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日蓮大聖人・池田大作

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調和――生命の法  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  たしかに、物質的宇宙も、調和の原理に従っています。この調和の原理は、原子の緊密に結びついた構造から、星やその体系の雄大な構造にいたるまで、あらわれています。しかし、これらのそれぞれの結合は、無限に再生を繰り返しながら、自己同一性を保っていくタイプのものです。
 生命はその誕生の当初から、未来と未知なるものに直面することになります。それは、跡をなぞることはできるが、どこへ行くのかわからない道をたどっていきます。……そして、生命が自らを完成すればするほど、心理現象が構成する高い段階に達するにしたがって、部分と部分のあいだの調和が、ますます欠くべからざるものとなります。生命体の中で、この調和が乱れると、病気になります。それが精神生活の中で起こった場合は、神経症、狂気があらわれます。破壊の過程が始まるわけです。
 こうして、調和の概念は、エネルギーや活力の概念と同様に、本質的なものです。時間の流れの中に展開されるものは、その存在を維持するために、調和を必要とします。物質は、もっぱらエントロピー(熱平衡にある物理系に特有の物理量)の法則に示される損耗と破壊の過程をたどるのですから、生命は誕生して以来、このネガティブな過程にさからう一つの戦いに取り組んでいるわけです。では、それはなににもとづいているのでしょうか。
3  一つの組織体、一つの全体が基盤にしているのがこの調和です。そこでは、部分はたんにそれ自体によってでなく、一つの共同の行為に寄与することによって存在しているのです。そして、この“行為”ということばは、その前提概念として動的ということと、時間の中に投射されているということを含んでいます。単純な並列や空間の中での“位置”ということによっては、なにものも持続することはできません。時間の流れは、協力、協調、したがって、共通の目的に向かっていく収斂を要求するのです。
 生きているもの、感情のあるもの、思考するものの中に開花しているこの平衡と調和の法則は、矛盾の存在と同時にその矛盾を超克する能力を前提とします。物理的世界では、事物はそのあるがままであって、せいぜい、既定の一貫性原則に従っていきます。それが前提としているのは、設定されうる統一性の中での統合性と恒常性の原理です。
 このゆえに、人間精神を物理的な世界に適応したところから生まれた合理性や論理は、統合性を基盤にしているのです。単純にいえば、物質の世界と思考の世界のあいだには、ある意味の共生があるということです。物質の世界の統合性は適応であり、思考の世界のそれは、理解です。
4  一方、生あるものになりますと、すべては矛盾と対立から生じていることがわかります。そして、生命は、これらのいわば分離的な推力のあいだに一つの協力と、そして完全な意味で一つの調和を打ち立てるにいたった場合にのみ、実現され、開花します。
 多くの場合、この調和があらわれるのはリズムによってです。つまり、調停しなければならない反対現象が、絶えまなく生じていくことで、その反対現象のそれぞれは、もし排他的に自らを拡大しようとするならば、たんに否定者になるのですが、反対原理を取り入れてそれで自らを補整することによって、豊かなものとなっていくのです。
 矛盾は、対称形によってようやく粗書きされるだけの、静止的に並列している場合は不毛で破壊的なものですが、生命とともに、リズムのかたちをとりリズムに固有な調整的な補いをするこの交代の方式によって持続性に入った瞬間から、効果あるものとして姿をあらわします。その場合、この連続性の中に、絶えず空隙を埋める一つの機能が打ち立てられるわけです(註)
5  (註)このことは巨大な規模の場合にあてはまります。無限に微小な世界では私たちには知覚できず、予盾の原理は、原子の中では原子核と電子に分かれている陽電子と陰電子によってあらわれます。
 合理的・論理的精神とその恒常的単一性が直線であらわされるのに対し、こうした生命の運動の特質は正弦曲線に要約されます。後者は、互いに釣り合った逆のカーブによって、そこに動きが加わり、持続性が取り入れられたときから偉大な法則になります。
 水晶の中には、その表面に見られるように、直線が認められます。水晶は、最も完璧な静止的完成の状態にある物質です。しかし、この水晶の中心に入ったときには振動の世界がそこにあり、そのリズムの図式は波の動きであらわされます。
6  静止的な物体には平衡の法則で十分です。その平衡の法則は、時間性に適応しなければならなくなったときから、ますます基本的で本質的な役割を演ずるようになり、エネルギーが動きになったときから、平衡の法則はリズムに変わるのです。そして、生命から心理的なものへ、さらにまた精神的存在へと上昇するごとに、平衡の法則は調和の度合いの重みを増していきます。
 この進展をたどるのは容易です。まず初めは調和は、互いに離れているうえに矛盾している要素のあいだに打ち立てられます。およそ矛盾とは、共通の土台のうえで互いに対立しあっているということを含んでいるのではないでしょうか。こうして、空間の中に構成されている物質の水準における調和は、相似形であるけれども厳密に反対である半分同士の統合をつくりだす対称性としてあらわれます。または、分かれた二つの断片を神秘な和解によって結合する比率としてあらわれます。
 運動性が物質に生気を与え、それを持続性の中に投入したとき、リズムが波のかたちで始まり、その各局面は、正弦曲線を描きながら反対方向に湾曲しつつ規則正しく連続していきます。これは、生命の出現によって開花するもので、生命はこの律動を、自らの歩みの基盤として採用し、この律動をとおして、その継続(註)的な償いの運動のおかげで、持続性の中に平衡を見いだしていきます
7  (註)数年後、生命のリズムの研究は、一つの大きな分野になってきています。フランスでは、生物的リズムを研究する一つの協会が確立されています。そこでは優秀な研究者が集まり、実験室での研究や医学的実践にたずさわっており、その本拠はクレルモン=フェランの厳密自然科学教育研究所にあります。
 しかし、意識があらわれ、発展するにしたがって、この調和は愛――“われわれ”でないものに結びつくことによって、“われわれ”の限界を超えた一つの統一性を構築しようという欲求――になります。
 憎悪、これは反対することの情念的な形態です。貪欲、これは私たちにとって外在的なものを征服し吸収することをめざすものです。愛は、これらに対して、調和的に補足する意味をもっています。
 こうして、空間の中に限定された不動の対称性から、持続性の中に入り持続性の力をわがものにする動的な律動――こうして、調和は、“他者”と協調しようと熱望する、明晰な意識の水準にまで上昇していくのです。そして、それが精神的な次元にまで達しますと、宇宙の中での平和への渇望の中にあらわれてきます。
 調和をとおし、それが自らを創始しうるそれぞれの水準で、そして、とりわけ愛の水準で、万物がそこから出た原初の統一性へ復帰しようとする、おぼろげな目的の追求が、おそらくはつづけられているのです。
8  池田 私は、今、オーストリアの理論物理学者・シュレーディンガーの説を思い起こしています。彼は「生物体は『負エントロピー』を食べて生きている」(『生命とは何か』岡小天・鎮目恭夫訳岩波新書)という興味ぶかい考え方を示しましたが、以後、三十年あまり経過した今日でも、私は、この表現の中に、物質的存在と生命ある存在――生物学的生命――との区別が示されており、その考え方の正しさがますます実証されてきていると考えています。
 あなたが、水晶という結晶体を例にあげて論じられたように、無生物にも一定の構成があり、秩序があります。しかし、結晶に示される秩序は、あくまで、静的な秩序です。
 ところが、生命あるものは、動的な中に高い秩序を自ら発現し、それを維持する能力をもっております。シュレーディンガーのことばを借りれば「現に存在する秩序がその秩序自身を維持する能力と、秩序のある現象を生み出す力とを現わす」(『生命とは何か』前出)といえましょう。
 生あるものは、エントロピー増大則という自然界の法則に拮抗して、生体の秩序を発展させるが、そのためには、必然的に起きるエントロピーの増大を防ぐために、絶えず負のエントロピーを取り入れなければならないと指摘したところに、シュレーディンガーの独創性があったと、私は理解しております。
9  ユイグ ここで一つの事実を紹介し、同時に反論を排除することをお許しください。といいますのは、最近、何人かの生物学者が、生命に付与された反エントロピーの説に反論の声をあげているからです。たしかに、あらゆる生きている組織体は熱力学の第二法則であるカルノーの原理に反しています。この法則によると、すべての孤立した系においては、エネルギーが量において不変であれば、質において、区別のない均等性、したがって無秩序の状態に到達するまで低下するわけです。生命がつねに自らをよりいっそう組織化しようとし、この傾斜を上ろうとする努力としてあらわれていることは明白です。
 しかし、生命がこの組織化を達成するのは、自らが消費する資源を、自分がその一部である環境の中から汲み取ることによってであり、したがって、結局、生命がエントロピーを増大していることがわかります。ですから、この意味では、エントロピーの法則は外れていません。これはまったくそのとおりなのですが、根本的に新しく生ずる事象は、この傾斜面をひっくりかえす努力であるということになります。それは生命によってあらわれ、ほとんど生命を決定づけるのです。
 全体として、この努力は失敗に帰するわけですが、だからといって、この試みなくしてはいかなる部分も存在しないのであり、これが排除されるわけではありません。したがって、その原理においては生命はまさしく反エントロピー的であり、そうあろうとしているということができます。
 ですから、さらにいえば、生命が自己を完成し、物理的段階から心理的段階へ、さらに心理的段階から精神的段階へと上昇するにつれて、精神的生命は物理的法則から免れており、もはや純粋の質の向上でしかないから生命はその基本的方向をあらわさなくなるのではないか(註)、といった点を問うてみるのも興味深いでしょう。
10  (註)この点については軽くふれるだけにします。この問題は、拙著『我が信念』(グラッセ社一九七六年)で、もっと力を入れて論じてあります。しかし、科学はまだ、この分野にははるかに届かないでいるのです。
11  池田 生命現象の示しているところをさらに知るためには、現在の生物物理学の進展をみれば、種々うるところがあります。
 そこでは、生命の秩序の形成されるメカニズムがしだいに明らかにされつつあります。生体の内部における構成要素が互いに協力しあって動的な秩序が構成されていく過程こそ、生命あるものの特徴といえます。このゆえに、私もあなたと同様、共通の運命と行動を分かちあうことが生命の特徴であると考えるのです。
 動的な秩序は、絶えまない物質の流れのダイナミズムの中で、調和ある律動を奏でていきます。そして、この律動は、高次元の段階へ上るにつれて、いっそう拡大され増幅されて、自由度の大きい振幅をあらわします。しかし、その大きい振幅の中にも、高度な調和と秩序が貫かれていなければなりません。もし、そうした大きい振幅に耐える調和と秩序が維持できなかったならば、その生命体は破滅する以外にないでしょう。
 そうした、調和ある律動が混乱し、破壊されたところに疾病があるわけです。西洋の古い医学もそうであると聞いていますが、東洋医学も、生命体における調和という概念を基盤としています。
 私どもの日本に伝えられてきた東洋医学の源流は、大きく分けて、中国の医学と仏教医学です。いわゆるインド医学は、仏教医学に含めて考えることができましょう。
12  中国医学の基本理念は、陰陽五行説ですが、これは本質的に、調和か不調和かを問題にしているものです。すなわち、陰と陽、気と血、虚と実の均衡、五行(木・火・土・金・水)の調和のとれた状態が健康であり、不調和の状態が不健康、疾病となります。
 したがって、治療は、陰陽、気血、虚実の均衡を乱し、五行間の不調和をもたらした原因を取り除き、本来の生命体における動的調和を回復させることが主眼とされます。そのため、外的条件をととのえ、原因になるものを排除するのは当然ですが、これらの均衡と調和を実現することが根本になります。たとえば陰が不足していればこれを補い、あるいは陽となるものを除去します。五行間の調和についても、それぞれのあいだの相互関係を利用して、不調和を調和にと導きます。
 こうした調和の理念は、仏教医学においてもほぼ同様です。身体的な疾病というのは、地大、水大、火大、風大の四大の調和の乱れからもたらされると考えられていますから、その不調和を調和の状態に戻すことが、治療の眼目となるわけです。このための具体的方法として、さまざまな種類の調整法、たとえば呼吸の調整、身体の調整、心の調整が示されています。これらの方法は、現在、心身医学を研究している人びとから注目されております。
13  しかし、中国の天台大師は、病気の原因について四大の不順は最も表層的な場合にすぎず、他に五種類の場合があることを解明しています。その最も深層に原因をもつ場合が、業による病です。そこに、人間心理からさらに生命の深層に光を投げ入れた仏教医学の特徴があるのです。九識論にみられる生命の深層世界への仏教の探究の軌跡は、そうした心身にわたる病気に取り組んだ治療法の理論的側面でもあったわけです。
 仏教では、数多くの煩悩を明らかにし、この煩悩によって心身の乱れがひきおこされるとします。そして、この煩悩を生ずる原因は、業として各人の生命の根源にはらまれたものにあるとするのです。
 仏教医学の観点からすれば、たとえば精神分裂症は、さまざまな煩悩による自我の分裂ととらえられます。躁うつ病は、煩悩の働きによって生命のリズムが周囲のリズムと調和できなくなった状態であると考えられます。この煩悩を解消するため、それを生じた根源をどのように解明し、打ち破っていくか――ここに仏教医学が信仰実践を基盤として教えるゆえんがあります。
14  仏教が、その信仰実践の根本として教えているのは、あなたがいわれた「万物がそこから出た原初の統一性への復帰」ということにほかなりません。この“原初の統一性”を仏教は「妙法蓮華経」と説きました。そして、仏教は、この根源の法に、“南無”することを教えます。“南無”とはサンスクリット語であり「命を帰する」「そこへ帰って一体化を取り戻すこと」を意味しています。この根源の法が“統一性”そのものであることを、仏教は、円融三諦として教えています。三諦とは空諦・仮諦・中諦で、生命を三つの側面からとらえた哲理であり、この三つが完璧に融合しているという法理です。
 まず空諦とは生命のもつ知恵の働きで、たとえば花が咲いたり、人間が話をしたりする、そのそれぞれの行為をとおしてあらわれる存在それ自体の活力のようなものが空諦の側面です。
 仮諦とは「すべての生命体は仮に和合して存在している」との観点から、その生命体自身を調和あるものとしていく側面をいいます。
 また中諦とは、いっさいの存在の根底にあって、それを支え、律し、存立せしめている生命それ自体です。
 もちろん円融三諦の原理はもっと精緻で難解をきわめるものですが、一つの簡略な解釈をすると、以上のようにいえます。
 ですから、生命にはこの三つの側面があり、この三つは完全な融合を保ち、一つの面だけで生命をとらえることは不可能なのです。
 生命の現象面での調和は、もとより不可欠のことですが、しかし、それは、あくまでも円融三諦論からいえば仮諦の一面に関するものです。そして仮諦を語るということは、その背後に、中諦をふまえ、空諦を含んでいるということです。
 「すべての生あるものは仮に和合して存在している」との仮諦の原理からいえば、その調和は、あなたが指摘されたように、絶えまない矛盾と対立の中にあるといわなければなりません。
 その矛盾を克服し、対立を止揚していく要因がその対極としての空諦にあり、さらにこの仮諦と空諦の矛盾対立を止揚する源泉が中諦として貫いて存在しているのです。
15  この円融三諦の法理は、人間の生命ばかりでなく、すべての生ある存在も物質の世界をも貫く法理です。物質においては、仮諦の面が強くあらわれているのに対し、空諦、中諦の面が冥伏しているということです。
 花や動物などには円融三諦の三つをともにみることができます。ところが、これらの動植物は本来この法理に則りつつも、自らそれを意識において確かめるということができません。それに対して、人間は、自らの意志と固有の力によって、能動的に生命の原理を認識把握し、調和と活力と生命力のみなぎった自己を顕現していくことができるのです。
 したがって、人間と動植物との相違は、生命の事実相に自覚的であるかどうかにあるといえましょう。
 またさらにいえば、生命の実在に自覚的であっても、こんどは、その生命の円融三諦の働きにめざめた自己であるかどうかが問題となってきます。そして、このことが人間にとって最も重要な事柄であるわけです。
16  生命の悠久の律動の中で意識をもつ人間が創造され、その意識が“愛”というすぐれた知恵をもつ一方、憎悪とか貪欲というマイナス面もあわせもつということについてあなたは言及されました。
 この点に関連する仏教の教えに“煩悩即菩提”があります。
 煩悩とは貪欲とか憎悪、愚かさなどをいい、人間の心身を迷わし悩ませる心の働きの総称とされています。この煩悩が人間社会に盛んになると世の中の調和が乱れ、破壊へとすすみます。
 ゆえに仏教の中でも小乗仏教の教えでは、まずこの煩悩から脱することが仏道修行の目的であると教えたのです。しかし、人間がいかに煩悩を消滅しようとしても不可能です。なぜなら、つきつめていえば煩悩を消すことはその発生源である心それ自体を消す以外になく、それは人間という生命体を崩壊させてしまうことになってしまうからです。
17  大乗仏教の中でも法華経が明らかにし、教えた“煩悩即菩提”は、煩悩と菩提つまり迷いと悟りとを統一的に説き明かした法理です。煩悩を離れて菩提はなく、煩悩の中に菩提が含まれているという内容をもっています。
 その法理を実践的に考えるならば、人間は煩悩に迷わされていくのではなく、煩悩の正体を明晰にみつめ、それを自己の知恵によって超克していくことといえましょう。問題は、こうして明晰にみていく知恵の源泉をどこに求めるかということです。
 この知恵は生命の源泉から汲みだされたものでなくてはなりません。自己の意識を、つねにその生みの母である根源的統一の法としての生命へ向けていく努力が大切です。
 もし生命という存在を無視して、煩悩を意識の次元のみで処理しようとしても、それが完全な方法といえないことは、人間の歴史が、さまざまな事例の中で如実に物語っています。
 “煩悩即菩提”とは煩悩を直視し、それに生命から発する知恵の光を当てることによって人間を束縛する煩悩を菩提へと転換していく原理です。この原理は、したがって、まったく矛盾したものを調和させる原理であるといえます。

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