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日蓮大聖人・池田大作

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“聖”なるものの役割  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  “聖”なるものの役割
 ユイグ 明らかに、今日求められているような蘇生、歴史上かつてなかったほどに深みに呑みこまれている人間を救いあげるべきこの蘇生は、他の時代ならば、一つの新しい宗教の出現によってひきおこされたことでしょう。しかし、現代の社会では実利的な精神状態があまりにも絶対的に支配しているので、この不透明な障害物を突き破って、一つの宗教が生まれあらわれでる可能性は、ほとんどなくなっているように思われます。しかし、それも、未来の謎であることは確かです。未来がどうなるかについて予見することは不可能です。
 フランス日蓮正宗によって発刊されている新聞の題名である〈第三文明〉は、私には、すてきで非常に覚醒的に思えます。あなたと同じく私も、私たちは〈第三文明〉の出現のために働くことが必要であり、この〈第三文明〉は人びとを精神的生活の使命に結びつけることを目標にした、宗教的性格を帯びていなければならないと思います。マルローは、無信仰者でしたが、この明確な真理を一つの衝撃的な公式に凝縮して述べていました。「二十一世紀は宗教的な世紀となろう。そうでなければ存在しないであろう」と。
2  池田 あなたが、思想がその当初の創造的な息吹を失う過程と関連して、宗教にも同様の過程があったことを述べられましたので、仏教の、この点に関する卓見を紹介したいと思います。これは、仏教自体が、やがてそのような推移をたどるであろうことを予見し、未来の人びとに注意をうながした教えなのです。
 仏教では、この地球上にあらわれた釈迦牟尼仏以前にも、たくさんの仏がかつていたことを述べ、それぞれの仏の教えが、その仏の亡きあと、正法、像法、末法と推移したと説いています。
 正法の時代とは、その仏の教えが生き生きと人びとに語りかけ、人びとによってその本来の精神が実践され、受け継がれていく時代をいいます。
 つぎの像法の時代とは、像とは形が似ていることをいい、外形は、抽象的教義の整備や、寺院等の建物の壮麗化、儀式の荘厳化によって確立されていますが、内容の精神は、しだいに失われる段階をさします。
 末法とは、すでにその精神はまったく失われ、ただ形骸だけを残している段階です。
3  これは、ただ仏教にのみあてはまる歴史的推移の段階論でなく、あらゆる宗教、さらには、あらゆる思想にもあてはめてみることができる、非常に興味ぶかい考え方であると、私は思っています。
 宗教あるいは思想が創始者によって明示され、弟子たちによって伝えられていく場合、まだ、社会の大勢によって受け入れられるにいたらない段階においては、その宗教や思想を信奉する人びとは、それが革新的であればあるほど、体制側からの激しい反対にあいます。ときには、権力によって厳しい迫害、弾圧にあうことも覚悟しなければなりません。
 この場合、その宗教や思想を信奉する人びとは、そうした苦難にあうことを覚悟して信奉しますから、その宗教や思想に対する信念は物欲の満足や権勢欲、名誉心とはまったく無縁の、きわめて純粋なものであるでしょう。すなわち、その宗教や思想は、こうした信奉者の心の中に、創始者と同じく、生き生きと躍動しているはずです。――これが、いわゆる正法の時代です。キリスト教も仏教もイスラム教も、初期のころは、このようにきわめて純粋な、人びとの信仰心によって支えられていたといえましょう。
4  やがて、布教がその勝利を収め、一つの社会のほとんど全体が、その宗教あるいは思想を受け入れるようになりますと、事情はまったく異なってきます。すなわち、宗教の場合、権力者や大金持ちが、その宗教の恩恵にあずかるために競って豪壮な寺院や礼拝堂、土地、財宝等を寄進します。また、それにともなって物的財産や信徒の管理のために、聖職者の中で組織化が行われ、必然的に、この組織上の地位の上下は、社会的名声と物質的豊かさの度合いに結びついていきます。
 この結果、宗教の本来の信仰心や、その修行の努力が、社会的名声欲や物質的欲望と混合し、さらに人間的弱さの結果として、しだいに後者のほうが大きい比重を占めるにいたります。外形が立派にととのうにしたがって、宗教の本来の精神が失われる危険は大きくなるといっても過言ではないでしょう。
 これが、いわゆる像法の時代の本質的特徴であり、この進行の結果、本来の精神がまったく失われてしまった段階を末法と呼んでいます。
5  釈迦牟尼仏の教えは、最初の一千年が正法時代、つぎの一千年が像法の時代、それを過ぎたあとは末法の時代を迎えるとされており、日本の仏教徒は、西暦一〇五六年をもって、末法の時代に入ったと考えてきました。
 ただし、この正法、像法、末法の推移は、釈尊の教えた法自体がその効力を失う過程であるというよりも、むしろ、人びとの心が、その客観的条件の移り変わりによって変わっていくことを示したもので、仏教がこれを説いたのは、未来の人びとを戒めるためであったと考えることができます。
 したがって、ここで大切なことは、仏教の信仰者が、その本来の純粋な信仰心を失わないこと、ともすれば、物質的欲望や社会的名誉欲をかきたてやすい客観的状況の中にあっても、それらに惑わされず、信仰者として人間としての高貴な理想を堅持していくよう努めることです。この、絶えまない人間自身の自己変革、自己刷新の作業が、人間を堕落から守り、精神的高みに保っていくため、絶対に必要なことであると私は思います。
6  私は、現代の危機を打開する力の源泉を仏教は、まちがいなく秘めていると信じています。それは、人間に自らの深い真実を覚知させることを根本にして、主体性と寛容性を確立させる教えであるからです。
 “主体性”とここで私がいう意味は、本能的な欲望や衝動に引きずりまわされないことであり、したがって、物質主義への志向性に負けないことです。それは、こうした本能的欲望や衝動によって維持されているこの肉体の現実から逃避したり、それを消滅するのでなく、より強い精神的な力の樹立をめざすものです。
 また“寛容性”と私がいう意味は、他の人びとの、あるいは、さらにいえば、あらゆる生命的存在のもつ生きる権利を尊重し、その精神的価値に敬意を払い、助けていこうとする姿勢です。仏教では、これを“慈悲”と呼んでいます。
7  これら二つの力――すなわち一つは自己の確立という求心的な力であり、もう一つは、そこから、他者へ向かう遠心的な力――の均衡と、より以上の増幅を可能にする根本が、自らの深い真実の覚知という一点です。仏教の教えと修行の核は、まさにここにあるといっても過言ではありません。“仏陀(ぶつだ)bouddha”とは“覚り・智慧bodhi”を得た人という意味であり、この覚り・智慧とは、あらゆる人間、あらゆる生命的存在、さらにあらゆる事物の深い奥底に共通して貫いている宇宙的真理の覚知にほかならないのです。
 ともあれ、仏教は、物質主義的な現実の世界から逃れるのでも、それを否定するのでもなく、それを主導していける精神的力を人間の内にめざめさせるのですから、現実のこの人類社会の未来を開く力の源泉になることが可能であると私は考えています。

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