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日蓮大聖人・池田大作

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調和――心の世界の法則  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  調和――心の世界の法則
 ユイグ こうして追究していきますと、一貫してそこに基本線としてあらわれてくるのが調和です。調和こそ、人間と自然の関係を必然的に支配しているものでなければなりません。これこそ生命体の基盤となっているものであり、その当然の結果として、生命の最も高い表現である私たちの心の仕組みの土台になっているものでもあります。
 ゲーテは、その『親和力』の中で、この連続性を人間性にあてはめてつぎのように要約していっています。「自己自身および世界と調和していると自覚すること」と。
 したがって、心の世界に調和が取り戻されることこそ、ますますその必要性が明確になってきている人間革命の鍵となるものでしょう。
 その原理についてはすでに述べたとおりですが、いまやその形態を明らかにしなければなりません。これはその語源的意味からいって、“革命”ということに関わっており、別の方向へすすむために自分を変えることです。それは人間を構成するバラバラになった要素のあいだに調和を回復すること以外にありえません。
2  また、客観性の肥大に対し、主観性の回復によって均衡を保つようにされるべきであり、合理主義の傲慢は、私たちが窒息させてしまったために、もはや聞くことのない内なる声に謙虚に耳を傾けることによって釣り合いがとれるようにされるべきです。
 人間の本来の条件が二つの前線での戦いにあるとするなら、そこにも調和を打ち立てることが必要です。私たちが環境の征服のためにばかり生きようとして、私たちの心を占め、悩ませている外側の面だけに専念するのをやめて、私たちがあまりにも無視しているために災いを生じている内面にも調和を実現するために取り組むべきです。
 そこで、この外に向かう前線について、感覚化と抽象化といういわば両極の様相を呈している二つの人間の能力に限定して取りあげてみましょう。
3  心の世界は、感覚によって養われます。すでに十八世紀の心理学、たとえばコンディヤック(フランスの哲学者)の心理学は、人間の内面的生命のすべては感覚の結合にほかならず、また、それらの結果であるとさえ考えていました。そこにあったのは、非常に一面的な見方で、それがその偏りによって、思考の痛ましい地すべりをもたらし、現代の危機の母体となっているのです。
 たしかに、感覚の働きは心の働きにとって基本的な供給源をなしており、人間は、こうして供給された外界の物を使って、それを利用できるもの、すなわち厳密にいうと、知性によって認識できるものに変えます。こうして、本来的な意味での知的能力すなわち、論理的・理性的な能力が発達してきたのです。
4  この二つの極の関係は、つぎのようなものです。一つは出発点であり、もう一つは到達点です。しかし、この二つは、その間隔が補填されないかぎり、二つとも価値はありません。この間隔を満たすものが、感情の働きです。
 もし、感覚が、能率的に整頓されすぐ利用できる情報として知能の働きに直接ゆだねられるとすれば、それがうけもつ役割はなくなってしまうであろうことは明らかです。調和は、感覚が、まず触れ、感受性を豊かにすることを要求します。感受性という用語そのものが、感覚という用語に近い意味をもっているのは、この密接な相関関係、この調和の働きを反映しているのです。
 感覚から、人びとは感受性へすすみます。それはつまり、最初の衝撃から内面的反響へ進むということです。そして、この衝撃は、私たちの内に感覚的傾向と対応する一つの振動を起こさせます。この感覚的衝動は無意識が隠しているものですが、感受性がそれをあらわさせます。
 この内面の本体こそ、私たちにとって不可欠なものです。その場合にのみ知性は、この生きた経験を明確化し成文化するために参加するわけです。
5  ところが現代の文明は、このことを忘却しがちですが、それは、これまで話し合ってきましたように、主観的なものを追放するという物理学が打ち立てた方法に起因しています。現代の文明は、無意識や直観、想像、感受性といったものから起こって合理的知性によっては制御されないものをすべて“主観的”と呼んで放逐してしまったのです。
 物理学としては、その学問の実践にとって厳密に必要であった方法を導入したわけですが、それが不均衡に発達することによって、心の世界のすべてをリードすると自負し、ついには、実際の人間の心の歪曲をもたらしてしまいました。この物理学にならって、人間は、人間が精密な知覚でとらえられ、合理的・組織的に利用できるものになるはずだと信じてしまったのです。
 そこに、あなたが、いみじくもいわれるように、私たちのうえにのしかかっている不均衡と窒息の危機があるわけです。
 人間はいまや、一方では、感覚への反応である欲望と本能的欲求と、ほとんど動物的な感覚的生命に退歩し(この感覚的生命は、事実、私たちが動物と共有しているものではないでしょうか?)、他方では、渇ききった主知主義のおとしあなにとらわれてしまっています。すべてはそこに到達するのですが、人間がまだ保っているのは、中間部分の利用しうる残滓だけで、それをもって辛うじて感情の働きの代用にしているのみで、感情の豊かな働きは消えてしまったのです。
6  さて、この現代の危機から引き出される結論に戻りましょう。それは、生きている生命と人間存在は有機的な統一体を構成しており、そこでは、すべての部分、この統一体に参画しているすべての機能が、互いに整合しあい、結び合った働きをし、相互に豊かにしあっていかなければならないということです。これを一言でいうと、調和的でなければならないということです。
 人間を図式化し、人間をしだいに一種の高等機械に還元し、ほとんど一つの電子頭脳の模写にしてしまおうとするこの考え方に対しては、断固戦うことが大事です。統一体にとって必要なことは、そのあらゆる部分が自らの正常な発達を確かなものにすることだという点が理解され、そのもっているすべての能力を十分に働かせるようにすべきです。
7  このことは、周知のように、人間がその全体の、平衡のとれた働きを取り戻したときには、その機能を発揮するために行動を起こさねばならない――ということはつまり、時間の中に関わらなければならないであろうということを意味します。その心の仕組みは“生きること”、つまり持続し発展し、自らを変革し、生きているかぎりなにかを実現すべきことを運命づけられています。
 それは“憧憬”という以外にないでしょう。この“憧憬”が正しく知覚され、正しく打ち立てられるなら、それこそ人間の生命がもたらしてくれる究極性にほかならないでしょう。そして、たぶん、この目標は、各人が追求(それは私たちを休みなく引っぱっていくものですので、あえて“追求”というのです)すべきもので、芸術が強調しているのをみてきたとおり、人間の“質”を発展させることなのです。
 たぶん、この目標と、それがひきつける力――それも“最良”のそれ――は、各個人において生きています。それは、各人においては、人類を同じ方向に引っぱっている集団的な大きな動きの反映にほかならず、そして、各人はそのできるかぎりにおいて、そこに貢献しなければなりません。そして、その場合にのみ、私たちの生命は調和をあらわします。たぶん、その褒賞して、ほんとうの深い幸福、つまり生きること自体の満足感が得られるのです。

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