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日蓮大聖人・池田大作

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人間と宇宙  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  池田 仏教は、まさしく自然との融和を大事にしており、宇宙の万物を構成している要素を地・水・火・風・空の“五大”とし、自然そのものも、人間自体も同じこれらの“五大”から成っているとしています。そして、宇宙・自然の“五大”に不調和が生ずれば、人間を構成している“五大”にも不調和が生じ、やがて人類は滅亡におちいると教えています。
 仏教史上の重要な著書の一つとされる世親の『倶舎論』では、地・水・火・風の四大の特質を「つねに変化し、壊れていく」ものであり「変化しながらも、一定の空間を占めて他のものの侵入を妨げる」としています。つまり、物質的要素である地・水・火・風は、いずれも時間とともに変化するもので、しかも、空間的に一定の場を占めるということです。第五の要素である“空”は、これらとは別に扱う必要があります。“空”とは“空気”ではなく“空虚”に近いものです。それは、他の四大が物質的であるのに対し、精神的な秩序の概念であり、さらにいえば、それらの総体を成り立たせているものであるという点で異なっているのです。それについては順を追って申し上げたいと思います。
3  仏教では、地・水・火・風の四大について、実の四大と仮の四大を立て分けて教えています。
 仮の四大とは、地・水・火・風といった現象世界にあらわれたものをさします。それに対して、実の四大とは、硬い、湿り、熱、動という四つの性質をさします。実の四大のそれぞれを特徴的に現象世界にあらわしているのが、地・水・火・風なのです。現象世界は、変化してやまない仮の世界ですから、地・水・火・風は仮の四大とされるわけです。
 これらの四大は、万物を構成する要素であるとともに、あらゆる営みをあらわしていく根本とされます。仏教は、このそれぞれが、どのような働きによって、この調和の実現に寄与しているかを、つぎのように述べて示します。「火は物を焼くことをその働きとし、水は物を浄めることをその働きとし、風は塵を吹き払うことをその働きとし、大地は草木を生長させることをその働きとする」と。
 以上に述べたように、現象世界、物質的世界それ自体が、変化してやまないのですから、その構成要素である地・水・火・風はいずれも、変転していくものであるわけですが、その中でも変動性をもっているのは、水・火・風です。これらは、その激しい動きの中にも調和を保っているあいだは、生命の存在を助けますが、この調和が破れたときには、世界が破滅し、生命は死に絶えます。仏教では、この世界が壊れるときに、大規模な火災、水災、風災が起こると説いています。
4  それに対して大地は、その安定性と、硬いという性質によって、生命存在をうけとめ、支えていく役割をもつとされます。「草木を生長させる」とともに、あらゆる動物を支えているわけです。したがって、仏教では、たとえば、悪い業を重ねた人間に対しては、大地はそれを支えるのを嫌って身体をふるわせる――すなわち地震が起こる――と、譬喩的に説きます。
 釈迦牟尼の生涯において、釈迦を憎み、苦しめぬいた提婆達多は、最後には、大地が支えるのを拒み、地面が割れて、提婆は生きたまま、大地の下にある地獄へ堕ちていったと説かれています。
 これは、いかにも神話的な表現ですが、地がもつ役割について仏教が考えていた内容を端的にあらわしているといえましょう。四大が、万物の物質的な構成要素であるとともに、そのことが、生命主体とくに人間存在にとって、なにを意味するかを私たちは、ここから考えさせられます。自然の調和の破壊は、火・水・風の巨大な災いをひきおこすとともに、私たちの生命の拠って立っている土台を破壊し、滅亡を招くことになるのです。
5  もう一つの空大は、空虚という意味の示すように、地・水・火・風の四大を包む広大な宇宙の空間であるとともに、地・水・火・風すべてを生みだす根源のエネルギーを秘めた“場”それ自体でもあります。それは、色も形もなく、時空間にとらわれることもないものですが、そこから地・水・火・風が時空間の中にあらわれてくる根源の実在なのです。四大は、空大という無限のエネルギーの大海からあらわれでて現象世界を形成し、やがてまた、空大の大海に帰っていくのでしょう。大宇宙のエネルギーが万物としてあらわれ生成し、やがて消滅とともに再びエネルギーへと帰っていくのです。
 仏教の五大説は、このような物質的存在とその源泉であるエネルギーとの相関の中に調和と律動とを洞察した哲理であると私は考えます。
6  ユイグ あなたは、人間と自然の調和を強調している仏教固有の考え方を説明されたわけですが、あなたのお話から、私は、東洋と西洋がとってきた態度がどのようなものであり、物質的世界についての考え方がどのように違うかを考えさせられます。
 しかし、一見して、西洋の伝統と東洋の伝統とは、ほとんど一致しているようにみえます。つまり、西洋の伝統でも、地・水・火・風の四大を区別しており、そこに欠けているのは、第五の“空”だけです。
 西洋世界の良識としての哲学が識別している四元素は、物理学が科学的に明らかにしている物質の諸状態に一致しています。“地”とは不動で固体の物質という意味に理解されるべきで、これは、固有の意味での大地であるとともに、岩石すなわち、さらに一般的には結晶の形成物をさします。そこで関係しているのは最も低い温度における物質の状態です。温度が上がりますと、この固体の状態から、液体の状態に移ります。ギリシャ人はこれを要約して“水”と表現したのです。さらに温度が上がると、分子間の凝集力は、それにつれて減少します。それは同じく流動状態ですが、もっと顕著な流動体、つまり気体になります。これをギリシャ人は“空気”によって象徴的にあらわしたのです。これが、さらに高温になりますと、火・光になります。こうして、密度の高い固体の物質から、光り輝く現象である、非物質的な、なにか別の存在へと移るわけです。
7  この区分は、西洋では、基本的に安定性・固定性の性格をまとっています。物質の“状態「e’tat」”ということばは、その意味をあらわしているのではないでしょうか。そのラテン語の語源からいっても「e’tat」ということばは「stare」つまり“不動である”という動詞からきています。
 また、仏教の思想が強調する徐々の移り変わりによる変化は“状態”という西洋的概念の中には入っていません。古典世界の哲学者の中でギリシャ人たちが“理解しがたい”と呼んだヘラクレイトスだけが「万物は流転する」といって反論し、単一性の中に固定し不動化しようとする知性の傾向を否認したのです。そして彼は、反対に、相対立するものの共存を主張したのです。
8  西洋で二十五世紀もの歳月が経って、人びとがこうした考え方に立ち戻るためには、ステファン・ルパスコのような近代物理学の最近の発見によって培われた哲学が必要でした。そして、物質の“状態”が、エネルギーのとるさまざまな外見にすぎないということが知られるのにも、同じく物理学上の発見が必要であったわけです。エネルギーは、ですから、種々の形態の中で安定化することができるのですが、しかしまた、動き、したがって変形する力でもあるわけです。そのような考え方は以前には、なかったことです。
 それまでは、固体の世界と運動の世界がはっきり分かれており、それらは、ただ一方が他方に働きかけることはあっても、一つに混ざりあうことはありえないと考えられていました。形相と運動とを分けたアリストテレスをごらんなさい。西洋において機械の発明と発達を助けたのは、形体をとってあらわれる固体と動くものの推力とのこの区別なのです。機械が、持続しているものを分解し細分化することによって、この運動を模倣したのは、この論理的かつ反復的システム以外の何でしょうか?
9  ベルクソンはこれを時計に例をとって、それが一点から一点へ進むことにより時間を細かい薄片に切っていることを示しました。つまり時計は、こうして持続する時間を空間に移し替え、模倣して示しているわけですが、持続する時間は、そのとどまることのない進展の中でみるときには、こうした細分とはなんの関係ももっていません。事実、時計は、それが可能なかぎりにおいて、時間を空間的手段によってまねてみせる一つの機械なのです。それは時間の連続性を、しかし、分割することによって、文字盤の丸い細分された広がりのうえに転写するのです。
 アインシュタインが、西洋的思考にとって理解困難で、しばしば、わざと隠してきた“時空間”という概念を導入して物理学を覆さなければならなかったのは、この不一致を払いのけるためであり、この分割を矯正するためでした。
10  「万物は流転する」と断言することによってヘラクレイトスは、自分のまわりに感じていた、すべてを固定的な角度でみようとする傾向に対して、まさしく反逆しようとしたわけです。「永遠の相のもとにsubspecieaeternitatis」というこの西洋古典思想の強迫観念こそ、法則性つまり現実の動いている外見の裏にあって変わらないものを抜きだすことに専念する科学が受け継いだものなのです。
 同様に化学は分析を行い、時間の中でとる外見の変化がどうであれ、一つの物体、一つの実体――つまり変化しないもの――を決定している成分を抜きだします(成分 lescomposantsは語源的にいうと、cum―ponereで、これは“一緒におく”という意味です)。
 このように、西洋はつねに、知覚しうる“動くもの”の背後に不変のものをとらえようとします。西洋にとって、空気は、定義上、酸素と窒素の混合物です。これは、あなたのお国のことばでは、先の四大の中の“風”つまり空気の動きにあたるわけです。あなたのご説明によれば、これを、五番目の要素である“空”を“空気”ととると、重大な混乱におちいってしまうわけですが、その点については、あとで触れましょう。
11  その前に明確にしておきたいのは、もし、四つの要素が“絶えず変化し、壊れていくもの”であるとしても、それらのあいだには、あなたがいみじくもいわれたように、本質的な違いがあるということです。“地”に象徴される硬い物体は、壊れること、すなわち、それがとっているかたちを失い、物体として定めているものを失うという以外に変わることはしません。しかし、他の要素は物体のかたちをとるには適しておらず、逆に、空間の中で、時間の流れにつれて、絶えず自由に動く能力をもっています。そうした動きがあらわしているのは、崩壊ではなく、その流動性による一つの変形です。
 このゆえに、西洋の伝統は、“大地”によってあらわされる固体物にとくに好意をもっており、固体のように明確で確定的・安定的な理念によって自分の考えをいいあらわすことによって、その思考を固定的なものに合致させようとします。これをさらに推し進めると、すでにみましたように、機械の原理になるわけです。機械は、動きからその自然の流動性を取り除き、それを固定的で幾何学的な断片の複合に移し替え、その決まったかたちを失うことなくその推進力を伝えるためにそれらの断片の複合を積み重ねたものなのです。
12  “空”については、もし私の理解が正しければ、むしろ、他の四つの要素からこれを区別し、それを第五番目の要素として位置づけるよりも、四大が構成される以前に“存在するもの”と考えたほうがよいでしょう。
 それは、あなたご自身、それがどのように違っており、“精神的秩序の概念”というべきものであるかを示されているとおりです。“空虚”ということばがこれをあらわしているわけですが、しかしこれはあまりにも否定的なニュアンスをもっています。
 しかし、空間と時間の枠外に存在しうるようなものを、私たちはどのように想像したらよいでしょうか? 「根源的な実在」という表現は、最も適切であるように思われます。つまり、それは、目に見えるかたちをとる以前の、始原的な“無拘束性”の状態にあるということです。要するに、物質世界の諸要素の中に具現され物質化される以前の、純粋な状態のエネルギーであるということです。この説明は瑣末にとらわれているようにみえるかもしれません。しかし、それは、同じ意味をもつものを、互いに異なる傾向性をもった二つの精神が、それぞれのことばであらわすことの難しさを、なんとよくあらわしていることでしょう!
 このようにはっきりした隔りは、これらの二つの“精神”が補足的性格をとることを余儀なくします。それぞれが違った見方で世界をとらえていることを理解しあい、互いに交換しあうことが大切です。私たちは物事のほんとうの立体像をとらえるには、二つの目が必要であることを知っています。この場合もそうではないでしょうか?
13  池田 いままでの対話で仏教の五大の意味内容については明らかにすることができましたので、つぎに、先ほど私が提起した点に戻りたいと思います。それはつまり、仏教でいっている“自然を構成している五大”が“人間を構成している五大”と一致していること、そして、この自然と人間のあいだの調和が維持されなければ人間は滅亡するであろうということです。
14  ユイグ 私は、それこそ本質的な視点であると思います。人間のように自立した組織体がそれぞれの調和を求める以上、自分を取り巻いている、より大きい有機的体系の中にさらに入っていかなければならないという信条にたつことは、なんと聡明であることでしょう。人間の調和はそれ自体では不十分で、宇宙の調和と結びついていなければなりません。
 西洋の思想も、このことは古代から知っていましたし、その後、中世においてもルネサンスにおいても、執拗にこの観念は維持されました。すなわち、それは人間を小宇宙、宇宙を大宇宙とするもので、その大きさには目のくらむような違いはあるものの、互いに反映しあっているとされました。
 一つのきわめて古い信仰は、メソポタミアの羊飼いたちの夜空の観察から生まれたもので、その現代における奇妙な蘇生としてよく知られているのが占星術です。これは、人間が宇宙の全体に依存している小部分であるという公準のうえに立てられています。
 そして、現代は、かくも厳格に科学的体系化にこだわっているにもかかわらず、実験的明証に反したこのような信仰に今日みられるように活力を取り戻させているわけですが、それは、現代文明が築いている精神の牢獄から脱出したいという渇望と、ひそやかな抵抗のしるしであるともいえましょう。しかも、愉快な逆説ですが、占星術は“科学的”と認められること以外は、なにも求めないのです。マルキシズムと同じように、ですね。
15  池田 東洋でも、中国や日本で、占星術は古い時代から、大きな役割を演じてきました。中国の制度を模倣してつくられた奈良・平安時代の日本では、そうした占い者は、政府の官職の一つを占めていました。
 しかし、中国や日本の占星術は、個人の運命よりも国家・社会全体の事象を占ったようです。太陽、月、星の天体現象は、人間の生命の内にある乱れや国家・社会の乱れを映しだす鏡と考えられたのです。
 こうした考え方は、仏教の経典にも記されており、一つの国や社会が正しい仏教に背いて誤った法を尊んでいるときには、たとえば太陽が二つ、三つと出たり、星座の運行に乱れが生ずるなどの異変があらわれる、とされています。
 しかし、仏教の根本的な思想をいいますと、天体の運行が人間社会の事象の鏡であるというのは、現象的次元でいえることで、本源的な生命の存在次元でいえば、個々の人間生命それ自体が大宇宙と一つになっている、ということです。つまり、人間は“小宇宙”ではなく、その究極の次元においては“大宇宙そのもの”である、と教えているのです。
 それは、たとえば、個々人は、海面の一つ一つの波になぞらえられます。波は一つ一つその独自のかたちをもち、個として存在しています。しかし、波をつくっている水は、大海そのものにほかなりません。そこには、個としての波と、全体としての大海とを分かつものはなにもなく、これらは一体になっています。仏教の教える覚り、すなわち成仏とは、この究極的次元における自己の存在を明確に覚知することなのです。
16  人間の心の奥底には、いつの時代であれ、自然への回帰を求める衝動がありますが、それとともに、自然のもつ底知れぬ力に対する恐れもあります。だからこそ、人類は、自然とは一線を画し、文化を創造して、自然からの力を緩衝するもう一つの中間的環境をつくりあげてきたのでしょう。しかし、そうした自然と分離した独自の立場を維持しながらも、ときには、自然に直接ふれ、その広大な力の中に身をゆだねたいという願望がつねに渦巻いていることは疑いありません。
 文化という中間的環境が大きくなればなるほど、それは、自然との融和を求める人間の願望を強くさせます。ちょうど、バネが遠く引き延ばされるにしたがって、引き戻そうとする力が強くなるのと同じです。
 現代文明は、ますます人間を自然から引き離しています。のみならず、文化的環境の拡大は、自然的環境を破壊し、これを狭めています。なぜなら、自然的環境は、この地球の限られた広さの中で、農業等によって開発すなわち侵食が進めば進むだけ、その領域は狭くなっていくからです。狭められた自然は、変異を吸収する弾力性を失い、非常に壊れやすくなっています。
17  たとえば日本では、都市郊外の山や丘が宅地造成化され、自然環境が人為化された結果、土砂くずれが起きやすく、そのための被害が毎年のように、各地で起こっています。豊かな緑におおわれた、自然のままの状態のころは、かなり集中的な豪雨でも耐えていた丘の斜面が、こうした宅地化によって崩れやすくなってしまったのです。
 すなわち、地・水・火・風・空の五大でいえば、自然の環境が十分に広い領域をもっていたときには調和を保っていたのに、人間に侵食されて狭められ、しかも改変されたことによって、調和を維持する能力が極度に弱まっているのです。
 地表面の自然的環境は人間によって侵略されても、地下および大気圏、さらに宇宙空間には広大な自然環境の広がりがあり、まさに自然のままのリズムを奏でています。人間生活はこの巨大な自然的環境の律動にいだかれて、その中で、せいぜい地表面の環境に支配権をふるいながら、営まれているのです。自然を支配しているといかに自負しても、広大な自然が威力を発揮したときは、風の前の塵のようなものでしかありません。わが国各地にしばしば起こる台風や地震の被害は、これを如実に示しています。
18  私たち人間の生命は、永劫のリズムを奏でる大宇宙の調和に支えられ、また、この地球上に数十億年にわたって形成された生態圏に守られてしか、健全な生を営むことができないでしょう。このことは、生態学をはじめとする諸科学が明らかにしているとおりです。
 人間生命をその中に包含する生きた自然は、小は素粒子・原子から、大は天体の運行にいたる、壮大な階層構造をもち、絶妙なダイナミズムを奏でています。一つの階層の調和ある営みは、より高い階層の構造の中に組み込まれ、全体としての秩序を形成しながら、その自らの存在を維持しています。
 素粒子・原子によって構成される物質の領域にはその次元での法則があります。分子の次元になると、原子の世界にはない新しい性質や法則性があらわれてきます。蛋白質のような高分子化合物になると、さらに新たな性質が加わります。つまり、高分子化合物は、その中に低分子の構成要素を包含しながら、低分子のみでは考えられない高次元の調和ある秩序を形成していると考えられます。
 こうして、自然の世界は、物質界から、高分子の集合体であるオルガネラ(細胞小器官)の段階へすすみ、さらに、細胞の次元にいたって、明らかに“生命”と呼ぶことのできる状態を呈するようになるわけです。この場合の“生命”とは、生物学的な意味で使われる概念であることはいうまでもありません。
19  さらに細胞から組織、器官を経て、私たち人間生命もその中に含まれている“個体”の次元に到達します。これらのそれぞれの段階で、その独自の法則性と調和が見いだされます。
 私たち人間は、生物学的個体として、他の数多くの生物と同じ次元にあって生態圏を構成している一員です。そして、この生態圏に支えられて人びとの生存が維持されているのですから、もし、生態圏の調和を乱し、その秩序を破壊すれば、自らの破滅を招くことは当然でしょう。
 人間は、このように本来、宇宙的調和の中の一部分でありながら、個としての独自性に対する自覚を発現し、自己の存在の維持と欲望の充足のために、全体の調和をつくりかえ、社会をつくり文化を創造してきました。ここに、人間が、たんに生物学的個体であることを超えて、精神的存在となったゆえんがありますが、それは、つねに全体の調和を破壊する危険性をはらんでいるわけです。
 端的にいえば、人間の高度な精神は、宇宙的調和を破壊しようとする傾向性をもっており、それは、とりもなおさず、生物学的個体としての存在の基盤を破壊する危険性でもあります。これを食いとめるには、高度な精神的次元で、この危険な性向を制御できる別の力が確立されなければなりません。つまり、精神的次元での調和と秩序が実現されなければならないのです。私は、この役割を担うものが、同じく高度な精神の所産である宗教であると信じています。
20  とくに仏教は、人間存在の基盤である、万物の複雑な階層的構造を明らかにし、そこに働く微妙なメカニズムを“縁起観”として教えています。“縁起”とは、いっさいの事象は互いに依存しあい、助け合っているということで、いっさいの存在は、この“縁起”の産物であると仏教は示します。私は、この仏教の教えを人びとが自ら精神世界の中に取り入れたとき、エゴイスティックな衝動を抑制する強い精神的な力となり、そこに確立された調和と平衡は、かならず人間存在と環境との調和を実現していくであろうと考えています。

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