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日蓮大聖人・池田大作

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都会生活  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  都会生活
 ユイグ 家庭の崩壊をもたらした種々の原因の中で、都会生活の諸条件は、どんなに強調しても、過大評価にはならないでしょう。今日、そのことに気づいていない人はまれなくらいですが、どうしたらよいか、わからないでいるのです。人びとはただなすすべもなく忍従しています。大都市では、経済的な理由から、労働者や従業員は、仕事場とは遠く離れたところに住むことを余儀なくされています。その通勤に要する長い時間のため、ほんとうなら一家の父親が家族とともに過ごせる何時間かをとりあげられているのです。しかも近ごろは、主婦も夫の収入を補うために同じように働いていることが非常に多いため、このことは主婦にもあてはまります。
 繰り返しになりますが、経済的理由が人生の大事なものを押しのけて、取って代わっているわけです。
2  それはそれとして、とくにテレビなどの大量情報手段が、この家族的団らんの風化を促進しています。画一的でしつこい一種の授業を、同じ時間に、あらゆる家族の居間に伝播することによって、はるか遠くの田舎においてまで、会話によるふれあいや、父親や母親が子供にあわせて施す個人的な教育のかわりに、作為的でうるさい教育を押しつけているわけです。家族の食卓を囲んでの心の交流は、この催眠的な映像に取って代わられています。
 しかも、この危機に対して、どんな治療法があるでしょうか? どんな手段でこの事態に対処できるでしょうか? いつものことながら、規則や法律は、抽象的で一般的な手段を増やすだけで、それは、すでに現代社会において生活を変質させているものを、さらに輪をかけて増大するだけでしょう。
3  池田 それに加えて、かつては人間の生活は村落共同体の中で営まれていたのに、都市生活では、人間個々人が孤立化におちいっています。
 私がここで明らかにしたいことは、それはなぜか、という問題と、これから未来において、人間にとって、共同体社会の必要はあるのかどうかという問題です。
 私はかつての伝統的共同体社会がもっていた機能が二つあると考えています。一つは、緊密な協力関係によるその生産的機能です。これは、一種の機械の役割になぞらえることができます。私は西洋の農村において、昔、どのように行われていたかを知りませんが、日本では、たとえば、稲の植え付けのように、大きい仕事をある短期間になしとげなければならない場合、村じゅうの人が力を合わせて、きょうはある一家の植え付けをする、あすは別の一家の植え付けをする、というようにしてきたことを知っています。
4  そのように、作業が共同体の存在を必要としていたわけです。しかし、近代化とともに、稲を植え付ける機械が導入され、今日では、村じゅうの人の力を借りなくても、機械で、必要な仕事が十分に成し遂げられるようになりました。つまり、作業の機械化が共同体の存在を必要としなくなってきているのです。
 村落は昔と同様にあっても、人びとが互いに顔を合わせ、いっしょに仕事をする機会は少なくなりました。機械の導入によって労働が楽になったことから、多くの農家では、男たちも女たちも、都市に仕事をもち、働きに出ています。生活そのものが、都市化されてきているのです。
 こうして弱体化した共同体社会は、当然、もう一つの機能を失うにいたります。それは、教育であり、人間形成を助ける機能です。共同体社会が長いあいだ伝えてきた慣習や風習は、合理性を超えて、次代を担う子供たちの思考・感情教育に、大きい役割を果たしてきました。子供たちは、学校で知的・合理的教育を受ける一方、共同体社会の中で、昔ながらの生活感情や、学校では教えない人間関係の対処の仕方、また自然のリズムとの対応などといったことを身につけることができました。
 それが、現代社会では、ほとんど顧みられなくなっています。
5  あなたも指摘されているように、理性だけではとらえきれない、共同体的な人間同士のつながり、さらには大自然、大宇宙に脈打つリズムとの共感は、人間の真実の人格養成のために欠かすことのできないものです。都市と農村とを問わず、これらは、人間として必要不可欠の要素であると思います。
 私は、仏教は理念的にこれにこたえうると思っていますが、同時に、仏教のような宗教をその深い次元で絆としてもっている“人間共同体社会”の実現が、どうしてもなされなければならないのではないかと考えています。
6  ユイグ その解決は――、再びそこへ戻るわけですが、――現代生活によって、その本来の状態と正常な働きを妨げられている内面的生活の深い変革、人間の再生にしかありえません。内面的生命への回帰のみが、家庭という細胞のもつ抵抗能力を増大することができるのです。近親とのふれあいによって、人間の人格は、自らを強めると同時に、自らの独自性をあらわしていくことを学びます。
 人間の人格は、原理原則のうえに立っている人工的な共同体の中では、やせ細るのみです。しかし、生きた人びとの中では、不均衡は、絶えまなく強まっていくということはできず、行きつくところは、消滅します。
 事物の自然の働きの中では、不均衡は、その反動としての衝撃をまねきます。個人ないし集団が、そのさまざまの面の中の一つだけを強化して人間性の平衡を破っても、しょせん、人間は生物学的・心理学的な秩序の中にいるのであって、この秩序は平衡を回復するような反動をひきおこすのです。そうした反動の芽生えに注意をはらい、その芽生えを妨げている時代思想の硬化症を明確にし、その意識を助けてくれる反対の思想をそれに対置させることによって、この芽生えを大事にしていく必要があります。

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