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日蓮大聖人・池田大作

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自由の問題  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  池田 このことは、あなたが示された、人間存在にいたる生物学的推移を想起させてくれます。つまり、脊椎の延髄から爬虫類の脳へ、旧皮質から新皮質へ、そして最後は前頭葉にいたる器官的発展です。
 私は、この進展は、自由の拡大の過程に合致しているものであると考えますが、いかがでしょうか?
 すなわち、人間は、他に類をみないほど優れた存在にもなりうる一方、他のなにものよりも恐ろしく卑しい存在にもなりうる“自由性”をもっているということができます。自由性とは、いいかえれば、不安定さです。この自由を、人間が価値あるものにすることができるかどうかは、自己を正しく認識するとともに、自己を規制・支配できる力を各人がもつかどうかにかかっていると考えます。事実、人間はその“智慧”を高度に発達させることによって、業の果に直面したとき、それを自らのよりよい未来のために価値を生じていくよう処置することができます。また、たとえば身体的な欠陥はあっても、それを補うことができるのも、その一例です。
3  宿業そのものは、きわめて決定論的ですが、それに対処するうえでの自由が、かなり大幅に人間にはあり、そうした自由をもった存在として生まれてきたこと自体、過去のよい業因による結果なのです。そして、なによりも、宿業の支配・束縛に対処しうるための強い主体性の確立と、生命の力をわきだす根源が第九識にあるのです。
 いうまでもなく、業自体、善の業と悪の業とがあります。悪業とは煩悩や苦しみをもたらす種子であり、この種子が芽を出し成長して第七識以下の領域に顕在化し、煩悩や衝動として働くのです。心理学でいう本能的衝動も、この中に含まれると考えられます。また、条件反射といった後天的な諸本能は、先天的な宿業を基盤としつつ、生誕後の生命活動の経験を通じて形成されたものといってよいでしょう。
4  ユイグ もし現在の危機その他の中に没するのでなく、自らの運命を遂行しようと欲する以上、各人が分担しなければならない主要な役割、人類全体が担わなければならない主たる役割は、あなたが“智慧”と呼ばれる、この精神的領域を発展させることです。この領域こそ、他の動物にはない、人間に固有のものであり、まさしく、これによって、人間は動物を超越したのです。それは、一つの完成の度合いを示す、頂上へ向かっての上昇の過程であり、人間によって、一つの頂に達したのです。
 ですから、人間の存在理由自体、“精神的飛躍”と呼ぶことができるようなもの――“道徳的飛躍”と結びついているわけですが――に求められるべきです。精神的飛躍は、私たちにとるべき方向を指し示してくれます。そして、道徳的飛躍は、私たちの内にあって、この方向をとるための手段を発達させ、それに私たちを従わせる力を、私たちのために手に入れてくれます。
 ですから、精神的飛躍は道徳的飛躍と不可分であり、道徳的飛躍のほうは、いわば、それによって精神的飛躍がその使命を達成する手段を仕上げることでしかないわけです。
 道徳的飛躍は、その名に値するすべての宗教にあらわれています。非常に原始的なある種の宗教の道徳的尺度は、社会とその社会の要求とに明らかに結びついていますが、それにしても、社会学的道徳しか信じないというのは明白な事実を否定するものです。
 精神的飛躍と同じように、道徳的飛躍は人間において明瞭であり、仏教におけるように、キリスト教においても、基本的なものです。この点でも、私たちは、遠く離れた二つの岸からきながらも、見解の一致に達するのです。
5  池田 仏教の実践者が努力してきたことも、外界からの束縛と自己の内なる運命の力を克服するために、より高度な精神的生命を開拓することであったといえます。
 すでに申し上げたように、そうした精神的生命を支える最も力強く、広大な基盤は、アマラ識と呼ばれる第九識にあり、これを自ら覚知するとともに顕している人を“仏陀”と呼びます。本来、アマラ識は、いかなる人の生命の中にもあるのですが、その実在を覚知することが容易でないだけです。
 すべての人に、普遍的に本来、実在しているという意味で、これは、内在する“法”であるわけです。あたかも、科学者が、外的世界の中に普遍的に実在する法則を明らかにするように、仏は、生命の内奥に実在する普遍的な法を覚知し、これを明らかにして人びとに伝えるのです。ブッダとは“覚知した人”の意で、ボーディすなわち“覚り”、“智慧”を得た人を意味しています。
 仏教の説く真理は、この生命の深い事実の姿であり、仏教の教える実践法は、この真理をすべての人が、仏と同じように覚知するための、自己開発の方法なのです。
6  これは本格的には、ヒューマニズムの問題を話し合う中で論じたいと考えていますが、仏教は、生命の状態を十種類に分けて示します。その最も高度な状態として位置づけられているのが、仏の状態です。それに対して、最も低位におかれているのが地獄です。この高度か低位かを分類する基準になっているのは、自由の大きさであるといってよいでしょう。
 なぜなら“地獄”とは、日本語の意味は、大地の中にある牢獄ということで、いうまでもなく、牢獄とは自由のないところであるからです。仏教の教えにおいても、地獄を説明するのに、縛られ繋がれて自由がないことだといっています。
 それに対して、仏とは覚り、智慧を得た人ということであって、それだけをみると、自由という概念と無関係のように思えます。しかし、フランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェーユが明らかにしているように、智慧こそ、自由への主体的な要因であり、真実の自由は、智慧によってこそもたらされ、勝ち取られるのです。
 人間は、科学の知恵によって外界の物質的世界における自由を勝ち取ってきました。しかし、人間自身の内なる生命の世界に渦巻く煩悩や宿業の強い束縛の力に対しては、外の世界へのみ目を向けていては、けっして自由を得ることができません。私は仏教の哲理と実践法は、この内なる世界における究極的な自由への道を開くものであると信じています。

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