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日蓮大聖人・池田大作

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時間的連続性の保護  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  池田 今いわれたことは日本においてとくに甚だしく、各都市のもっている歴史が極度に軽視される傾向があり、歴史的な建築物が、機能的でないとか、古びてしまったとか、非経済的である等の理由で、かんたんに壊されていく例がたくさんあります。その点、パリやローマなど、ヨーロッパの都市では、歴史的な建物が、今も都市生活の中で生きています。
 歴史的な建物は、その都市に精神的な深みを与え、そこに生きる人びとに安定感を与えるなど、重要な機能をもっていると私は考えています。
3  ユイグ その原因はこういうことです。すなわち、人間は空間的に定められた一つの場にあるとともに、時間的にも一つの瞬間の中におかれて、そこで彼の人生が一つの行程を実現するのです。そのことは、一個人についても、その無限に巨大な規模の人類の総体的な生についても同様に真理です。空間の中に身を落ち着けるのと同じように、この持続性という第二の広がりが、人間にとってそこに身をおく場であることは明らかです。
 しかし、持続的時間が存在するのは、それが、過ぎ去ったなにかからきて、あるであろうなにかへと向かうからにほかなりません。そして、現在とは、これら二つのあいだの仲介者なのです。
4  このため“近代主義”の概念は、すでに述べましたように、これらを単純に抽象化します。これは、きわめて有害ですが、現代はそこに喜びを見いだしています。“近代主義”の概念は人間に現在の瞬間にしか属すべきでないことを納得させ、その独自の特性を表示しようとします。
 これは、時間の本性を理解しないことです。人びとは、現にあるものの存在理由である過去から自らを切り離しては、不都合なしにすむ道理がありません。現在の催眠状態の中に自らを閉じ込めることは、未来を拒むことでもあります。なぜなら、現在の特性のみに屈服することは、未来の誕生を封じ込めることにならないわけがないからです。
 ですから、そこには重大な危険があります。そして、それは、とりわけ都市生活にあらわれています。なぜなら、田舎の生活は、自然によって、毎日毎日の、また季節ごとのリズムある流れの中にひたされているからです。人間は時間の連続性を意識し、その中に自らを組み入れていくやり方を自覚していることが必要です。もし彼が、現在、つまり現実に行われていることが、かつて行われたことと違っていることを感じとるならば、彼は、一つの発展の中に投入されていることを理解するでしょう。きのうよりもきょうが違っているのと同じように、あす起こることは、今あることとは不可避的に違っているでしょう。
5  近代主義は自らを定義づけ固定化することはできません。それは、絶えまない変化の中にあり、また変化せざるをえません。各世代が自分の近代主義をもっており、それは以前の近代主義への否定なのです。ですから死滅しないまでも、すでに老衰におちいった今日の近代主義を求めるよりも、あすの近代主義を予測することのほうがずっと大事です。
 記念建築物や過去が残してくれたものすべてを保存することは、現在に、その相対性を規正する感覚を与えてくれ、こうしてつづいていく世代のあいだに一つの絶えまない対決を維持してくれます。この対話のつづく中から未来が生まれていくのです。
 西洋では、ロマン主義以来、十九世紀にまず田園が重んじられたのにつづいて、歴史的な建造物への敬意ということが受け入れられるようになりました。日本は、すでに博物館の原理を適用し発展させてきているのですから、当然、この西洋と同じ列に加わるべきでしょう。それがどういうことであるかは、あなたもご存じでしょう。
6  池田 残念ながら日本の現状は嘆かわしいものです。現代の日本の都市では、建造物ばかりでなく、古くからの由緒ある地名、町名も味気ない名称に取り換えられています。“東京”という名前自体、それ以前の“江戸”に代えてつけられたものです。
 元来、日本の建築は木造であるうえ、気候が高温多湿であるため、長期の使用に耐えがたい面があるかもしれません。しかし、堅牢で、十分に耐久性があっても、補修等のために費用がかかる、空間の使用効率がよくないといった経済的理由から、歴史的価値があっても、かんたんに壊される例が非常に多いのです。
 たとえばフランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家)が設計した帝国ホテルの建物は、識者の強い反対にもかかわらず、経済的効率の観点から除去され、新しい近代的なホテルに生まれ変わりました。これは、日本の伝統的な建物ではありませんが、しかし、近代欧米化の一つの歴史的な意義があるのみでなく、建築美の視点からも、すぐれた作品だったのです。
7  ユイグ 私は最初の訪日のさい、その帝国ホテルに泊まりましたので、覚えています。それは、当時最先端を行っていた近代主義を損なうことなく日本の伝統的建築の真髄をあらわしたすばらしいフランク・ロイド・ライトの傑作でした。
8  池田 また、こうした経済的効率が優先して考えられる背景には、政府の施策の不備もあげられなければなりません。古い歴史的な民家が文化財に指定されても、その維持に必要なだけの援助がなされないため、しかも、文化財に指定されたということから参観者が増え、その接待のために、かえって出費が増大するという例さえあり、そこに住んでいる家族にとっては、重荷になってしまうのです。
 こうして、日本の、とくに大都市においては、人びとも、経済的効率を中心に考えざるをえないわけです。地価がどんどん上がると、空間的ゆとりをもった古い建て方では、ずいぶん損をしていることになります。一家族しか生活できないような構造になっている邸宅は壊されて、たくさんの家族が入居できるアパートが建てられていきます。
9  先ほど申し上げた地名や町名の変更は、最近では、役所の業務、郵便局の仕事の都合が大きな理由になっています。細分化され、複雑に入り組んだ町の境界線は単純化され、画一化されることによって、帳簿も簡単になりますし、コンピューターの利用にも便利だからです。しかし、こうして町名が変わってしまうことによって、文学作品に出てくる舞台もわからなくなったり、ある人物の足跡も不明になってしまいます。
 なによりも、歴史的な地名に愛着をもち、細分化された自分の町に親しみをもっていた住民の気持ちが、町名変更の処置によって打ち砕かれてしまうのです。それはちょうど、刑務所に入れられて、個人名でなく、番号で呼ばれるようになるのに似ているのではないでしょうか。
10  ユイグ フランスでも、同じ理由から、同様の現象が起きています。それは昔からのパリの“街区”を思い起こさせる電話区域の名称の廃止です。郵政省の役人は、エリゼとかアンバリッド、オデオン等といった馴染みの名称を廃して三けたの数字に置き換えようとしているのです。どこもかしこも、不毛の数字が匿名になっているわけです。そのうちに、氏名にかわって、数字の名簿になるのではないでしょうか……。
11  池田 これらに共通しているのは、現在の利益だけを考えて、過去のことや、その過去のものがもっている精神的深みなどに対する軽視です。経済的利益の追求だけに生きる現代の都市生活の乾ききった性格は、そこに生きる人間に絶えまないストレスをもたらします。私は、現代の機能化された巨大都市が、多くの場合、犯罪の多発地帯となっていることも、この現代都市の特色と無関係ではないと考えます。
 まさに、あなたがおっしゃっているように、人間は、現在の空間的広がりの中に生きていると同時に、過去から現在にいたり、さらに未来へと流れていく時間の連続性の中に生きています。この空間と時間の両方で、人間は肉体的にも精神的にもつながりをもって生きているわけですが、私が思うには、空間的つながりが主として肉体の面に関係しているのに対して、時間的つながりは主として精神の面に関係しています。
12  つまり、私たちの肉体面を支えている物質は、現在の世界のさまざまなところからもたらされてきたものです。それに対し、私たちの精神面を支えてくれるものは、過去からきます。現在の世界からもたらされる種々の情報も、もちろん、精神的豊かさを増してくれないわけではありません。しかし、ほんとうの意味で精神の糧になるのは、あるていど以上、時間の淘汰を経た情報、知識であり思想であるはずです。
 まして、そこに生まれ、人格を形成し、生活を営む環境が、平凡な庶民であった父祖たちであれ、著名な人であれ、過去に活躍し、生きた人びとの息吹を伝えてくれるだけの歴史性をもっているならば、それは、どれほど精神的な豊かさと安定感、安らぎを与えてくれるかわかりません。たとえ今の人生が辛くとも、かつて、この同じ舞台で、同じような人生を生きた多くの先輩がいたという思いは、大きな励ましを与えてくれるでしょう。
13  また、偉大な人物の思い出が刻まれている環境は、その町に住むことに、そして、その人間と同じ家並みを目にし、同じ道を歩いていることに、大いなる誇りをもたらしてくれるはずです。私は、ヨーロッパ、とくにフランスを旅して、多くの通りが過去の人物の名で呼ばれていることに興味をおぼえました。日本でも、そうした例がまったくないわけではありませんが、ごく限られています。また、日本人には日本人の特性がありますから、フランスの真似をする必要は毛頭ないわけですけれども、少なくとも、過去とのつながりを大切にしていくということは、もっと真剣に日本人も考えていくべきだと思っています。
14  ユイグ 西洋が十九世紀以後、歴史的建造物を尊重する心、さらにいえば崇拝をさえ取り戻したのは、ほんとうの理解というよりもむしろ、多くの場合、一つの原理によってであったのです。こうして、人びとは注意ぶかく、しかも巨費をかけて、有名な教会堂を大事にし維持します。しかし、それが面している広場に、完全に近代的な鋼鉄とガラスの建築物を建てるのです。そのはっきりしたケースとして、アミアン(フランス北西部の都市)の場合をあげることができます。
 過去の建造物は、ショーウインドーの中の物のように一つの抜粋として生きながらえるべきものではありません。それは人びとが生きた雰囲気とつながっており、そうした雰囲気は、生まれたままの環境を保持していないかぎり、呼びさまされはしません。各世代は、その革新的な創造物を生み出す権利と義務をもっています。しかし、それは、異なった時代が生み出した相異なる傾向のものを乱暴に打ち壊すことによってなされるべきではありません。
15  こういうと、よく人びとは、過去といっても、絶えず異なった時代の要素を近づけ結び合わせてきたものではないかと反論してきます。そして、中世に建てられた一つの教会の中で、十八世紀には、バロック式の合唱席が、おかまいなしに飾りつけられた例を示します。この論拠はもっともらしくみえますが正しくありません。なぜなら、こうした変化は、バロック時代(大きい意味では、ヴェルフリン=スイスの美術史家=も言っているように、ゴシックもこの中に属します)の、さらにいえば農業文明のもっていた一つの統一性を乱してはいないからです。
 この農業文明は、今は終わりました。私たちは、工業文明の中に入っているのです。その結果、もはや、容易に結合できる一つのものの局面の変調といったものではなくなっています。私たちは、これまでの文明と現代文明とを分けている根源的な亀裂、強烈な対照に直面しているわけです。
16  建築において、一つの文明から別の文明への移行は、建造物の役割を変えてきました。農業文明においては、建造物は、感性的なものや体験されたことによって、その栄養分を得ています。ところが、現代の工業と技術の文明においては、建築物は実際的で抽象的な関心によって支配されます。そのため、現在、機能主義と呼ばれる“機能的な芸術”の理論ができ、それが、しばしば盲目的なほど極端に推し進められてきたのです。これがまた、一つの“精神的伝染病”になっているのです。
 かつては一つの連続性の中で多様性をたどることができたわけですが、現代においては相容れないもの同士の憎しみあいが、そこに置き換えられてしまっています。ただ願わしいことは、古い街の一画に傷口を開いて、それがもともともっている雰囲気を暴力的に消散させるのでなく、現代の実現しようとするものが、一つの全体をつくることによって、はっきり違った総体を形成することです。この明白な事実が、現代の都市計画には容易に受け入れられないのです。
17  しかしながら、都市の均質性を尊重すべきであるとする“都市の織物”という概念は、しだいに地歩を占めています。しかし、それに賛同しているのは、まだようやく、最も進んだ人びとだけです。他の視野の狭い人びとは――しかも、そういう人が指導権を握っていることがあまりにも多いのですが――このことをまだ理解しておらず、ぜひとも“近代化”するのだという口実のもとに、始終、取り返しのつかない損失をもたらしています。
 その典型的な例を一つ示しますと、パリで古い都市機能の唯一の生き残りであったサン・ジェルマン市場を壊そうという頑迷な欲求から、ばかげた人びとは、その石の建物のかわりにガラスと鋼鉄のポンピドー・センターという建物をつくったのです。
18  ここに見られるのは、私たちと環境とのあいだの外的調和に対する罪と同時に、人間の才能の均衡の中にある内的調和に対する罪という現代の主要な性格です。私たちは、物理的法則から引き出された原理や教条的定義、さらには処方箋によってすべてを規制しようとします。しかし、それらは、生きている物を特徴づけている多様で補整的な豊かさには適用できないものです。
 調和は、私たちの内なる裁きとして、自らを感知し、自らをあらわします。個人は調和によって自らを実現していると感ずるのであり、調和こそ、個の開花の鍵であるだけでなく、たぶん、その命綱です。各人の内に、各人によって感じ取られるこの判断が排除されたときには、あとに残るのは人間の可能性を窒息させる規則だけであり、人間は機械化され、したがって、歪められてしまいます。
 事実、調和が広くはすべて生きている者の原理を決めているのであり、これなくしては、人間は自分の個性を決定づけている多様性の能力を失うのではないでしょうか。私たちは、この点にまた帰っていかなければならないでしょう。しかし、その前に、私たちは、国家や政治を無視してこの社会的問題について語ることはできません。これらも、その点に緊密に結びついているからです。

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