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日蓮大聖人・池田大作

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人間革命  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  こうして、マルクスの予見とは反対に、ブルジョア階級は、この新しい階層にその実際的で実利的な考え方を教え込みながら吸収し、ますますその基盤から養分をとりいれています。幻想にとらわれない観察者ならだれでも、階級闘争は、地歩を勝ち取ろうとする貪欲な新しいブルジョア階級と、すでに勝ち取った立場を維持しようとする古いブルジョア階級とのあいだの内部抗争に変形しつつあることがわかります。私は、これは望ましいことだとは思いません。
 めざすべきことは自由な型の社会が創設されることであり、しかも、それを、あくまでも人間精神の深い変革を基盤に行うことです。それこそ、多分あなた方の関心と精神的野心にもかなっていることと思います。人間を再教育し、人間の内に、具体的な物への執着から離れて、創造的な源泉に結びついていく精神的源泉を再建することが必要です。
3  すでに確認しましたように、画一化された情報手段の普及は、この覚醒を助けるにはほど遠く、人びとをますます受け身の姿勢にし、考え方を画一化します。生活の諸条件と情報と文化の諸条件が結合して、人間に、自己に対する努力と、なにかに向かっていこうとする努力を弱めさせているのです。
 テレビ番組はコマーシャリズムに毒されたそのねらいの低俗さによって、この退廃に甚だしく貢献しています。
 ですから、人間の意志力、自己規制力を発達させて、それによって人びとのエネルギーを効果あるものにすると同時に、初歩的な喜びや安逸によって得られる小さな満足や欲望から人びとのエネルギーを転換させることが必要です。このエネルギーは、生命の原理それ自体です。しかし、それは、偏らないようにしなければなりませんし、流砂の中の川のように、物質的欲望の沼地の中に姿を消してしまうことがあってはなりません。
4  自己自身の規律と自制に向かうことによって初めて、このエネルギーは、その真の目標へ向かって導かれうるのです。
 これは、何度繰り返していってもいいすぎることはなく、また申し上げるわけですが、すべての創造を貫いているこのエネルギーの巨大な流れは、物質の最初のめざめから出発して、意識の頂点であり、その最高の先端である精神が真の究極性を示すにいたるまで、漸進的に意識が彼に刻印する方向へ推進する生命の力となってあらわれます。この精神のもたらす究極性とは質の追求の開始であり、さらにその不断の改良によって人間を自己の超克へ向かわせることです。
 私は、あなたの人間革命というお考えに完全に同感ですし、それは、おそらく、同じ基盤に立ち、同じ方向をめざしているものであると確信しています。
5  池田 人間革命こそ、現代のあらゆる危機を乗り越えるために不可欠の課題であるとともに、人間が人間であるために、本質的につきまとう問題であると私は考えています。すなわち、一般的にいっても、自己を変革できることは、人間がもっている、他の生き物にない特質であり、さらに、より高い自己の実現をめざして自己の人間革命につねに取り組んでいくことが、私は、人間であることの証明であるともいえると思うのです。
 “人間革命”ということばは、日本では、第二次大戦後まもないころ、東京大学の総長であった南原繁氏が使ったのが最初であると記憶しています。それとほとんど同じころから、私の恩師である創価学会第二代会長戸田城聖氏も、“人間革命”ということばをもって、仏教実践の意義を説明されていました。
 南原氏は、大戦後の日本人にとって大切なことは、たんに外的な政治体制の変革ではなく、それに対応しそれを支える人間自身の変革がなされなければならないという意味で、人間革命を提唱しました。それに対し、戸田会長は、自分自身の、軍部政府の弾圧による牢獄生活の中での信仰体験を基盤に、仏教のめざすものが、人間一人ひとりの自己変革にあることを教えたのです。
6  戸田会長は、戦前は事業家であることを自らの本分であると考えていました。牧口常三郎初代会長を尊敬し、牧口会長とともに、日蓮大聖人の仏法の信仰のために弾圧をうけたのです。しかし、獄中の体験を通じて、仏法が生きた偉大な力を秘め、深遠な真理を明かしたものであることを知って、この仏法を弘めることが、自分の生涯の使命であることを悟ったのです。
 この生涯の使命の自覚を戸田会長は人間革命の一例であるといい、それを説明するのにアレクサンドル・デュマのモンテ・クリスト伯の話を用いました。つまり、純真な青年であったエドモン・ダンテスが、無実の罪におとされて、苦しい獄中生活を経、復讐の鬼となって、モンテ・クリスト伯として出てきたのも、一種の人間革命だというのです。もとより、彼の場合は、純真な青年から、復讐の念に燃えた一人の男への、けっしてよくない方向への人間革命でした。戸田会長の場合は、一個の事業家から、仏法の精神を根本とした布教者、信仰者への人間革命です。
 これは戸田会長自身にとっての人間革命ですが、さらに戸田会長は、仏教実践の意義は、人間革命にあるとして、あらゆる人にとって、より高い自己実現という人間革命が、仏法の信仰によって可能であり、かつ、なされなければならないと教えたのです。
7  これは、詳しくは、また別のところで述べたいと思いますが、仏教では、いかなる目的をもって生きるかによって、その生命のもつ状態がさまざまに異なることに注目し、基本的に十種の状態を区別しています。いわゆる十界の考え方がそれですが、細かい説明はここでは避けます。大きく立て分けていえば、自己の本能的欲望の充足や感覚的喜びを求める利己的な目的に生きるか、他の人びとや、さらには他の生き物の幸福に奉仕することを自分の喜びと存在理由とするかということです。戸田会長自身についていえば、事業家として生きようとしたときの目的観は、基本的には利己的なものでした。しかし、仏法の布教者として生きると決めた以後の目的観は、他者への奉仕を根本とする利他的なものです。
 いうまでもなく、他者への奉仕の仕方は、戸田会長のように、仏法の布教だけにはかぎりません。それぞれの仕事も、その取り組み方によって、ただ自分と自分の家族を養うためばかりでなく、他者への奉仕の手段として生かしていくことができます。そして、同じ仕事をするにしても、それをたんに自分のために利益をうる手段としてではなく、他者への奉仕につながっていることを自覚したときに、その仕事は、自己のより大きく深い喜びと意欲を呼び起こしてくれることでしょう。
8  私は、戸田会長の呼びかけによってめざめた人びとの歩んだ軌跡、創価学会の歴史自体が人間革命の潮流であるとの視点から、創価学会の歴史を小説として著し『人間革命』と名づけました。しかし、創価学会という一つの組織の中での人びとの歩みだけが人間革命の実証例ではありません。あらゆる世界の、あらゆる分野で、人間は自己の人間革命をめざすべきであり、利己的な生き方から利他的な生き方への転換、なによりも自己の本能的欲望や感覚的喜びのとりこになっている状態から、主体的に自己変革に取り組んでいこうとする姿勢に立つこと自体が、私は、現代の苦悩をもたらしている原因を根源的に打破する鍵であると信じています。
 そして、それは、たんに現代の危機の打開の道であるというにとどまらず、人間が真実に人間としての存在理由を確固たるものにする道であると考えるのです。
9  ユイグ しかし、人間が自己の変革、その内面的な更生に取り組めるようになるためには、その原理や形態について学ばなければならないという問題が残っていますし、さらに、社会の平和が保障される必要がありましょう。ところが、現代世界を見ると、たんに資本主義社会とマルクス主義社会のあいだばかりでなく、ソ連と中国のようにマルクス主義国家同士のあいだで、戦争の脅威が見うけられます。

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