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中国  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  中国
 池田 つぎに、中国については、いかがですか。中国もまたマルクス主義の国です。しかし、ソ連とは一線を画しています。私は中国が国際社会の中で担っていく役割、さらに広くいえば、世界の文明の中で果たしていく役割はきわめて大きいと考えています。
 しかしながら、現在のところ、中国はまだ人類の未来に対して、指導的な、新しい文化を創造するにはいたっていないとみられています。
 あなたは、今日の中国に、人類の未来にとって希望となりうるような要素をお認めになりますか。
2  ユイグ この対話の第一部で、毛沢東が偉大な洞察力をもって、中国では農業時代から工業時代へ、あまりにも急激で乱暴に推移しないよう気をくばっていたことをお話ししました。しかし、その他の点では、彼もまたマルクス主義を信奉し、そのやり方に従う行き方をとりました。現在のところ、それ以上のことをいうのは困難です。
 世界でも最も古い農業文明圏の指導者として、彼自身、明確な意識をもって、恒久的に価値あるものと判断したいくつかの基本的な事柄については、それを注意ぶかく保存しようとしたことは明らかです。しかし、彼が指導した大衆の大部分は、あまりにも“集産主義者”の綱領に従い、個人を軽視してこれをつぶそうとしかしませんでした。
3  一九四九年の毛沢東の政権樹立以来、なるほど中国の人口増加は五割以上に達しましたが、大規模な飢饉はやみ、今後は食糧が確保されたようです。一九七〇年、周恩来は、気象条件がよければ、穀物生産高は二億四千五百万トンに達するであろうと見積もり、貯蔵分は約四千万トンにのぼると発表しました。
 しかし、主要な努力は工業発展に注がれていたのであり、その年間成長率は一二パーセントでした。農業生産のそれは平均六ないし八パーセントに達していました。それは初めは二一から二五パーセントを記録したのですが、“大躍進”のさいに年七から一五パーセントに落ち着いたのです。
 こうして、賢明なやり方によって、農業が工業の発展のために犠牲にされることは避けられました。工場の集中化を避けて、農村地帯に散らばす試みが行われたこともよく知られています。
 それにもかかわらず、人民公社で働き、しかも狭い私有地を耕作している農民の収入に比して、都市労働者の実質収入は三倍もあり、差はあいかわらずあります。専門家の見解によれば、平均寿命は十二年から十六年延びるでしょう。国民総生産はアメリカのそれのやっと四パーセントで、しかも、人口は八億を超える膨大な数です。毛沢東の後継者たちは、これをどうするのでしょうか?
4  池田 人類の未来のために果たす中国の役割が、きわめて大きいと私が確信している理由は、いくつかあります。中国は、過去数千年にわたる統一国家としての歴史をもっており、それは世界のいずれの国にもみられないものです。もちろん、その途中には、統一体制が崩壊したことも幾度かあります。しかし、つねに統一体としての理念は生きつづけ、新しい王朝によって統一を取り戻してきました。
 巨大な地域にわたり、しかも幾多の民族を包含したこの統一国家は、世界を包括するなんらかの統一体制が実現されなければならない人類の未来にとって、貴重な教訓を与えてくれるはずだと思うのです。それは、力による抑圧、制覇いわゆる“覇道”ではなく、“王道”の理念にもとづいた調和の実現です。
 もちろん、中国でも統一の過程においては武力が用いられましたが、統一実現後は、正義の理念の浸透が根本とされ、統一の恩恵ができるだけ平等に行きわたるよう努力がなされました。中国の各王朝が、歴史の編纂を重視したのは、みずからの正統性を明らかにし、武力によらず、理念によって、その統一の安定化を実現しようとした証拠といえましょう。
5  ともあれ、一つの王朝が崩壊したあと、その混乱の中から、統一へ向けての抑えがたい意欲がかならず盛り上がっていったのは、やはり理念を根底とした統一が伝統的であったからこそであったということができます。もし、それが個人的な野望の噴出にすぎなかったとすれば、全土を統一できるほどの世論の支持は得られなかったでしょうし、幾多の混乱にもかかわらず、それがかならず統一の回復へ収斂するなどということはなかったはずです。
 また中国は、現在の、工業化を近代化と考える風潮の中にあっても、工業の発展と農業文明の伝統を維持することに深い関心と努力を払っています。中国人の考え方と共通したものをもっているのは、ヨーロッパではフランスではないかと私は思っていますが、すでに申し上げてきましたように、工業と農業の調和ある共存は、いいかえれば自然と人間の共存のための要でもあり、未来の人類の生存のために最も大事な課題です。
 中国が、この課題に対してどのような成功を収めるかは、現在のところ未知数ですが、少なくとも、工業化のために農業を犠牲にしてきた、そして、現在も根本的にそれを改めていない大多数の先進諸国にくらべて、この両者の共存をめざしていることは、高く評価すべきです。
 以上あげた、政治・経済・産業の点については、私は、中国は、未来の人類にとって、貴重な手本となりうるであろうと考えています。しかし、個人の自由、その尊厳性という点については、中国は、あまりに参考にならないでしょう。その点での模範は、ヨーロッパとくにフランスが重要な立場を占めるとみています。
6  ユイグ もう一つ、中国に関して残っている大きな問題は、ソ連との関係です。中国はソ連にとって競争相手であるため、その弱点をねらいかねませんし、伝統的に実際的であるため、盲目的に教条を守るよりも実際の状況に適応するほうを選ぶでしょう。これらは、ソ連との敵対関係の中で無視できない切り札です。しかし、ソ連はその知的硬直のため、中国より脆いとしても、物質的力の行使においては一日の長があります。敵対しあう兄弟は厳しく警戒しあうものです。
 たしかにソ連は、その現在の優位を利用しようとするでしょう。しかし、もし戦争になった場合、資本主義諸国が他の社会主義国を利用して背後から攻撃を加えるのではないかと恐れています。ですから、ソ連は、まずヨーロッパと決着をつけようとしており、また、ソ連は、そのための備えをますますととのえずにはいられません。
 しかしながら、それでもなお、ソ連は、中国が機会をとらえて西側陣営に加わり、東側を攻撃するのではないかという恐れにつきまとわれています。ソ連は、どう決断するでしょうか? ソ連とわれわれの未来は、そこにかかっており、その期限は、多くの人が、自分を安心させるために考えたがっているほど遠い未来ではありえないでしょう。
7  なぜなら、私が補整的と呼ぶ、未来をつくりだすために働いていく深い衝動を算定するだけでは不十分であって、その予測の中には、期待される動きを歪めてしまうかもしれない不慮の事件を考慮する必要があります。そうした不測の事件は、人類的な大きな問題よりも自国の直接的な利益のほうを気にかけている国家指導者たちの政策や計算や決断によって起こるものです。こうした事件の最も恐るべきものが戦争で、これは私たちの未来の中に透かし模様として、つねに刻み込まれているのです。
 そして、それがソ連人あるいはもっと厳密にいえばブレジネフ死後の、これを選択しなければならないときに権力の地位についている人とその仲間の選択いかんにかかっているということは、ありうることです。つまり、その選択とは、その手を自由にするためにヨーロッパと戦って中国との係争問題を調整する道を選ぶか、あるいは、中国がその高まる力を組織化できる前にこれをたたく道をとるか、です。ソ連にとって、この碁盤上の重要な駒であるアメリカは、不安定な受け身の立場ですが、いざというときは、最も重要な役割を果たすでしょう(ロシア人が、根っからのチェスのチャンピオンであることを忘れないようにしましょう)。
8  池田 私は、これまで、ソ連、中国を何回か訪れ、その指導者たちとも語り合いましたし、若者や市民たちとも交歓しました。もちろん、そこで会うことのできた市民たちは、かなり指導者たちによって選ばれた人びとだったであろうと思います。
 しかし、マルキシズムによる革命が、それ以前の過酷な圧政を取り払い、少なくとも物質的豊かさの点では、人びとに大きい福祉をもたらしたこと、それを人びとが喜んでいることはまちがいないと感じました。私は、ソ連や中国のマルクス主義政権がこの物質的な貧しさの苦悩をその人民から取り除いてきた功績は高く評価すべきであろうと考えています。
 それにもかかわらず、思想、学問、芸術等の分野においては、創造的な仕事に対して、権力による圧迫が加えられることもあるようですし、とくに、思想を表明したり集会を行ったりすることに対しては、強い規制があります。
 この権力による管理的なやり方は、二十世紀の今日においては、自由諸国でも強まる傾向があり、それは、資本家と労働者、市民同士のあいだに自由主義原理のゆえに生ずる過当競争や、その結果としての敗北者のみじめさを救うためには必要なことでもあります。
9  だが、自由主義を基本としていくかぎり、そこで採用される管理的手段は、あくまでも欠陥を補整するためという限度をもっています。ところが、マルクス主義は、少なくとも物質の生産については徹底した管理方式を貫くことを原理としています。物質の生産に関する管理は、そこに働く人間に対する管理を必要とし、やがては、社会のあらゆる分野についても、権力による管理的やり方の拡大を要求するにいたります。
 この意味で、私はマルキシズムの政策は、本質的に全体主義的統制の手段から離れることはできないと思いますし、もし、物質的な欲求が十分に満足され、人びとがさらに精神的な自由を求め、管理的統制をきらうようになり、それが人びとの大多数の要求になったとすれば、マルキシズムの政治は、根底から動揺せざるをえなくなるであろうと推測するのです。
10  あなたも指摘されているように、マルクス主義国家が、マルクス主義をドグマ化することをやめ、時代の変遷に対応し、人びとの求めるところに応じた政治を実現していけば、マルクス主義は、その人民のために歴史的にも高く評価される貢献をしたことになるでしょう。そして、それが、かりにマルクス主義と現在呼ばれているものとはまったく異なったものになったとしても、教条的なマルクス主義よりも、本来、マルクスがいだいていた理想にはるかに近づいたものといえるでしょう。

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