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日蓮大聖人・池田大作

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幸福の問題  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  さて、幸福とはなにかというのは、かんたんにはいいつくせない、非常に複雑な問題です。幸福とはいかにあるべきかを規定し、それを人に押しつけることの危険性は、多くの人が論じているとおりです。考え方によれば、人それぞれに描く幸福像というものがあってもよいでしょう。また、具体的な幸福像が多様であるばかりでなく、その基本的な考え方も多彩であって当然だといえるかもしれません。
 もとより、幸福がいかなるものでなければならないといった強制は、なにびとに対してもなされるべきことではありません。しかし、たとえば、感覚的な充足にしか喜びを見いだすことを知らないことは、きわめて崩れやすい、はかない幸福観といわなければなりません。もし、感覚的な充足だけが幸福のすべてではなく、もっと深い精神的な充足によって得られる幸福があることを知ったならば、自分の人生を、いっそう強靭な土台のうえに生きていくことができるでしょう。
3  さらに、たんに精神的な充足ではなく、自分の人生を他の人の幸福、喜びのために寄与することによって得られる大きな広がりをもった幸福を知るならば、その人生を、行き詰まりのない、深い基盤をもったものにしていくことができるはずです。
 いかなる幸福を追求するかは、各人の自ら決定すべきことであるにしても、より強靭な、より深い幸福があることを知らされなければ、各人がもっているはずの選択の自由もないことになってしまいます。私は、現代は、ある面では各人の自由を保障しながら、最も根本的なところで画一化を無意識のうちに押しつけ、自由を奪っているように思うのです。
 たとえば、職業の選択の自由も、居住地を選ぶ自由も、現代人は、先祖たちが想像もできなかったであろうほどの自由をもっています。しかし、少年時代から画一的な知識と思考法を施す教育機関に半強制的に入れられ、知らずしらず、自由な考え方を奪われているのではないでしょうか。かつて、職人の徒弟に入った少年は、その手仕事の技を磨くことを、みっちり仕込まれました。彼は、自分の作品を、いかに高く売りつけるかということは教わらず、経済的豊かさを追求すべき目的として、そこに幸福を求めるような考え方は教わらなかったでしょう。ところが、現代では、仕事の技を教わるまえに、貧困こそ悲惨さの元凶であり、富を生み出すことこそ、社会への貢献の道であることを教えられるのです。
 そこでは、具体的に選ぶ仕事についての自由はあります。現代の少年たちは、社会のこともわからないうちに、奉公先を決められて一生の仕事を定められるということはなく、学校教育を終わる段階で、自分で決定すればよいのです。さらに、ひとたび、なにかの仕事を選んでも、あとで、もっと自分の気に入った仕事がみつかれば、転職することも可能です。しかし、経済的利益の追求に目的があるとする考え方は、知らずしらず、染めつけられ、そこには選択の余地はなくなっています。
4  以上のような意味から、私は、とくに現代においては幸福というものについて整理し、とらえなおすことに無視できない意義と価値があると思っているわけです。そこで、あなたが指摘されている感覚から感受性を経て知的生命へといたる、人間の生命の重層的構造の把握についてですが、私はこうした生命の把握の仕方は人間の求める幸福が、より深く、より永続的なものであるためにも、貴重であると考えます。
 仏教では、“三界”という概念がありますが、それは、あなたが示されている生命の把握と幸福のとらえ方に通ずるものをもっています。すなわち、仏教では、喜びに満たされた世界を天界と呼んでいますが、この天界は、三つの大きな層からなっているとされます。一つは欲望の天(欲天)、第二は物質あるいは肉体の天(色天)、第三は精神の天(無色天)です。
5  欲望の天は、欲望が満たされることによって得られる喜びの世界ということです。これはさらに細かく六種類に分かれますが、その最も高い天は権力欲・支配欲の充足された世界とされています。
 物質あるいは肉体の天とは、欲望を離れた状態で、しかも、喜びに満たされていることと説明されます。私は、これは、たとえば、美しい光景、景色を見ることによって得られる喜び、あるいは、スポーツにおいて、勝敗を離れて、そのスポーツに興ずること自体から得られる喜びがそれに当たるのではないかと考えています。
 精神の天とは、思索し、真理を発見することによって得られる喜びです。
 しかし、仏教は、これらの喜びは、まだ刹那的で浅い喜びにすぎず、もっと深い持続的な喜びがあり、人間は、そうした喜びを求めていくべきであると教えました。つまり、三界の喜びは、外界の事象と自己との関係において生じ、得られる喜びであり、外界のいっさいの事象は、つねに変化してやまないし、自己の心も移り変わるので、その喜びはけっして長つづきしないのです。また、これらの喜びは、しょせん、利己的なものですから、自分の喜びは往々にして、他者の苦しみのうえに成り立っています。
6  これに対して、変化してやまない事象の奥に貫かれている不変の真理を見いだし、その真理に自らをささげることによって、不変の喜びを得ようとするのが、仏教の教えている幸福であるということができます。これは、さらにいえば、自己の内なる真理の探求であり、自己の変革ということでもあります。あるいは、自己をなにかにささげるという意味で、利己主義を超越したものです。
 いわゆる小乗仏教においては、現実の変化してやまない事象や自己を否定し、そこから離れることによってのみ、そうした喜び、幸福が得られると教えました。それに対して、大乗仏教は、現実を超えたところに本源的な基盤を求めながらも、そこで得られた不動の自己によって、現実の人生と諸事象に対する支配力を確立し、人びとの喜びのために奉仕することを教えました。あなたのいわれた、自分の“存在理由”を証明することを教えているのです。
7  振り返って考えてみますと、自己と外界との関係において得られる喜びも、不動の強い自己が確立されれば、いっそう幅が広くなって多くなりますし、いっそう長つづきするものになります。たとえば、山に登ることは、病気で体力のない人や、山登りの技術も、その山についての知識もない人にとっては、たいへんな苦しみであり、また危険なことでしょう。しかし、健康で体力があり、技術も知識ももっている人にとっては、山が険しければ険しいほど、それを登り、頂を征服することは、より大きい喜びをもたらしてくれます。
 人生において、外界とのあいだに生ずるさまざまな事象は、自己を十分に確立し、豊かにしていない人にとっては、苦しみの連続となりましょう。しかし、不動の自己を樹立し、生命のもつ力を強靭にし、知恵も豊かに開発している人にとっては、あらゆる苦しみが、むしろ楽しみの要因とさえなるはずです。
8  さらに、たんに自分の問題のみにとらわれて精一杯であるというのでなく、他の人びとにも力を貸してあげることができ、自分の存在が多くの人びとにとって、なんらかの利益をもたらしていることを実感するならば、喜びは、さらに大きく、深いものとなりましょう。
 仏教は、生と死という、だれびとも避けられない自己の変化をさえ超えて、永遠に変わらない生命を覚知し、そこから、生死という現象によって生ずる、最も本源的な苦悩をも克服する道を開いたのです。これ自体は、仏教の信仰者にしか理解しがたい悟りの世界の問題になりますが、この同様の原理は、あらゆる人間存在にとって相通ずる、幸福生活確立の鍵といえます。
 私は、幸福を求めながらも、その条件を外界の、しかも物質的世界にばかり求めて、かえって、人間としての堕落の道を知らずしらず歩んでいる現代の人びとを見るとき、まず、幸福とはいかなるものであり、どこから生じ、いかにして、より持続的で深い幸福へと進むことができるのかというこの問題を探究することが必要であると思うのです。

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