。その意味で、仏教の考え方では、自由という問題は、業との戦いという視点でとらえられることになります。
 あなたもさきほど指摘されたように、それと同じく仏教の中にも、業を固定的で不変の、したがって、ただそれに従うしかないものと考える人びともいます。しかし、仏教経典の中でも法華経は、そうしたあらゆる業の形成の源にある根源的生命を顕させることによって、業を自由に使いこなすことができる方途を教えました。
10  身近な次元でこの原理をいうと、たとえば、人間だれしも欠点をもっています。これにも、身体的・精神的の両方がありますが、短気という一例を考えてみましょう。短気といえば性格的欠点とみられがちですが、逆にいえば、行動的という長所にもなりえます。それは、そのあらわれる場面によって、欠点ともなれば長所にもなるわけです。もし、このことを自覚して、欠点としてあらわれる可能性が大きい場合は自分を抑制し、長所としてあらわれる公算が大きい場合は、存分に持ち味を発揮できるようになれば、短気という性格的特徴の業を使いこなしていけることになります。
 広い意味では、人間の教育それ自体が、自由の拡大のための力を各人に与える試みといえましょう。しかし、それがたんに外的世界の面のみの自由にとどまるのでなく、自己の生命の内にあって、しかも深い無意識の底からわきおこってくる力に対しても自由を得ていけるには、仏教の教えるような、人間生命の変革が必要になるでしょう。
11  ユイグ こうして、人間について引き出そうとしている概念がこの私たちの対話をとおして、明確になってきたわけですが、必要なことは、完全な人間、全体的な人間をめざすことです。それを私は、歴史的な意味においてでなく、最も広い意味で、ヒューマニズムと呼びましょう。そして、この完全な人間とは、三頭立ての馬車になぞらえられます。一頭は感受性であり、それは外界の現実が感覚によって私たちに送ってくるメッセージの受容です。また、そこにはこれらのメッセージに対する反応や、無意識の深みから上ってくる深い憧憬といったものの自覚も含まれます。
 第二の駿馬は知性すなわち、これら内外のメッセージの重要性を意識し、それを明快に理解し、論理的に構築でき、概念として表現できる能力です。それに対し、第三の駿馬は意志であり、つまり、私たちの内に生じ、責任感によって鞭でせかれる憧憬に私たちを服従させようとするさまざまな呼び声の中から、自由に選択する能力がこれです。
 これら三つの力の組み合わせによって、人間は完全に自らの能力と自分の運命との所有者になることができるのです。運命は、一面では受け入れられるものです。しかし、それはある種の人びとが信じているように、ただ従う以外にないというものではなく、一面では、芸術作品のやり方で創造されるものです。そこに、人間のもつ最も偉大な高貴さがあります。

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