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日蓮大聖人・池田大作

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自己抑制力の獲得  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  自己抑制力の獲得
 ユイグ 東洋も西洋も、危機に直面して、今日の外の世界に向けた認識に加えて、少なくとも、あなたが第七識として示された自己認識をもたなければならないことを理解する必要があるということで、私たちの意見は一致しております。
 しかし、もし、外界に対する抑制力と並行して自己抑制力が加わるのでなければ、それは不毛になってしまう恐れがあります。それなくしては、この認識はなんの報酬ももたらさないで終わるでしょう。自己に働きかけることができなくして、自己を知ってもなんの役に立つでしょうか?
2  さて、現代は心理的現実を物理的現実の偏狭なモデルによって知ろうとした結果、心理的現実を物理的現実と同じ決定論にしたがうものと思い込む傾向をもっています。そこでは、私たちのあらゆる思考、感情、行動はその起源とその説明を、私たちが圧迫をこうむっているもろもろの“原因”の中に見いだし、物質的・社会的なものは外から来、心理的なものは、私たちの生理と無意識の底からくるとされます。
 もっとも力のない弁護士でも、すべての判事が、この現代の信条に侵されていたなら、有罪を宣告するだけの勇気はないであろうということがわかるはずです。なぜなら、犯罪の背景には“社会”の絶えまない、忌まわしい圧迫があったのであり、あるいは、遺伝によるか、成長の過程にあってか、いずれにしてもそこで培われた衝動に、その要因があったことが見いだされ、したがって、すべては避けられず、やむをえなかったことになるからです。
3  同様に現代の人びとが求めている自由とは、とりわけ、法的規範や道徳的規範から解放されることです。しかし、それは、たちまち堕落して、自分の衝動つまり運命に屈する自由にすぎなくなってしまいます。自由は放縦になるのです。
 ところで、人間にとって必要な自由とは、自己抑制力からくる自由です。そして、人間は、自分を圧迫する運命と戦うことによってのみ、この自由をうることができるのです。運命は二つの種類からなっており、あたかも人間は、いわば万力の二つの歯のあいだにはさまれているようなものです。第一の歯は外的世界によってつくられたもので、この外的世界は与えられ課せられたもので、人びとはそれに働きかけ、そこに加わることができますが、それはそのあるがままのものです。第二の歯は私たち自身にあり、しかも物理的世界に依存しています。それは、私たちの肉体的構造の結果である運命の総体によってあらわされ、私たちの心の働きの基盤であり支えであるとともに、それを条件づけているものなのです。
4  たしかに、この基盤は巨大なものです。なぜなら、氷山のように、表面に出ていて私たちが知覚できる部分は、深部に隠れている部分にくらべてはるかに重要度の少ないものであるからです。この隠れた部分こそ、私たちの生理の中に入り込みながら、遺伝、気質、あらゆる身体的拘束といった運命に従っているもので、それに教育、人格形成、環境等々の制約が加わっています。
 人間は、これら二つの支配力に従っていくのであり、これらは、ある意味で同じように客観的なものです。というのは、一方にあるのが、私の外に、私と向かいあって自分の感覚で確かめられる、物質的なものの客観性であるのに対し、もう一方は、私自身の内で私の人格に対して、身体の全重量をもって、身体の命ずるものを課してくる物質的なものの客観性であるからです。
 両方とも、それから逃れることのできない束縛として働きかけてくる決定的なものです。一方は外の世界の束縛でもあり、他方はまた私を形成している生理学的現実のもたらす束縛です。後者の生理学的現実というのは、本能に従っている動物に全般的なもので、そこに条件反射という後天的な諸本能が加わります。
5  動物は、この本能の力にさからってはなにもできませんが、人間は自己の内面的生命にある精神的部分であるところのものによってそれと戦うことができます。遺伝や後天的な習慣の結果である生理面に刻まれた運命的な力のうえに、一つの光がともります。この光が、厳密な意味で私が精神と呼んでいるものです。それは、意識がたんなる記録テープであることをやめたところから始まるのです。
 この精神的な生命は、事実、人間を服従させようとする決定論を乗り越えて、人間の自由が始まる領域です。ですから、この領域は、一方ではすべての人に同じように課せられている外的な事実に対決します。そこに科学の扱う素材があります。
 しかし、他方では、身体的組織から生じ、私たちの心理に働きかける他の圧力に対峙します。精神の領域はこの圧力を克服し、変え、そこから自分の光をうるのです。それは、石油の井戸の頂に燃える炎と同じで、精神は身体の鉱脈で身を養い、そこから生じ、その素材を炎に変え、その明るさによって夜の闇を破るのです。
6  精神は、圧迫しようとしてくる万力の歯の運命から逃れんとするこの本質的な領域の中に、まさに宿ります。そこに精神の自由と精神的意識の中核があり、人間が自らの生理的現実、精神身体的条件に対して、一つの反撃力によって働きかけることができるのは、この精神的意識の発達のおかげなのです。
 そこで精神は、本能や、そこからうける衝動について認識をもつでしょうが、それはこれらを自らの意志に服従させるためです。同様に、欲望をかきたてようとして外の世界からくる誘惑についても認識し、それを自らの法則に従わせることを学ぶでしょう。
 “知性”は、欲望に命令を下す本能と、その充足をもたらしてくれる外の世界のあいだにあって、私たちにそれらを合致させるための有効な手段を提供します。それとまったく反対に“精神”は、その光の中にしか姿をあらわさない別の目標の実現へ向かって、私たちのエネルギーを導くのです。それは私たちの身体と生理から生まれる力を強制し別の目標へ引っぱっていこうとするとともに、彼の見ている世界を、もっぱら私たちの欲望や本能的衝動の増大の対象としないようにも努めます。
7  これらの二つの力のあいだにある精神は、二つの傾斜面をもった屋根の瓦に似ているといえます。どちら側でも、降りると、人間を支配している運命の力に屈することになります。しかし、どちらの傾斜も、上れば二つのあいだに頂上があるのがわかります。この頂上つまり“棟”は、最も高い部分で、屋根の上にそびえ、屋根を支配しています。
 これがまさしく精神的生命で、私たち自身の内面に課せられた条件も、外面に課せられたそれらをも等しく乗り越え、これら二つの弱みにもなりうるものをよじのぼることによって、高みに立っているのです。
8  池田 人間生命に包含された“内なる束縛”を、仏教では、先に述べた八識・アラヤ識に刻まれた宿業と、第七識・マナ識につきまとう煩悩――すなわち、種々の生来的あるいは後天的な衝動に求めます。
 第七番目の識につきまとっていて生ずる煩悩も、その潜在的なエネルギーの源は第八番目の識にもっているわけですから、第八識・アラヤ識こそ、人間の生命を突き動かしている運命的な力をはらんでいる領域であるといえます。
 この第八識は、個としての生命体において肉体と精神の両面で根源的なもの、したがって、個体の肉体的構造や、その特質とも不可分であることは、いうまでもありません。あなたが「肉体的構造の結果である運命の総体」と表現されたのは、この仏教の示している、アラヤ識に沈潜した宿業のうちで、生理学的な側面にあらわれたものを意味していると思います。
 宿業は、その個体が誕生したとき、すでに生命の根源にはらまれている業をいいますが、いまいったことからすると、それには、生理学的な業と心理学的な業とが含まれるということになります。
9  生理学的な業とは、体質とか身体上の遺伝的な特徴を形成するもので、一方、心理学的な業とは、精神的資質の基盤をなす潜在的な要素をつくっています。そして、生理学的な束縛に決定論を含んでいることは、あなたもいわれているとおりですが、心理学的な業による束縛についても、仏教は、決定論が貫かれていると説いています。
 また、さらに、生誕時にはまったく表面にあらわれなくとも、業は、その生命の内深く刻まれているとされており、肉体的・精神的資質とは無関係にみえる、人生途上の事故等としてあらわれるものもあるわけです。
 仏教は、このように肉体的・精神的の両方にわたって宿業があることを説き、そこに貫かれている決定論を業因・業果の関係によって示しています。そして生命活動の結果としてひとたび第八識に刻印された業は、そのままではけっして消滅してしまうことはない、とします。業は、業因すなわち潜在的なエネルギーとして蓄えられ、やがて未来のある時点で業果すなわち顕在的な力となって発動してくるのです。したがって、生命主体は、この因果の絆の束縛から逃れることはできないわけですが、それに対して、なにもなすすべがないということではありません。

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