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日蓮大聖人・池田大作

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科学時代  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  科学時代
 ユイグ それ以来、コペルニクスからガリレオにいたるまで、伝統的な宗教との争いの中で、科学的概念という独創的な現象が明確になっていきます。それは、しだいに練り上げられていくのですが、明確に理解され樹立されるのは、十八世紀以後のことです。それ以後、この科学的概念が世界をつくりかえることになります。ヨーロッパで、物質世界の征服と工業生産の技術が消費文明を準備しながら百科全書派の勃興のもとに躍進するのが、このとき、つまり、“啓蒙時代(十八世紀)”です。
2  それ以来、科学がかたちをととのえるとともに、それと並行して、十八世紀は宗教の信仰を失っていきます。神秘的精神に対し、実際的で合理的な思考が取って代わります。科学と技術は、実証的認識とそれが生み出す行動方法が結合しているこの思考を尊重します。機械的な諸科学は広大な分野を開き、大工業を生み出し、社会的なあらゆる結果をひきおこします。その主要な現象がプロレタリアの創出と搾取です。
 このときから、一つの新しい時代が始まり、それは十九世紀にさらに拡大することになります。突然の変化が起こるのは、このときです。厳密な物質の諸科学が形成され、それが人間をもっぱら空間の中での物質の世界へ向けさせます。社会は社会で、ますます物質主義的になります。化学は鉱物・植物製品に人工的な物体を付け加え、それは、絶えまなく増えていきます。こうした人工の物体は自然の中には存在しなかったものか、あるいは、自然に適合していた文化では自然から抽出されさえしなかったものです。これは、農耕民との関係でいえば、全面的に逆転した立場で、そこからまったく違った世界観が生ずるのです。
3  この世界観はもっぱら実際的な立場に自らを限定します。最初に発展した科学が物質の諸科学でした。それが扱うのは空間の中での物質だけで、物質を支配している法則を合理的に引き出します。しかし、物質は存在の最も基礎的で初歩的な水準です。ようするに、現代科学が教えるように、現実に存在するのはエネルギーしかなく、物質はこのエネルギーの空間の中における登記であり、エネルギーが空間中で自己形成し、いわば一つの具体的外観をもって安定化しているのが物質なのです。
 しかし、物質についてしか知ろうとしない人びとは、物質を決定論的に支配している法則しか信ずることがもはやできず、一つの同じ原因はつねに同じ結果を生ずるということしか知ろうとしません。こうした考え方は、基礎的な段階の科学法則の基盤にすぎないのです。そして、事実、物質は発展しません。水晶の結晶は十億年前だろうと今日だろうと、同じ厳密な幾何学的法則にしたがって形成されます。
4  ですから、人びとは、もし望む結果を生ずる物理的原因を支配するなら、運命の支配者となることが可能のはずだと思いこまされます。十九世紀初め、天文学者ラプラスは、事象の全体を完全に知れば、それから必然的に生ずる結果を推論できるし、したがって未来を“知る”ことができるだろうと主張しました。それ以来、なにも変わっていません。変わったのは“進歩”ということだけです。つまり、科学的・技術的な方法の発達によって、この世界の資源を、ますます多く、無制限に所有するようになったということだけです。
 この思考法の体系の完全な組み立てがなされたのは、十九世紀半ばごろです。それが哲学においては、オーギュスト・コントの実証主義です。この実証主義ということばが、それをよく示しています。人びとは、そこから法則が抽出されうる実際的・実証的な事実しか、もはや信じないのです。
5  しかしまた、同じ時代に生まれたものに、マルクスの思想があります。これは、ふつう考えられているのとは反対に、基本的にブルジョア思想の染みついたものです。彼はブルジョアジーに対し、その横暴な権力に対して容赦ない戦いを起こしたわけですが、にもかかわらず、彼は、彼自身の内に移植されて浸透したブルジョアの教育と文化の鋳型の中で考え理解しながら、それを行っているのです。いわんや彼は、物質主義を問い直してはいず、自分の教義の基盤をそれにおいています。
 しかし、この同じ物質主義が勝利を収めるのはマルクスが嫌悪した新しい支配階級によってなのです。ルイ・フィリップの宰相ギゾー(十九世紀のフランスの政治家で歴史家)が、ある日、議会でいったことばは、彼の信条だったのです。
 「諸君、富裕になりたまえ!」
 この勝ち誇ったような物質主義と客観主義の潮流に対して、主観の権利を守るための絶望的な戦いをしながら、そこから逃れようとするのは、文学と芸術の“徴兵忌避者”だけです。彼らはまた、憤慨した世論にさらされ、ついには“呪われた連中”ときめつけられるほどになるでしょう。
6  池田 今日では、この事態はずいぶん変わってきています。というのは、現代の文明の危機について、最も明確に意識をもっており、したがって最も大きい感受性をもってそれを感じ取っているのは、たぶん科学者自身であるからです。
 これまで、科学の進歩は、それ自体が人間精神の偉大な進歩であり、善であると信じられてきました。それが、もはや、そうでなくなっていることは、だれの目にも明らかであり、とくに科学者にとっては、自明の理でしょう。
 今日、科学者の中には、その自らの研究の成果が恐るべき目的に使われうること、ときには、はっきり、恐ろしい目的のための研究であることをさえ知りながら、科学は中立であり、それを悪の目的に使うのは、使う人自身の責任であるといういいわけをする人がいます。
 進歩が善であると盲信して積極的に進歩に貢献した、かつての時代にくらべれば、中立というのは、より正しいかもしれません。しかし、私は、これこそ、いっそう卑怯な態度であると思います。そのような人にかぎって、科学研究自体は善でも悪でもなく中立であるとの大義名分を隠れみのにして、事実は、悪のために協力している場合が多いのですから。
7  その意味で私は、あなたが「人間の欲望を満たすためになされた科学の発見は、絶えまない抑制がなければ、おそらく人類全体を破滅させる」と指摘されたことを、科学者自身が鋭く銘記して、研究すること自体にも、自らの良心による抑制を働かせる必要があると考えます。そして、そのために大事なことは、この抑制をなす良心とは、根本的には“生命をなによりも尊重する心”でなくてはならないという点が明確に認識されることです。
 これまで“国威の発揚”が最高の正義と考えられ、そのために奉仕することが“良心”とされたこともありました。たしかに、自分だけの利益や名誉を根本とすることにくらべれば、そのほうが高い理想といえました。しかし“国威の発揚”に貢献しても、幾百万の人命を奪ったならば、それは恐るべき悪であると考えなければなりません。“一人殺して罪人、百万人殺して英雄”というような矛盾は、断じて黙認されるべきではないでしょう。
8  なによりも尊いのは生命であり、生命は他のなにものにもかえられない至尊の存在であるとする思想こそ、真実の“良心”の基礎にならなければならないと私は考えます。何百万、何千万の人間の生命を奪うかもしれない巨大な力を扱う科学者は、とくにこの思想を、自己の“良心”の不動の基盤とすべきです。
 それとともに、自らの研究成果が、複雑な政治や社会の機構とその運動原理の中で、どのように使用されることになるかを、科学者自身が見抜いていくことも必要でしょう。といって、政治学や社会科学の専門的知識を科学者も身につけなければならないというのではありません。だが、少なくとも一般的な教養と、現実社会に対する感覚はもっていくべきではないでしょうか。
 そして自分の研究成果が、現実社会のメカニズムの中に取り入れられたとき、明らかに多くの人間生命を危険にさらすとわかった場合は、その研究を中止する勇気を科学者はもつべきではないかと考えます。
9  ユイグ 何人かの非常に偉大な科学者はこのことを痛いほどに感じているにしても、不幸なことに、現代に特有の実利的で実際的な考え方は“客観的探究”の考え方と相まって、たくさんの責任ある人びとに対し、細心さを窒息させる働きをしています。偉大なオッペンハイマー(アメリカの理論物理学者)さえも、人類にとって危険な結果をもたらすと思われた仕事に協力するのを断ったために裁判にかけられたことを、忘れないようにしましょう。

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