Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

心の世界の総合  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  心の世界の総合
 ユイグ この幸福の探究の問題は、私たちの本性がそなえている多様で複雑な欲求に対して私たちが十分な意識をもったときに初めて明らかにされうるでしょう。幸福は、私たちの物質的な欲望の対象を獲得することにのみあるのではありません。真実の幸福は、人間にとって、一方では自分に授けられた能力を十分に働かせる中に、他方においては人類がかりたてられている方向についてのいっそう強い意識をもつことの中にしか見いだされません。その歩みに対しては、私たちの一人ひとりはそれを分担する一要素でしかないのです。
 私たちにとって、自分の条件を十分に満たし、自分のなすべきことを達成し、自分の“存在理由”を証明したという意識をもつことに幸福があるのは、正常なことではないでしょうか。
2  ここで問題になっているのは、精神の一つの見方ということではありません。このことは、精神身体医学の最近の発見によって証明されていることです。心理的生命が、その直面するさまざまに異なった場面で発揮されることは、私たちの肉体も、その健全な発動のために求め、必要としていることなのです。このことは、ずっと以前から生物学が教えてきたところですが、一つの肉体は、本来、諸器官の複合体であり、その総体がよく進展し開花していくためには、調和のとれた結合をもって機能していかなければなりません。私たちの心理的活動の基盤であり支えである脳脊髄系も、この基本的法則からまぬかれてはいないのです。
3  まず初めに、それは文字どおり、人間にまでいたった進化の全段階を刻印し保持している要素の重ね合わせによって構成されていることが認められています。ですから人間は、この進化の中にあらわれた一連の機能を保持しているのであり、それらは、心理的生命が今日の豊かさと人間心理の多様性に到達する過程でつぎつぎと補い足してきたものを継承していることを示しているのです。
 爬虫類から人間(ホモ・サピエンス)に到達する、ゆっくりしたこの進歩が育まれるのに二億年以上の年月がかかりました。
 これを明確にいいますと、これらの新しい能力のそれぞれは、前々からのものに取って代わって、以前のものを無効にするやり方であらわれたのでなく、その活動により広がりを与え、環境によりよく適応することによってでした。ですから、そうした新しい能力は、ますます豊かな全体を形成し、その中で、それぞれが全体の均衡に貢献していくのです。最も古い能力は生存の基礎を支え、最も新しい能力は生命の課題に立ち向かう力を広げます。これらを年代学的順序で列挙するには、私たちの中枢神経系を解剖して、その文字どおりの堆積をたどってみれば十分です。
4  事実、人間の神経系は、動物の連鎖の中にあいついであらわれ完成されてきた諸要素を失わずに保ってきています。しかも、胎児は、自身の成長の中で、これらの段階をたどるのです。胎児は胚子はいしが保有している樋状といじょうの髄質から出発します。この髄質の樋が閉じて脊髄をつくり、やがて脳髄となる脳細胞をつくります。この脊髄は胚子の最初の鎖に対応するもので、これは原生動物にはまだなく、腔腸こうちょう動物や昆虫にあらわれてくるものです。
 この脊髄だけでは、まだ、刺激と無意識な反応の域にとどまっているわけですが、それは、人間においても、ずっとその特性を保っています。これが、まだ純粋に機械的な段階に限定されたままでいる心理現象の粗描です。
 延髄――この脊髄の“延長”は、フルーラン(十九世紀前半のフランスの心理学者)によって“生命の核心”とか“アーチの要石”と呼ばれましたが、これがつかさどる神経活動は、まだ新陳代謝という生命内部の機能に限られています。それからあらわれる小脳が機能を空間との諸関係に広げ、とくに平衡感覚、さらには最も新しく得られた働きの分野としては四肢の意志的な運動にまで関係します。しかし、これらはいずれも、まだ、型にはまった自動的な行動に限られています。
5  無意識から意識へと上昇する、固有の意味での心理的生命、心の働きが姿をみせ発展するのは、次の段階です。新脳に包まれている旧脳がつかさどっているのは、動物の原始的な行動です。中脳をかこんでいるR複合体(爬虫類はちゆうるいの脳)は、ただ、内臓の調整と、原始的本能の基本的衝動をつかさどっているだけです。つぎに原始哺乳類によって獲得された大脳辺縁系が視床を囲んであり、そこで外の世界からの感覚と初歩的な認識が得られ、それは皮質へ送り返されます。
 ここで記憶は海馬状突起によって姿をあらわします。私たちはこうして“意識の原料”と呼ばれたもの、最初の情動的行動に到達します。それは単純な機械的反応を超えたもので、基本的な選択能力がこれ以後あらわれます。
6  しかし、両棲類が爬虫類に変わったときにあらわれ、高等哺乳類の獲得物である新皮質によって、明確な意識の行使を可能にする表象が明らかになり、それ以後ますます組織化されます。また、それは脳細胞の異なったタイプをあらわしている六つの重なった層をもっています。その層のそれぞれは、それより内側にある先行の層とつながっており、先行の層がもっているものを組織化するのです。旧皮質は大脳辺縁系(爬虫類の脳)と組み合わされています。間脳はこの爬虫類の脳と結合して、ブロッカ(十九世紀後半のフランスの人類学者)が“外縁の脳”“古い脳髄”と名づけたものを構成しており、それが意識の情緒的な“原料”を提供しています。
 しかし、象徴とことばを用いる能力に達するには、新皮質が先行の層を囲んで形成されるのを待たなければなりません。“知的行動”や理性的制御を、その理知的な抑制と同化と組織化の能力によって可能にしていくのは、この新皮質なのです。そこにおいて、ケストラーがマクリーン(イギリスの神学者)の研究をうけていったように“感ずるもの”から“知るもの”への移行がなされ、ホモ・サピエンスと、その抽象能力に到達するわけです。
7  漠然とした有機体から自己を律する知性にいたるまでの諸段階が読みとれるこうした本質をなしているのは、ピブトー(フランス学士院会員。人類の起源と発展についての書を著している)がいった“さらなる意識と思考への上昇”です。しかし、人間によって、たんに知的水準に到達しただけでなく、人間は精神的水準に達してその絶頂をきわめることができるのです。
 このことから、これらのあらゆる部分は互いに結びついて、そこに緊密な協力関係が必要であることがわかります。現代の生活は、とくに実証科学が心の世界まで管理化し、その観点からより有効とみえるある種の要素に対して過度の優遇を加えるようになってから、これを混乱させてしまいました。つまり、その“より有効とみえるもの”が、客観的な外界の探査を可能にしているわけですが、そのことから引き出されてくるのが、数字記号によって事物を認識し、それを抽象的で論理的な結合の網の目に仕上げようとすることによる“量への退歩”なのです。
 このシステムは、今日生じているように孤立化しますと、直観的なもの、感情的なもの、広くいえば主観的と呼ばれているものの発動を妨げ、これらが使われることもなくしてしまうわけです。ところが、これらの主観的なものの協力なくしては、抽象思考はできても、精神的開花に到達することはできません。そこに人間の完成を妨げる一つの閉塞が生ずるわけです。
 知性は、その固有の機構を開発するだけで、機能的であろうとするより以上には働きませんから、あまりにも自律的になっていきます。そして、知性は、物質的なものから精神的なものへ向かう上昇の最も鋭く最も意識的な尖端であることをやめてしまうのです。
8  部分部分が結合されるうえで不可欠なこの相互補足性の第二の証拠は、もう一つ別の角度から、大脳についての最近の研究で出されたものです。一九五〇年ごろアメリカで、スペリー博士とその協力者たちによって行われた、きわめて実証的な実験で、私たちの大脳の役割を半球ごとに明確に分けることができるようになりました。それまでは、身体の各半分をつかさどっているのは、小脳における神経交差の結果、身体の右半分をつかさどっているのは左側の脳であるとされ、少なくとも右ききの人においては、この左側の脳が身体の左半分に対してよりも右半分に対して優先的な命令権をもっているとされていました。
 ところが、そうではまったくないのです。この機能的非対称性は相互に補い合っていく必要不可欠な役割をもっているのです。というのは、左半球が合理的理解や考えられ話された言語に関連しているのに対し、右半球はとくに音の質、したがって抑揚の意味(抽象された理念よりもむしろ)、音楽的なメロディーを知覚します。一般的に、右半球は聴覚的・視覚的なイメージに関係しており、このため、その幾何学的構造よりも象徴的な意味によりいっそう関係しています。
9  こうして、私たちの大脳自体が機能上、その半分は概念的なものや測定可能なものに貢献し、手の現実の行動によりよく結びついているのに対し、他の半分はなによりも特殊なものや質的なものを感じとり尊重します。これは、私たちに、客観性へ向ける能力と主観性から起こる能力とのあいだに平衡を維持できるようにしているということではないでしょうか?
 大脳の構造自体が、私たちを調和のとれた心の働きを十分にあらわさせないで、その本性に反して偏って働かせようとする錯誤から防護しようとしてくれているのです。

1
1