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自由主義社会  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  自由主義社会
 池田 つぎに自由主義社会がありますが、あなたは、その未来をどのように予測されますか。自由主義が基調としている自由競争は、あらゆる面で弱肉強食の様相と混乱の事態を招いており、そこで、弱者を保護するため、また秩序を確立するために、統制主義を導入する傾向を各国とも示しているようです。自由主義社会が人間の自由を損なうことなく秩序を樹立しようとする場合、そこで最も大切なことはなんでしょうか。
2  ユイグ 生命に不可避的にあり、つねにこれを補整していくリズムが、権威主義的社会の段階とその閉塞を乗り越えて自由な社会の型に復帰できるようにしてくれるということは、ありそうなことにみえます。しかし、これは、以前の自由な社会つまり資本主義社会への単純な復帰としてはありえないことで、権威主義の社会は、その時点では、そうした自由社会の欠陥と行き過ぎを是正しようとしたものであったのだということを理解する必要があります。
 この自由社会の欠陥とは、あなたが、非常に明確におっしゃっているように、強者のずる賢さと暴虐を野放しにしてしまったことで、強者はカネの力によって弱者を食い荒らす特権をもっていました。こうして、逆説的ですが、搾取され、辛うじて食べていけるだけの収入をしか与えられなくなったのは、労働者だったのです。
3  今では労働者は守られており、十九世紀のような許しがたい権利の乱用は、二十世紀の初め以来、しだいに制定されてきた社会的な法律によって原則的には除去されているということを認めなければなりません。彼らの運動が実現した自由な社会は、一つの誤りから、それを補う別の誤りへ移る傾向をもっており、その“社会主義”への改宗に押されて、その管理職や自由業を犠牲にして、かつてはひどく卑しまれた手仕事に、より高い価値を与えるようにさえなってきています。これもまた、ブルジョアジーからその反対者に移ったこの物質主義の別の極端におちいっている証拠といえるでしょう。
 同じように、その束縛をあまりにも感じさせすぎたために、ブルジョアジーの勝利のときに、社会の贖罪の山羊(やぎ)となって罪をかぶせられた雇い主に対する世論の攻撃的な転回がみられます。雇い主は、いちばんたいへんな仕事をやり、企業の責任をもっている人で、船長がその船にとって重要で不可欠であるのと同じくらい大切な存在です。たしかに、ボイラーが働くためには船倉係が必要です。しかし、航海が安全確実に行われるには、船長が船尾高甲板にいることが必要なのです。
4  現在の自由主義社会の弱点は、そこにあるのでなく、強者すなわち悪賢い人間が不当な分け前を取っているのをいまだに許しているところにあるのです。労働者の生産的な仕事と、それを指導する雇い主の仕事とのあいだに、投機師を兼ねた仲介者が入ってきます。彼は、自らの有用性に見合った額より以上に、ますます大きな利益を先に取る権利を独占しています。
 彼は、しばしば、道路を押さえる位置にいるということから、不当な通行税を取り立てた中世の城主を思い出させます。国家が、多種な税をあらゆる段階から権柄けんぺいずくで徴収していることが、その手本を示していることはほんとうです。マルクス主義社会では権力者が分け前を独占しているのに対し、自由社会の欠陥は、狡い人間、経営者に、一番いい分け前をせしめることを許しているこの寛大さにあります。底辺で働いている人びとから、さまざまな段階で計画し監督する人にいたるまで、つくる人つまり労働者は、生産された財の主要な利益にあずからなくなっています。
5  この利益を吸収しているのが投機師です。そして、それに加えて非常にしばしば、彼は、不正行為によって、社会が収入に対してかける、増大し、いまや過重にさえなっている税をまぬかれています。その結果、監督されながら、実際に働いている人がいちばん痛めつけられ、いうなれば、罪を被せられているということになります。こうして、社会に対して最も少ししか貢献しないで、むしろそこから上前をはねている人間が、しばしば、最も恵まれた立場に立っているのです。
 この自由社会の欠陥を修正しようとしているのが社会主義であることは明らかです。しかし、その社会主義も、今日みられるように、時の経過のもたらす根本的な悪弊に破れていることを知らなければなりません。それは、あまりにもしばしば、生きた現実に対して抽象理念を立てることによって、極度に教条的で合理的な組織化の道具になっています。
6  それは、根底において、宗教がたどったのと類似した変化の道をたどっています。宗教は最初の創造的な躍動の高貴な力を失って、そのかわりに教会を破滅させるもの、つまり、抽象的教義と、社会のために用意している管理的な規制の儀式の中に自らを固定化していくのです。
 社会主義もまた、経済的利益しか考えません。ただ違うのは、それを国営化することによって、別の分け方をしようとするだけです。
 ところが、どんな社会的解釈も、もし、物質的人間と同時に、精神的人間の改良を揺るぎないものにしなければ、破れてしまうのです。

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