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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 生命の内面的変革  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  ユイグ あなたが指摘された欠陥が、まさに、とりわけ西洋を害してきたものです。しかも、残念なことに、それは拡散し、あなたも認められるように、いまや日本が、工業化社会への急速な変貌によって、同じサイクルの中にはまりこんでいます。
 この問題について責任があるのは、行動性と効率を好む西洋人であり、外の世界に対する支配を増大するために科学を発明した西洋人です。そして、過去幾世紀かにわたって、このゲームを先導し、世界を征服したのは、西洋人だったのです。
 西洋人が他に先駆けて、環境世界とそれがもたらしてくれるものについて厳密に表現する諸能力、したがって本質的に知的な能力を発達させたのは、この必然の結果です。この能力によって、感覚の働きを通じて正しく知覚することができ、つぎに、その結果もたらされる印象をコントロールし、それを、理念の段階したがって抽象化の段階をとおさせることによって普遍的価値を付与しながらすることができるのです。
 この抽象(abs―traire)するということばは、その語源が表しているものを、きわめてよく物語っています。抽象するとは“~から引き出す(ex―traire)”ことです。事実、人びとは特定の事物に結びついた感覚的なものの漠然としたかたまりから、さもなければ、その自律性の中で別々のものと感じられるような諸現象を統一することのできる、恒久的で一般的な条件を抽出します。
3  このことから人びとは進行性の乾燥化におちいりました。私たちの精神生理学的な身体組織が、このことを確証しています。その点を私たちは見たばかりです。人類に特有なものである大脳新皮質は、私たちがもっているさまざまな表象のあいだに、相互の関連・関係と同一性を打ち立てるのに役立ちます。それはしだいに“経験したこと”のかわりに、その代役をする“考えたこと”をおくことを可能にします。
 彼は情動性から脱却しますが、しかし、その半面、一つの一般性をかちとります。この一般性は、“感じたもの”にはないもので、“感じたもの”はつねに偏っており、自らを呼び起こした現象から離れられません。
 大脳新皮質と、この大脳新皮質に付随している能力――つまり本質的に知的な諸能力――の極端な発達は、部分的な“鬱血うっけつ”をひきおこしました。この身体の中で、器官に送られる血液を比較例として使うならば、血液の総量が変わらないままで、ある一つの器官を過度に発達させ、そこへ多量の血液を送ることは、身体の他の部分の貧血をもたらすことになります。
4  同様に、心の働きにおいて知的能力へこのように集中することは、その正常な反動として、他の分野の貧弱化をもたらします。ここで“他の分野”とは直接的に感じられ経験され生きられるもののことで、これを私は感情能力と呼んでよいと思います。
 知性の特徴は、私たちを経験的事象から連れ出し、私たちの前に抽象的な表象を投影してくれることにあります。
 それは、ちょうど、数学者が、自分の頭の中に動いている数を黒板にチョークで書くようなものです。数学者がいなくなっても、書かれた数字は残っています。
 知性はこれと同じことを行います。それは、変転する経験的事実や沸騰している素材、この動いている果てしない流れの中から汲み出します。知性は、諸要素をそこから抜き出すためにこの流れに潜ります。そこから知性は理念をつくるわけですが、数とかことばとかがその記号となります。知性は、思考のスクリーンのうえにそうした数字やことばを記し、このスクリーンのうえで、これらの記号は、客観世界の諸特徴を獲得するのです。
5  きわめて個性的な観察者たちが一つの立方体を見ているとき、彼らの主観的生命がどんなに異なっていて和解しがたいものであるにせよ、そこに見られ知覚されているものは、同じ定義にしたがう一つの幾何学的図形であらざるをえないのと同様、そうした思考は、ひとたび構築されると、どんなに異なった頭脳の中であっても、一つの理念が繰り返し再現されることが可能となります。
 他のだれよりも、西洋人はこの機械論に対して従順です。彼は、つねに外的世界に向かっていきます。それは、西洋人は、まずなによりも、外的世界に基盤をもっている行動を好むからです。また彼はつねに前を見つめ、彼の前にあって対峙し対抗してくるものに目をそそぎます。そして、そのうえ、知的考察の働きによって、自分の心の世界を、あたかもそれが外的世界の一部をなしているかのように、同じこの対立性の中に投影するのです。
 厳密な意味でのこの客観化の作業を、よりいっそう、要求するのが科学です。科学においては、非常に人間的で、闊達な心をもった学者でないかぎり、もっぱら客観性を要求し、主観性に対して不信と深い軽蔑をさえ示します。ところが、内面的生命というのは、本質的に主観的なままなのです。
 私が心の奥深く漠然と感じているものから、それを説明する一つの理念を引き出したとき、私は自分の主観的な生命を客観化しています。しかし、その瞬間から、その理念は固定化され、確定されます。それはもう動くことはありません。それまでは、経験に関与し、変化し、新たな要素を絶えまなく吸収し、絶えまなく発展していくものであったそれを、一つの思考の“対象物”の中に移し替えたのです。
6  このように、西洋人は、自分の前方を見ることに慣れてしまっているので、自己を意識するにも、鏡に映すように思考の鏡に自分自身を映して向き合って見ることを必要とします。この点は、西洋の美術の歴史における自画像の発展を見てください。
 ですから、私は自分を認識するのに、鏡の中に自分の姿を映して見るほどではありませんが、目を閉じると、私自身についての客観的な像が浮かんできます。そうして、私は自らを体験し、自己とは何かを知ろうと試みるのです。
 これが西洋人のおかしたあやまちです。このあやまちが、西洋の文明の中で、ますますひどくなる内面生活の貧弱化をひきおこしているのです。アーサー・ケストラーは『ゼロと無限』の中で、この変形と精神的排他主義が、たとえばマルキシズムで、どのように進められてひどい結果を生じ、ついには個人とその固有の能力までも排除するにいたったかを、見事に描いています。「われわれは論理の純粋性において他と異なっている……」人民委員の長老、ルバチョフは記しています。「われわれは、たとえ個人の頭の中にであっても、いかなる私的党派の存在も許さない。……われわれは、ビジョンのかわりに論理的推論をとったのである」
 しかし、この極論自体、十九世紀に西洋によって確立され、二十世紀に極限にまで合理化された“客観的”自負への新しい信条の行き着くところにほかなりません。
7  しかしながら、しばしば、ある種の東洋人がしたがるように、この西洋の傾向を杓子定規に考えて、それがどんなに普遍化しているにせよ、その性格に絶対的な価値を与えるべきではありません。それでは、こうしてうけている危険に対して、つねに、休みなく意識をもってきた西洋人がいたことを忘れていることになります。内面的生命を守るために戦った、高潔な集団あるいは個人の運動があったのです。
 もしそれがなかったならば、西洋は芸術家も、詩人も、神秘家も生み出さなかったでしょうし、宗教的生活をもつことさえなかったでしょう。これらの活動はすべて、内面的生命と主観的認識に属するものだからです。
 東洋人は、そのような西洋人とは、同じ平面で交流することができます。そうした西洋人はたくさんいます。東洋人とぶつかりあうのは、最もそれとは対照的な行動、つまり客観的、軍事的、管理的、商業的な意味での行動にとらわれた西洋なのです。

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