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日蓮大聖人・池田大作

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自然条件  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  自然条件
 池田 あなたのお国のフランスは、西欧諸国の中では有数の農業国として知られています。フランスが、このように、豊かな農業国として栄えてきた原因として、もとより気象的条件、地理的条件に恵まれていることもあると思いますが、それ以上に、フランス人の心に、農業を尊ぶ考え方があったからではないかと推測しますが、いかがですか。
2  ユイグ フランスに農耕民的性格を与えるのにあずかって力があったのは、たしかに、気象と地理の諸条件の影響です。資源の豊かさと均衡のとれていることが、フランスを稀にみる大地に仕上げ、農業生産様式の自然な開花をもたらし、したがって、農民的な独特の気性を生ぜしめたのです。
 その農民的気性の中で、万事についての用心深いやり方と、自然な本能の素直な発達が結びついて、感受性と良識と合理主義の混淆を実現し、それがさまざまな伝統の堅固さに寄与しているのです。この生き方は国土によって助長され、その住民において、田園人固有の特質を強めてきました。
 このため、フランスは、他のどの国民よりも近代世界の出現とその特徴的なものに当惑させられてきたのです。この近代世界の事象は、フランスの伝統的体質には合致しないものなのです。フランスは都市と工業の文明の勝利によって変質させられたことを感じています。
3  病は深刻です。この病気は、歴史的にはフランスのヨーロッパにおける優位、さらにいえば世界における優位が、この都市的工業文明が発展したときから、その凋落を始めたという事実によって確実なものとなったのです。フランスがこれを初めて取り入れたのは、イギリスのあとであって、部分的には、イギリスとの競争に圧されてであり、さらに、ドイツとの競争でこの圧力が倍加されたことによってであったことは顕著な事実です。これら二つの巨大な工業力の成長のために、フランスは、その調和を乱すやり方を、自分のところでも進めざるをえなくなったのです。
 “フランス病”はペールフィット(フランスの政治家)の有名な本の受け売りで、盛んにいわれていますが、それは、理性によって完成された、フランスに固有のものであった農民的知恵のかわりに、管理技術主義として体現されている、根を切られた体系的合理主義を用いたことからきているのではないでしょうか。
4  池田 私自身、何度となく渡欧しフランスを訪れていますが、そのたびに感嘆するのは、農村の美しさ、そして食卓に出される農産物の味の豊かさです。
 日本では、フランスといえば、芸術の国として、そしてフランス料理で知られています。私が、初めてフランスの美術を知ったのは、ミレーの「晩鐘」の絵だったと記憶しています。大地に生きる男女の、一日の労働を終えたひととき、遠く流れてくる教会の晩鐘にあわせて敬虔に祈る姿は、平凡な人間の姿ににじみでる美を訴えかけ、私の心に深い感銘を呼びおこしました。
 以来、私にとっての一つの淡い夢のようなものが、いつかフランスの素朴な田園の中にたたずんで、この絵のただよわせている雰囲気にひたってみたいということでした。もちろん、私がフランスへ行けるようになったころは、百年近く前のミレーのころのような農村ではなくなっていました。忙しいスケジュールの中で、ゆっくりとする暇がありませんが、それでも足を延ばして訪れた農村風景には、当時のおもかげがしのばれ、ひとときの感慨を味わったものです。
5  農耕手段も近代化、機械化され、農民の生活も変わったでしょうが、フランスにいると農業が大事にされていることが、よくわかります。そして、農民的な、大地・自然と一体になり調和を保っていくところに人間生活の基盤をおいているフランス人の考え方は、そのあらゆる生活の場面に反映されていることを痛感します。
 私は、日本人がフランスを代表するものとしてとらえている芸術と料理の共通の土台になっているものは農業、あるいは農民的発想ではないかと考えます。すなわち、自然をありのままにとらえ、そのもっている美しさ、豊かさを壊さないようにしながら、そこに人間の手を加えること、むしろ、その本来もっている美しさや豊かな味わいをいっそう高め、深みのあるものにするために、手を加えることです。
 これは、これまでも話し合ってきましたように、文明というもののあるべき姿の大事な一面です。あなたもいわれるように、近代化への世界的な激流の中で、フランスもたぶんにその本来のよさを失ってきており、現在も失いつつあるかもしれませんが、近代化しつつも、本来のものを失わないでほしいと念願します。と同時に、私たち日本人も、日本なりのよさを保ちつづける努力の尊さに目を開いていきたいと考えます。
6  ユイグ 本来のよさが失われているのは、たんに農民の国だけでなく、漁民の国もそうではないでしょうか。そして、現在の文明は、日本においても、こうした生きていくうえでの本質的な条件を混乱におとしいれているのではないでしょうか。
7  池田 漁業は日本人にとって、動物性蛋白を供給してくれる重要な産業となってきました。しかし、アメリカ、ソ連等の領海二百カイリ宣言によって、日本の遠洋漁業は深刻な危機に直面しています。
 この問題の背景には、日本の漁法が、魚族の生存を脅かす、根こそぎ的なやり方であったことなどもからんでおり、日本人として反省すべき点も、もとよりあります。だが、それ以上に、大局的に考えるならば、海洋もまた、原始的な狩猟時代から農業時代へ進まざるをえなくなってきていることを示すものと思います。すなわち、自然に生息している魚類をただ捕獲するだけという段階から脱して、養殖しながら収穫を確保する段階に移るべきであると考えるのです。
8  日本人は、マス、ウナギなど、いくつかの種類の魚類の養殖化に成功し、それらは、国内の各地で、かなり大規模に企業化されています。しかし、いずれも池や湖などを利用した淡水魚で、その食生活に占める比率は、まだ小さなものでしかありません。大部分の魚は海洋産で、オホーツク海や南太平洋、インド洋など、遠洋漁業に依存しているのです。海における養殖で成功しているのは、食料にするものでは、ホタテガイなどです。
 日本は四方を海に囲まれ、しかも北極海方面からの寒流と、南方からの暖流がぶつかるところに位置しているため、もともと魚介類は豊富だったのですが、近代化とともに、漁業もますます能率化し、乱獲におちいってしまいました。これが近海漁業を不振にしてしまった原因と考えられています。
 かつては日本各地の沿海でとれた魚やエビによる名物料理が、今は、その材料を遠くアフリカ沿海でとれたものに頼っているなどと聞くと、悲しい気分にさえなります。そして、名前だけは、昔ながらの、日本のその土地の“名物”と銘打たれているのです。
9  オホーツク海の北洋漁業に関しては、毎年、ソ連とのあいだで漁獲量の申し合わせが行われており、資源の枯渇を心配するソ連側の厳しい制限と、少しでも多く確保しようとする日本側との調整が焦点になります。私は、ソ連側の主張に全面的に賛成するわけではありませんが、自国を大事に思うゆえにこそ、取り過ぎということについては、日本人としても考えるべきではないかと思ってきました。
 それも、二百カイリ問題が現実化してからは、一段と日本側にとって厳しくなり、これまで北洋漁業に出ていた漁港では、出漁できない船があふれ、漁業関係者は深刻な事態に悩んでいます。しかも、これは、北洋漁業の問題にとどまらず、世界各地で起こりうることであり、そして、そのいくつかはすでに起こっている問題なのです。
 これは、庶民の生活に直接、影響してきています。かつては、魚は日本の庶民の食生活にとって欠かせない蛋白源でした。ところがそうした庶民的で安価だった魚が、いずれも今ではきわめて高価になって、日々の食卓から遠いものとなってしまいました。これには、複雑な流通機構があいだに入っていることが、輪をかけています。しかし、この流通機構の問題は、別の項目に属しますので、ここではふれません。
10  魚類は、健康上からも蛋白源として、非常にすぐれており、最近の日本人の成人病の増加は、その食生活の変化と関係があると指摘する学者さえいます。つまり、魚の比率が減って、ウシやブタの肉に頼るようになったため、コレステロールが増え、高血圧症などの成人病が増えているというのです。
 もし、これが真実であるとしたなら、そして、それが広く認められたならば、魚類の需要は世界的に高まり、漁業への期待はいっそう大きくなるでしょう。
 そこで問題は、今の狩猟時代的な海洋漁業を、どのようにして、農業時代的な漁業へと移行させるか、です。海洋の魚たちの多くは、稚魚から成魚になるまで、広大な大洋を海流にのって、回遊しながら過ごします。しかも、プランクトンから大形魚にいたる食物連鎖の体系は複雑であり、その行動の習性など細かい点になると、知られていないことがあまりにも多いようです。
 私は、そうした研究のためにも国際的な協力がどうしても必要であると思いますし、いわんや、養殖化に成功してのちも、管理、運営には、世界的な協力関係が不可欠であると考えます。
 ともあれ、こうした漁業の未来の問題について、あなたは、どのようにお考えになっていますか。
11  ユイグ 海は事実、もう一つの戦野であり、そこでもまた残念ながら、現代文明の欠陥が立証されているのです。そこでも、私たちは、未来のことには無頓着に組織的な開発にとりかかっています。しかも、他方、公害による荒廃をそこにひきおこしています。
 石油の問題は、きわめて重大です。その消費量は(一日に)五十万トンを超え、百万トンに近づきつつあります。周知のように、石油タンカーが、その積荷を事故で漏らすたびに、それは海の災害になります。トリー・キャニオン号がこうして一度に十一万トンの原油を流したことは記憶に生々しいところですが、さらに最近では、アモコ・カディクス号の沈没は、もっと大量の流出を記録しています。
 しかし、もっと悪いことがあります。強欲さと認識の絶対的な欠如から、タンカーがその油槽を空にするやり方は、沖合の海では絶えず行われていることです。それによって費用を浮かしているのです。大洋の主要部分は、その表面から深い海底までも不毛化されつつあります。そのため嘆かわしいことに、すでに多くの魚や海獣を滅ぼしつづけています。
12  だが、もっと悪いことがあります。それは前にも述べたことですが、大気中の酸素は、ふつう考えられているように、森の木々から供給されているばかりではありません。海中のプランクトンのほうが、ずっと大きい酸素の製造源なのです。
 ですから、私たちは海の汚染によって地球上の大気を回復不可能なほど貧弱化させてもいるわけです。この危険は、遠からずして、絶対に無視できないものとなるでしょう。
 結局、人間精神の変革に求める以外に、有効な方法はありません。文明がいつまでも身勝手に、絶えまなくひどくなるこの堕落と、この世界の資源の子供っぽい略奪、未来に対する私たちの義務への無自覚をそのままにしていることはできません。もし私たちが貪欲な開発の段階から脱却して調和的な共存の段階に進むことをしないなら、生命環境を破壊することになるでしょう。
 それは技術手段を盲目的に放棄すべきだということではなく、より大きい体系の中にそれを組み込むことによって、その有害な結果を検討し、償うことです。そうしてこそ、人間は自然とのあいだに新しい均衡を再建することになるでしょう。
13  ここに私たちは、改めて、現代の錯誤によって破壊されているあらゆる部分に調和を回復することの絶対的要請に直面するわけです。すでに申し上げたように人間の身体組織をはじめとして、すべての組織体が、心理的分野でも生理的分野でも、このことを要求しています。そこにぜひとも必要とされるのは、それを構成している部分部分の均衡のとれた参加です。
 それは、私たちがその中に包まれて生きている、限りなく豊かな自然という総体についても同じことです。自然は、私たち自身がそうであるように、等しく一つの組織体なのです。ですから、私たちは、生命環境という組織体について、個人個人の組織体に関してもつ医療や衛生管理と同じ基本的な用心をすべきです。
 個人の身体組織に関しては人間は、その必要性を認め、自分の寿命の延長を可能にする手段を受け入れてきたのですから、ずっと大きい尺度の組織についても種の存続を確固たるものとするために、同じ思考態度を、適用することができないはずはないのです。

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