Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

認識の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  とくに仏教においては、仏教者の実践と思索の積み重ねによって、生命の構造に関する詳細な理論が構築されてきました。
 このような仏教の理論の中で、西洋の哲学でいう認識論とともに、今日の精神分析学とも深く関わる問題の一つに、唯識論があります。この唯識論というのは、たんに認識上の理論にとどまらず、その認識という作用をなす主体の生命を問題にした存在論でもある理論です。
 つまり、唯識の識とは“わかち知ること”であるとともに“わかち知るもの”でもあり、認識作用をさすとともに、認識の主体である心自体をも意味しています。こうして認識論と存在論が一体不可分となっていることは、認識主体の心の変革が、認識の作用のうえに新しい視野、世界をもたらすことをあらわしています。
3  さて、仏教では、人間の生命の営みを五つの要因の結合としてとらえます。すなわち、色(肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識の五つです。この中で中心になるのは、いうまでもなく“識”で、主観的認識作用であるとともに、その主体でもあります。
 唯識論は、この“識”を焦点にすえて、生命の営みの過程をとらえ、さらに、生命の内面の領域へ解明の歩を進めていきます。
 まず、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の各感覚器官のそれぞれに“識”があるとされます。たとえば眼の識は、眼という感覚器官をとおして外界を認識します。しかし、これらの“識”は、一面的な認識しかできませんから、そこから伝えられた情報を集結し、総合し、全体像をとらえるとともに、それに対して対応を決定する中枢機能が必要です。それを行う識が第六番目の識で、これを“意識”と呼んでいます。意識の機能が行われる場は、いうまでもなく、大脳皮質です。
4  意識とは識知し思考する心であるとされています。要するに、五識の情報を総合して概念的に事物をとらえ、それにどう対応すべきかを思考・決定するもので、それ自体、かなり高度な精神活動といえます。しかし、この第六識がなしうるのは、あくまで、外界の事象との対応であって、五官、五識を経ない、自らの内面の世界に関しては、まったく無力です。
 あなたが、西洋の知性は、外の世界に目を向けてきたといわれるのは、この第六番目の識の領域にとどまっていた、あるいは、そこに重点をおいてきた、ということと同じです。
5  東洋の仏教では、この第六番目の識からさらに進んで、五官の識ではとらえられない内面の世界を把握するため、第七番目の識へと目を向けました。これは“マナ識”といわれるもので、自己の内面をみつめる心です。マナとは思慮という意味です。いわば、深い内省的・瞑想的な思考作用であり、またそうした思考をする主体でもあります。しかし、それは同時に、強い自我意識につきまとう衝動や情念の生ずる源泉ともなっているものです。そこで仏教は、そうした衝動や情念の種子ともいえる、業の蓄積されている第八識“アラヤ識”へ分け入り、さらに宇宙生命そのものというべき第九識“アマラ識”に到達しました。
 この問題については、さらにあとで論ずることにしたいと考えていますので、ここでは、略させていただきます。ただ、この中で、第八識までは個の生命を形成している部分であるのに対し、第九識は宇宙と一体になっている普遍的な大我の領域であるという点に注目しなければなりません。しかも、仏教がなによりも重視しているのは、第九識を覚知し、それを顕させることであり、そこから第八識に含まれる個人の運命的なものに対する支配を樹立できるということです。
6  私は、西洋においても、あなたがあげられたように、芸術家、詩人、神秘家、宗教家等として、深い内面的生命を守るために戦ってきた人びとがいることを知っていますが、彼らが予感し、垣間見たのは、まさに、この仏教の説いている第八識ないし第九識にあたる深層の世界であったろうと思います。
 洋の東西を問わず、人間の深い内面的省察と鋭い直観は、そうした深層世界を、漠然とにせよ、明瞭にせよ、見ていたにちがいありません。そして、私は、この生命の内奥への探究を基盤にしたとき、イデオロギーや文化の相違をこえた、最も深い次元での人間愛の絆が結ばれていくであろうと信じます。

1
2