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日蓮大聖人・池田大作

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平和  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  平和
 池田 世界の恒久的な平和を実現するために、最も必要なことはなんであると考えられますか。また、そうした平和な世界を実現することの可能性について、あなたはどのようにお考えになりますか。
 この問題には、当然、政治的・機構的な問題も含まれますが、とくに人間の精神的側面に関して、あなたのお考えをうかがえれば幸いです。
2  ユイグ 私は、明らかに、われわれは世界平和の樹立のために働くことができるし、また働くべきであるという信念をもっています。しかし、一方からいうと、その恒久的な維持の可能性という点については、かなり深い疑問をもっていることを白状しなければなりません。事実、そこに到達するためには、人間は、もっと高い段階の存在でなくてはならず、人間を動物性からへだてている距離がもっと短くないものになっていなければならないでしょう。
3  もし間違っていなければ、コンラート・ローレンツ(オーストリアの生物学者)がいみじくもいっているように、人間が動物とわかちもっている一つの基本的な要素は攻撃性です。彼は、たしか、このことばを最も広い意味で使っており、その意味の広さは一つの希望を生じさせうるほどでさえあります。
 その攻撃性とは、要約すると、人間あるいは動物において、他の動物あるいは人間に対し、また、ときとしては自然に対して、自己自身の拡大と確立を推進する力なのです。この生命の推進力をとりのぞくことなど考えられません。しかし、精神分析でいわれるように、それを昇華することはできます。この攻撃性は、単純に野心になり、よい意味での競争心に変わることができます。
 したがって、攻撃性の向かう方向をそらせることによって、攻撃性からその破壊的潜在力をぬきとる試みが必要でしょう。現代生活において、スポーツはこの振り替えのすぐれた一例です。なぜなら、スポーツの魅力は、肉体的抑圧の発散であり、人びとはチームの懸命な努力をみることによって、そこに自らを同一化し、他に勝とうとする欲求を満たすのです。スポーツの見物は、アリストテレスのことばを借りれば一種のカタルシス(浄化)、すなわち攻撃性の放電として奨励されるべきことです。
4  そのうえ、これは創造へと方向づけることによって昇華することができます。私たちが、自分の生み出した一つの作品の中に自己自身を投射し、それを他人に見物してもらうことは、コンラート・ローレンツの使ったことばと一致する最も広い意味で、攻撃性の解放なのです。芸術や文学的創造、思想の発展、哲学者同士のよい意味での競争といったものも、同様に、基本的には、動物におけるよりもずっと発展したかたちをとった、人間における攻撃性のはけ口になっているということができます。
 結局、忘れてならないことは、生命があらわれてからは、すべてが相対する者のあいだの緊張関係であり、人間は一方に攻撃性という極を付与されているとともに、愛という、それを補整するもう一つの極もそなえているということです。愛は、まったく反対のやり方であらわれるにせよ、これもまた私たちにとって、生来的なものです。
5  この二重の動きは生命細胞の出現の初めから胚胎されていたもので、その排除と吸収の二重の衝動のあらわれにみられます。
 現在の傾向をひっくりかえし、人間に、たんに物質的な貪欲を功利的に追求することをやめさせて、内面的生の発展とその完成を成し遂げさせるためになしうることは、まさしく、この愛の力を助長することでしょう(それは、技術の分野でなされるものではありません)。したがって、平和への綱領は、最も内面的な発展へと向けられた人間の進展の全体的綱領の中に入っていかなければなりません。
 古い社会は、人間の連帯感情を発達させるのに好適なように連なった集団の段階をもっていました。あなたは、さきほど、家庭こそ愛の発達のために都合のよい、その核であることを指摘されました。しかし、そこから先に、身近な人びと、親戚の人びと、隣人たちがあり、さらにかつては人間的な規模であった都市という地域社会があり、地方から国、国家がありました。
6  この連続する軌道の輪を、互いに相包むようにしつつ、さらにずっと広げることが必要であり、それには、それぞれの生命を失わせないようにして、思考の自律性に閉じこもる抽象的な区分けにしないようにしなければなりません。なぜなら、抽象的区分けになってしまったときには、それらはもはや互いに補い合うことはなく、ぶつかりあい、理念の議論の非妥協性におちいるのです。こうした抽象的区分けは、より包括的な全体へ結びつき、そこへ移行することをいよいよ困難にし、現実を切り刻み、感情的生活に固有の微妙な色合いを削りとってしまいます。そこにあるのは、論理的定義の無味乾燥さです。
 現代文明は、そのような区分けにのみ基盤をおいている集団を優遇しています。十九世紀に発明された理念である“社会階級”は、この顕著な一例です。社会階級は観念の力の中で昇華したもので、近代社会にうるさくつきまとっており、敵対心と闘争の原理ばかりもたらしています。政党もまた、抽象的原理に立った区分けの一つを形成しており、対立しかうけつけません。
7  これと類似したものとして、過去には、たしかに宗教がありました。しかし、現代社会においては、宗教の凋落とともに、その争いも消失の一途をたどり、世界教化運動も沈静しています。同じように、国家の本質も超克されつつあると、一応はいうことができましょう。しかし、超国家たちは、経済面での企業合同トラストの役を演じながら、個々の国の争い(これはヨーロッパでは、戦争によって消耗しつくすまで、ほとんどやまなかったのです)に巨大な衝突の予想を付け加え、残りの世界をそこに呑みこんだのです。
 それにもかかわらず、現代生活は過去にはなかった二つの有利な要素をもっています。旅行の増加と、とくにテレビとその映像に代表される情報が計り知れないほど増大し、しかも大多数の人びとに届くようになっていることで、これらは、国際的な意識をつくりだしつつあります。もっとも現在のところは、汚染と品位低下の結果しかもたらしていませんが、技術の利用法さえ誤らなければ、人間共同体の感情を強めることができます。
8  また、科学によって武器の破壊力が増大したことが恐るべき危険をまねき、それがかえって僥倖な結果をもたらしているという見方が一般的になっています。原子爆弾の出現以来、それはあまりにも恐るべきものとなったため、責任者たちは、戦争の火ぶたを切ることに恐怖をもっているのです。これは、もはや抽象的観念ではなく、現実に働いている力となっており、すでに、ある場合には、その制御の効果が測定されています。ヒトラーのような狂気の指導者が出ないかぎり、それは有効でしょう。
 結局、すべては、人間の本性の問題に帰着します。そしてそれは、私たちがいやというほど知っているように、よい方向へ向かうどころか、堕落しています。ですから、考えなければならないのは、この人間の本性についてであり、最後の頼みの綱として働きかけなければならないのは、これに対してです。そして、そこから私たちにとって明らかなことは、あすの第一の仕事は、人間の本性に働きかけ、それを内面的豊かさへ導くことでなくてはならないということです。
9  そして、芸術が感受性に対して働きかける再生の役割を改めて強調することが大事です。愛の力のみが、人間を救うことができるのであり、芸術によって、この愛の力は維持されうるのです。なぜなら芸術は、この愛の力のたゆまざる訓練を包含しているからです。もし芸術家が、その作品の制作にあたって、愛と情熱と天賦の才能をそこに発現するなら、それを受け入れ、それに近づこうとする観覧者は、やはり愛に似た行動によってでなければ、その作品と対話することができません。なぜなら、対話は、理解と融合のうえに成り立つからです。
 ですから、私は、教育において、文学や詩、芸術に固有の感性的行動をめざめさせ、それを訓練することに、より大きい場を与える必要性をいいたいのです。
 愛の能力は、私たち各人に潜在的にあります。それは、攻撃性に対する天性の平衡錘としてあるのです。自然は、つねに、それぞれの危険に対して応対できるものを与えてくれているのです。今日では、生理学において、抗体がいかに大きい役割をもっているかが発見されているではありませんか。心理学においても、これと似たものが、きちんとあるのです。

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