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現代人  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  ユイグ 人間は、農業時代に、その本性を開花させました。農業は、あらゆる面で自然に参画させてくれると同時に、人間の特質を形成している完成と質と向上をそこに付け加えたのです。ところが、その人間が、いまや拒絶され、衰えさせられ、追放されるにいたっています。
 一方では、この新しい文明は、たしかにかつて想像もできなかったほど、人間の外的世界に対する支配力をもたらしています。しかし、他方では、この、自分の必要と欲望だけに関わる利益の代償として、不均衡と内面的な損傷をさえ招いているのです。なぜなら、欲望の充足のかわりに、生命の最も深い層であるとともに、最も崇高な高みをつくっている諸機能を萎縮させ、窒息させられているからです。
3  感覚や理性の働きに頼らないでも、私たちが宇宙についてもっている直観は、感受性によってより意識的な水準に移されるならば、精神性の欲求にまで高まります。すなわち、直観は空間の中に広がっている物質的世界の外観の背後に、一つの実在があることを予感させてくれるのです。この実在に対し、物質世界の外観は、覆いであり、いわば皮膚にすぎず、さらにいえば仮面ともいえるでしょう。物質的外観は読みとるのに便利なためのスクリーンを形成しています。しかし、それは、たぶん、この世界の魂である非物質的な、もっと別の実在から、外観的なものを分けへだててもいるわけです。
4  そのような考え方は科学と両立しないといって反対する人には、著名な量子理論の創始者でノーベル賞学者のマックス・プランクを参照してもらえば十分でしょう。彼は一九二九年から行ったある講演の中で、こう言っています。
 「物理学の体系は測定のうえに成り立っています。そして、それぞれの測定は感覚的知覚に結びついているのですから、物理学の諸概念は感覚の世界から取り入れているのです」
 とすると、それだけにとどめておくべきでしょうか? そうではありません。この偉大な物理学者はつづけて言います。
 「なぜなら感覚の世界の背後に、自律的で、人間とは独立した実在性をもっている第二のほんとうの世界が存在することを認めなければなりません。これを私たちは直接には理解することはけっしてできませんが、この第二の世界が私たちに伝えてくる合図のおかげで、ただ私たちの知覚を介してのみ理解できるからです」
 ここに扉は大きく開かれているのですが、科学者たちは寒そうに閉めきっており、そのため彼らには実在が隠され、近づくことができず、彼らはその存在を否定しているのです。私たちがたたきたいと思うのは、この扉なのです。
5  たぶん、もっと有名なもう一人の物理学者アインシュタインは、さらにこれを推し進めています。彼は自分の人生の経験の結論として、著書『私の晩年』の中で、こう述べています。
 「宇宙的宗教経験は、科学探究の背後にある最も偉大で最も高貴なものへ導くエネルギーであると私は断言する」と。
 私がこの非物質的実在のことを強調し、それが私たちの存在の基底部で、本能的・直観的な深みを通じて感覚的・測定的なものと結合されうること、そして、本能的・直観的深みによって私たちは、その水準ではまだ私たちのものである世界の本質を知覚しているのである、といったとしても、これらの人びとのいっていることとそれほど遠く離れてはいないでしょう。しかし、世界は、もう一つ別の端でも、つまり垣間見えるその頂上においても、私たちが自身を超克することを求め、精神性を構成しているこの本質にまで達しようという憧憬をもったときに私たちのものになるのです。
6  実際的で功利的・教条的な理論家になった現代人は、深層にある直観的能力と同時に自己超克の能力をも喪失しています。彼は自らをこの中間地帯つまり実用の領域に閉じこめ、そこに引きこもります。しかし、彼は、自分の他のあらゆる才能、自分がもっている力から、どのように支障なく自分を切り離せるでしょうか。それらの才能や力は、有機的全体の中の部分はすべて、全体を巻きぞえにする危険なしに切断しえないのと同じように、全体に結びついているのです。
 よく知られているように、歩かないでいると、その結果として、脚は衰えます。しかも、その影響はすべての器官に及びます。同様に、たとえ肝臓や腸はちゃんとしていても、支障なしに胃を除去することはできません。生理学でいえることは、心理学の問題でも同じようにいえます。現代がつくりあげている文明は、現代人にとって一つの牢獄となっています。
7  一人の人間が閉じこもるには、たて、よこ、高さが、それぞれ二メートルの部屋があれば足ります。しかし、それでは空気が足りないでしょう。同様に、具体的な問題に対して、自分の理性的能力だけで対応する人間は、窒息してしまうでしょう。あらかじめ蓄えられた酸素量は、ほんのしばらくのあいだの生命は支えてくれますが、たぶん、やがて息が苦しくなります。今の場合、窒息とは道徳的・感情的・精神的な窒息という意味です。
 これが、人類がさしかかっている第三番目の段階です。人類は、偉大な宗教を準備してくれた先行の農業世界にまだ結びつけているあらゆる綱と鎖をつぎつぎ断ち切りながら、この段階に突入しています。この新しい時代においては、物質的征服への過度の執着のため、その代償として人間抑圧がもたらされます。この新しい段階への移行のために、人類は完全に先行の農業世界から離れ、それが、行きすぎを補正する領域として存続している文学とか芸術とかの表現手段の中にはっきり認められる苦悩や不安をうみだしているのです。
8  アメリカ人が先住民であるインディアンのために“保護地区”を残したのと同じように、現代人は、文学、詩、そして芸術という“保護地区”を維持しているわけですが、これらのすべてが今日私たちが好んでいう“欲求不満”におちいった異常な人間の苦悩をあらわしています。
 人間が前時代の規範の中に固定されたままでいないことは、正常であり健全なことです。また、新しい時代に足を踏み入れ、新しい必要に応じて新しい文明を構築しようと望むことも正常かつ健全なことです。しかし、現代人の悲劇は、人間の規模でこの新しい文明を創造することができないことなのです。人間の全体の中の他の能力が傷つけられ死滅している場合、そこで最も有効なものとしてあらわれる才能の発展に対応するだけでは、不十分です。現代の危機のよってきたる根源は、ここにあります。
9  私たちが、今、待ち、期待できるのはなんでしょうか? 生命をあてにすることでしょうか。たしかに、生命は、その間違いのない本能で、一時的には必要な反応を保証することができます。生命はその平衡を守るために、これと反対の一歩を進めます。
 しかしながら、自らなにもしないで、そうした本能にまかせたり、この平衡作用、つまり、現代科学の専門用語を借りていえば“フィード・バック”を盲目的に信ずることはしないようにしましょう。この“フィード・バック”は、一つの方向に行きすぎると、反対の意味での反動をひきおこすのです。それはちょうど、ボートが右に傾くと、周知のように、平衡をとるために左へ傾こうとする力がそこに加わるのと同じです。しかし、そのとき、二つの可能性があります。一つはもとへ無事に戻ることであり、もう一つは、同じ側への傾きをどこまでも強め、転覆することです。後の場合が破局です。
10  このいずれを選ぶかに私たちの現在の運命がかかっていることを自覚しましょう。前者を選べば、私たちはたぶん、辛い反動を受けることになるでしょう。なぜなら、反動は私たちの盲従している傾向に逆らって起こるからです。しかし、また、もう一つのほうを選んで同じこの方向に固執し、どこまでも行こうとしたときには、ボートは転覆し、私たちはボートといっしょに流されるでしょう。そして、溺れるのは私たちです。なぜなら、ボートは木でできており、浮かんで漂っていきますが、私たちは水に飲みこまれてしまうのです。
 ここでボートとは生命です。生命は、ずっと存続するでしょう。しかし、私たちはたぶんいません。ですから問題は、この生命と一体になった私たち自身の生き延びることを、どう確実なものにするかです。そして、そのために、生命を助け、生命のために譲歩する必要があるのです。
 人間は、外界の征服という点で大きな前進をしてきました。その代償として、自分自身の制御を失う危機に直面しているのです。物質的な卑しい強欲にとらわれて、人間は自分の固有の使命、自らの存在理由を忘却しています。人間は自身の抑制力を取り戻し、そのほんとうの開花ということの意味を再発見しなければなりません。

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