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心理学的変化  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  心理学的変化
 ユイグ それは、十九世紀に発展した物質主義の圧力のもとで、精神の中に一つの深刻な変化がなされたことが原因になっています。最初は、この新しくあらわれ形成された文明は、先行の文明つまりキリスト教文明の内部で発展しました。ブルジョアは、上品さを求めて、自分たちが取って代わるためにくつがえした貴族階級の延長線に自ら加わりました。彼らの礼儀作法、趣味、文化は貴族階級のそれを模倣したものでした。また、ブルジョアは、ドイツやイギリスでは根底的にプロテスタントであったように、フランスやイタリアでは根底的にカトリック色を強めました。
 しかし、科学と技術の進歩とともに発展した物質主義は、さらに経済的発展によって、信仰に手痛い打撃を与えていきます。社会はあいかわらず教会の典礼と儀式に忠実ですが、それはしだいに、深い信条によってよりも、むしろ習慣と慣習への尊重によってそうであるというふうになっていきます。
2  二十世紀とともに、その支払い期限に到達します。都市と工業の文明によって練り直され吸収された農業文明は、自然の深い普遍的な大道からしだいにはずれ、資源の徹底した開発に身をささげ社会階級の改造と同時に、資本主義と消費社会を発生させます。貴族制度はもはや肩書きと社交上で生き残っているのみで、ブルジョアとの婚姻関係で、辛うじて息をついているにすぎません。ブルジョアジーは産業を把握し労働者を搾取します。つまり、その労働に対し、できるだけ低い賃金にしようとするのです。そこで形成されたプロレタリアートは、自分たちのみじめさに気づくとともに、労働者がその基本的役割に釣り合った権利をうることができるような新しい社会を提唱する社会主義の助けによって、自らの存在の大きさにも気づいていきます。
3  このとき、巨大な変化の危機がおこります。その変化の中で、しだいに蝕まれた農業社会は、こんどは自らを機械化するにつれて、その存在理由を失っていくのです。農業社会は都市工業の文明にその席をゆずります。統計学者の示すところによれば、都市人口が過剰になっていくのに対し、農民の数は過酷なまでに減少しています。都市の生活は現実から遊離しており、ますます抽象的で技術的で機械的になっており、人間の新しい環境をつくっていきます。そして都市生活者が、そこから辛うじて逃げ出すのは、週末とバカンスの脱出によってです。
4  社会生活が変化するように、個人とその心理的構造も変化します。人間はその発祥から、意識を付与されているすべての存在と同じように、自然や現実に自らを対峙させ、外的世界を認識するために、それから自分を区別します。すでに動物として、人間はその感覚によって観察者であり、その心理現象の中には、遺伝で引き継いだり経験で得た本能的反応の総体を所有しています。そうした遺伝や経験で得たものが、型にはまってはいますが、有効な行動を彼にとらせていたのです。
5  しかし、人間は精神の発達のおかげで、こうした直接的な情報とそれに応ずる反射作用に加えて、個別から普遍を引き出し、因果の関係を築き、目的をめざすといった、知性に特有の象徴の体系を形成する能力を身につけることができたのです。これは巨大な進歩です。しかし、それが人間を観察と働きかけの対象となった外的世界から引き離し抽象します(この抽象するという言葉は意味ぶかいものです)。そして、人間はこの外的世界のかわりに、自分で心の中につくった、透明ではあるが通過はできないガラスにたとえられる想像と観念をおくのです。
 さて、そうしたまさしく知的な能力の発達に支障の生じないわけがありません。というのは、現代社会はそれを偏狭さをもってする傾向があるからです。人間の心をひからびさせるテクノクラシーとその力をごらんなさい。それと平衡をとるには、私たちの心の中にあって私たちを現実と直接に結びつけ、それと一つになるようにしてくれているすべてのものを強化しなければなりません。
6  樹木は、大地から離れ、大地とわかれてそびえ立つことはできません。その根が深く大地と交わっていなければ、樹液を汲むことができず、ひからび死滅してしまうのです。同様に、観察力は参加能力と平衡をとっていなければなりません。この参加していく能力は、もはや“知覚”のためでなく、“感覚”のために私たちに役立ってくれるものです。それは模糊たる領域から起こってきて感受性を揺り動かします。この感受性は最も無意識的な衝動から超自然的な啓示にいたるまで広がりをもっています。私たちが“存在”の中にひたり、“存在”との直接的で深い交流に入り、あるいはそうした交流を保つのは、この感受性によってなのです。
 “存在”は私たちのうちに、直観を通じ、合理的説明ではとらえられない深みからくる知覚を通じて立ちあらわれます。仏教はこれをよくとらえています。仏教は“自我”の背後に“大我”の層を区別しています。この基体は、すべてが一つになっている水の広がりのようなもので、個々の事物は、束の間の表面の波のようなものにすぎず、やがて大洋をつくっている共通の全体に帰っていくのです。
7  この波のように、人間は自分の“自我”を中心に分離された小片として自己を形成し、その存在を守るために戦います。しかし、彼の自律性は不安定であるとともに偽りのものです。彼は一時的に孤立した宇宙の断片であって、自分を取り巻いているのと同じ物質でつくられ、肉体的ばかりでなく精神的にも、自分を取り巻いているものと絶えまない交換を維持することによって初めて存続していきます。
 すでに、生きている原初の細胞が存在できるのは、その存在を付与している細胞壁をとおしてのこの同じ恒常的な行き来によってです。栄養のある物質は取り入れられ、老廃物は捨てられます。細胞は全体から自らを区別するものと、全体に自らを結びつけてくれるものとのあいだの平衡によって初めて生を保っているのです。人間も同じであることは、すでに申し上げたとおりです。
8  ところが、現代の文明は、この微妙なバランスを脅かしています。現代文明は絶えず人間を世界から切り離し遠ざけるように推進しており、世界は人間にとって、景色であり餌食であり、敵対者という外的対象でしかなくなっています。現代の文明は、世界に他の物とともどもに属するよう呼びかける“内なる声”を窒息させます。その声とは、非合理でありながら秘密を明かしていく直観がそこから立ちあらわれてくる無意識の叫びであり、その究極するところは、神の顔をもっている“存在”に、止揚によって結びつこうとする、精神性への渇望です。
 現代文明はこの声を感覚という舷窓の後方に勤務につけさせます。現代文明は計器盤に向かうように、人間をその知性のメカニズムの中に孤立させます。消費と略奪に結びついた貪欲以外のあらゆる衝動を除去しながら、現代文明は人間を抽象的原理と精神的公式の論理的増殖の中に閉じこめます。そうした抽象的原理や精神的公式を、現代文明はマス・メディアを使って、人間の頭の中に刷り込むのです。現代から始まっている文明とは、このようなものです。

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