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芸術と愛  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  芸術と愛
 ユイグ ただ私がさらに加えていいたいのは、芸術は私にはとくに重要な役割を演ずるように思われるということです。なぜなら、文学においては、言語の相違があり、これは、国民性という枠、仕切りをつくっています。それに対して芸術は本質的に、すべての人が翻訳なしでわかりあえるイメージと感情を扱い、それ自体によって、人間共同体の証明をもたらし、人間が自分たちのあいだに設け、その中に閉じこもっている種々の区分けによる相違をなくしてしまうのです。
 私は政治家が国際的な展覧会の開会を宣するときに、このことを好んで口にし、結びの文句としてよく話すことを知っています。しかし、私の知るかぎり、彼らは、めったにこれを実行に移して推し進めることはしません。
 結局、世界の歴史を通じて、人間のあいだの共同体化の偉大な推進力となってきたのが宗教であったことを見逃すことはできないでしょう。ただし、もちろん、それには条件をつける必要があります。それは、一つの教会の儀式化された区分けの中に閉じこもらないかぎり、ということであり、また、そうした名目で、しばしば流血にまでいたる、他の教会とのあいだの争いの源になって、宗教上の争いが、攻撃性の精神の一つの新しいはけ口となるのでないならば、ということです。
2  仏教は、この危険からまぬかれてきており、その功績は認めましょう。仏教は本質的に内面的生命の進歩に基盤をおいており、愛の発展を包含しています。キリスト教は、最初は愛を立てたのですが、儀式主義と神学的教義の侵略に、なすがままになり、その結果、しばしば残虐きわまりない内紛をもたらしました。
 現代の世界は――そして、それが、その新しさの一つでもあるのですが――宗教的な感覚を窒息させてしまい、その物質主義の不可避的な帰結として、人間を宗教から背けさせています。マルクスと、彼の宗教をなくす必要について書いた文句が後生大事に繰り返されているのは、なんということでしょう。それが人間的寛大さを願い、社会の残忍さや不完全さへの治療を求めて立った一人の人間によって表明されたものであるだけに、この敵意は、なおさら嘆かわしくなります。
 これは、十九世紀に生まれた物質主義的社会が、人間精神の抵抗にもかかわらず、どれほど重くのしかかってきたかを証明してあまりあります。二十世紀は、この不均衡を、ますます深刻化しているだけです。
3  池田 あなたのこのお答えの中に、平和の実現に関して必要なこと――少なくとも私が日ごろ考えている諸点は、簡潔に、すべていいつくされているとの感を深くします。
 人間の内面的な豊かさを実現することがなによりも大事であり、それには攻撃性の平衡錘としての愛の力を増大することであるといわれている点にも、私はまったく同感です。この、あなたがいわれる“愛”とは、私は生命への畏敬の念、生きているすべてのものをいとおしむ心ともいえるのではないかと考えます。
 仏教は、そういった意味での“愛”の精神をきわめて重視しています。たとえば、釈尊の遠い過去世の修行の一つとして、飢えのために子虎に与える乳も出なくなった母虎に、自分の身体を与えたという話が説かれています。また、釈尊以後、その精神を正しく実践しようと努力したアショーカ大王は、傷ついた動物たちを治療するための病院を設けたと伝えられています。日本でも、仏教を篤く信仰した光明皇后は、ハンセン病の人びとのために治療所を設け、自らの手で、その病人の身体を洗ったというエピソードがあります。
4  ハンセン病の人や獣などは特別な存在で、それらに愛情を注いだからといって、健康で、一般的な人間全体に対する愛とは関係がないと批判する人もいるかもしれません。しかし、これらの例は、たとえば獣をかわいがって人間一般を嫌悪したというような異常愛の人びとではありません。私がここで示したのは、その生命をいとおしむ精神と実現が、狭い範囲に限られるのではなく、あらゆる生あるものに及んでいた仏教思想の実例です。
 生命の破壊をも辞さない攻撃性と、生命を尊び守ろうとする愛とのバランス――とくに後者の優越は、狭い、限られた領域を舞台にしてのそれにとどまってはなりません。どんな残虐な殺人者も、自分自身に対しては、あるいは自分の家族に対しては、攻撃性よりも愛を優先させるでしょう。自分の民族の同胞に対してのみ愛を優先させ、他の国民、民族に対しては、平然として武力を行使する好戦的な指導者は、この残虐な殺人者と根本的には変わるところがないというべきです。
5  また、人間の生命に関しては愛を先行させるが、人間以外の生物に関しては、攻撃性を発揮してなんの良心の呵責も感じない人も、実際には危険性をもっているといわなければなりません。なぜなら、同じ人間であっても人種によってそれを人間以下の存在に含めてしまうことが、しばしば行われるからです。ヒトラーは、ゲルマン民族以外の人びと、とくにユダヤ人に対して、これと同じ操作を行ったように思われます。
 したがって、あらゆる生き物に対して、攻撃性よりも愛を優先して接していくことは、こうしたあやまちを根本的に取り除くために、きわめて大事な点です。とはいえ、人間は、他の生物の犠牲なくしては、生命を維持するための栄養を摂取することができません。だが愛が優先するならば、無意味な殺害はしなくなりますし、自らの生命の維持のためにやむをえず殺すにしても、そこに深い感謝の念をいだかずにいられませんし、かつ、そうした尊い犠牲のうえに営まれている自分の人生を、それだけの価値あるものとしていこうという姿勢に貫かれていくことでしょう。
6  私は、仏教徒になることが、こうした普遍的な愛の精神に立ち、その実践者となるための唯一の道であると排他的に考えているわけではありません。しかし、仏教の教えている生命の法を深く理解するならば、いやでも、こうした愛の精神にめざめざるをえなくなるであろうと信じています。
 仏教では、私たちの生命は、三世にわたる連続性の中で、その善悪の業によって、未来には人間以外の生物となるかもしれないことを教えています。過去にさかのぼれば、同じく、過去世の自分は、人間ではなかったかもしれないのです。この仏教の教えによれば、人間と人間以外のあらゆる生物とのあいだに、根本的な相違、隔絶はなくなってしまいます。
 そして、より自由の幅の狭い生物としてつぎの生をうける原因となる悪い業とは、攻撃性の欲望に身をゆだねて、他の生命を無意味に傷つけ、殺したりした場合につくられます。したがって、自由の幅の大きい人間として生まれた自分を大事に思えば思うほど、人間以外の他の生物を軽蔑したり、傷つけたりするのでなく、それを最大限にいとおしみ、守り、その生命を助けようとすることになります。
 いわんや、同じ人間同士で傷つけあい殺しあうことは、最も避けなければならないことです。戦争は、人びとの生命を奪い、文明を破壊し、人間の幸福を妨げる最大の悪として避けなければならないことであるとともに、自分自身の内面的生命を破壊しないためにも、なんとしても避けるべきことなのです。
7  ユイグ これまで、いくつかの角度から論じ合ってきたわけですが、こうした現代世界の問題は、帰着するところ、一つの中心的な問題に入っていかざるをえません。それは、内面的生命の復権と調和という問題です。
8  池田 そしてたぶん、現代の文明の根本的な悪は、結局、主観性の分野の縮小と、逆に客観性の分野の増大、質の軽視と量の偏重という点にあるということは、異論のないところです。それと同じ意味になると思いますが、私は、人間が自己の変革を忘れて、他の人びとや物質的条件などといった、周囲のものの変革ばかりを追求してきたことに、この歪みをもたらした根源があると考えています。
 その意味で、私は、今日までの文明の特色は“環境革命”をめざしたものであったととらえることができると考えています。
9  ユイグ それが、まさに、私たちがこれまで追求してきた考察の結論です。私たちが“現代文明”と呼んでいる文明が突破した大きな発展段階は、人間に外的世界に対する支配をもたらし、人間は、その支配力をたんに自然の資源を外的世界から引き出すためばかりでなく、もっぱら自分たちの望むところに合わせてそれをつくりかえるために利用してきました。そしてしかも、それによって、人間は自然を消費したり汚したりしながら、自然を破壊するために働いているのです。
 それが“環境革命”の結果です。人間はそこに関心のすべてを注ぎ、それと引き換えに内面的生命を無視し、理性的才能を功利的に適用することばかり考えています。いまや、内的実在の要求するものへの回帰が、生命の恒常的な補整作用によって行われるのを、希望をもって期待する必要があります。
 人間は、世界の征服において、大きい一歩をしるしましたが、そのかわりに、いまや、その本来もっている大事なものを失う危険に瀕しています。下劣な物質的貪欲に夢中になって、自己本来の使命、その存在理由を忘れているのです。人間はその本来の支配権を回復し、その開花の意味を再発見すべきです。

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