Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三世界  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  第三世界
 池田 この危機は西洋から生じたものです。たぶん、この危機は西洋の没落をもたらしていくでしょう。しかし、人類全体がこの凋落に巻き込まれなければならないでしょうか? 普通、歴史をみますと、一つの文明が滅びたときには、残っている別の文明がそれにかわり興隆しました。この点、現代でいえば“第三世界”に、そうした次代を担うものの興隆を期待することは可能でしょうか。
2  ユイグ これまではつねに存在した補整の可能性、そうした釣り合いをとってくれるものは、もはや、ほとんど期待できないように思われます。かつては、偉大な文明とならんで、それにほとんど、あるいはまったく接触のない人間集団があって、交代・更新が必要となったときには登場する準備をととのえた無傷の要素を保持し形成していました。たとえば、ローマ文明とならんで広がっていた“蛮族たち”がそれです。ローマ人は、古代世界の偉大な人びとがすでに高度に発達させていた、技術と都市と社会的発展の恩恵を知らない人びとを“野蛮人”と考えていたのです。
 こうして、一つの文明が自滅をはじめ、老衰して崩壊する段階になったときにも、手つかずの、新鮮な処女地が残されていましたし、多くの場合、使い古され、いわば腐敗した文明に、無傷の活力で襲いかかり、これを暴力でくつがえすことによって新しい血を注ぎ込み、こうした暴力的な注射によって、そのつど、それが新しい運命をめざして再出発できるようにしたのは、そうした処女地だったのです。こうしてローマ帝国の末期、蛮族の大規模な侵入はヨーロッパをのみこみますが、それが四百ないし五百年後には中世の誕生をもたらし、輝かしい発展を示すこととなるのです。
3  ところが、今日ではもう、こうした現象は起こりません。なぜなら、世界は完全に新しい技術文明によって侵略されており、古代世界における“蛮族”の概念に相当するものとして“第三世界”というものを区別したとしても、この“第三世界”が、いわゆる文明化された世界を襲うということはありません。第一に彼らは技術的手段を欠いているため、たちまち、この分野での文明社会の優越性に押しつぶされるでしょう。たとえば“蛮族たち”が青銅の技術をとりいれ、これを発達させて、技術的優位を勝ち取り、それによってゴール人は、ローマにまで征服戦争を進め、さらには小アジアにまで進撃することができたのにくらべて、今日の第三世界の攻撃は効果的ではありえません。
 ゴール人たちは、自らの新しい無傷のエネルギーに、戦いの新しい手段という力を付け加えました。しかし、今の第三世界の国ぐには、もはや新しい手段を発見することはできないでしょう。科学技術文明がそれを独占しているのです。しかし、もし、いつの日か、すでにその前兆がみられるように、原子爆弾を手に入れるようなことがあったら、そのときは……。
 しかも、第三世界の国ぐには、人びとが“進歩”と呼んでいるものに目をくらまされており、幻惑されたようになっています。かりに自治権を得、したがって抵抗できる力をもっていても、彼らが考えることは、この発展の水準に急いで追いつくことであり、それがもっている亀裂と危険性については、まだ思ったこともないのです。
4  たとえば、私が実際に見聞して驚いたことがあります。それは北アフリカへ旅行したときのことですが、西洋文明が種々の危険性を包含していることを人びとに納得させられなかったのです(私はそれを学生や、とくに知識人たちに言ったのですが)。私が話すと、すぐに彼らはこう抗弁するのです。
 「いやいや、あなた方は私たちに対して優位にあります。それは不公平です。私たちは、まずこの不公平をなくしていきます。技術とエネルギーの使用をどう制限するかについて考えるのは、私たちがあなた方と同じ水準に達したときでよいでしょう」と。
 現在では、世界全体が同じ運命に巻き込まれているわけですから、処女性、つまり救いを期待できる地帯はもはやまったくないのです。
 日本は西洋の機械的発展に幻惑された最初の国であり、それを同化吸収した最初の国でした。そしていまやヨーロッパ経済にとって、たんに“競争国”ではなく、恐るべき相手となっています。その模倣と知性と器用さを武器に、日本は科学とその実際的応用を創始した西洋の最も偉大な国民と競争して、たちまち、そのトップに立つようになっています。さらに、日本よりずっと遅れていた中国がすでに基礎物理学で多くのノーベル賞をとった学者を保持していることも知られています(中国はたぶん、将来の更生の基盤となる“貯え”の一つを構築しうるでしょう)。
 このように、現在の状況は、あらゆる点からみて、参考にできる前例というものがありません。ですから、これからの事態は、私たちが現代のそれと比較できると考えている過去と同じようには進まないでしょう。これについては、どんなに心配しても、しすぎることはないでしょう。それについては、あなたは、どうお考えでしょうか。
5  池田 過去五千年にわたる農耕型の文明は大地に立脚したものでした。大地と人間との関係、自然と人間との関係が主体となって形成された文明であったわけです。
 あるときは自然と格闘し、あるときはなだめ、協調するというように、対応の仕方はまちまちであれ、緊密な連携が保たれてきたことは事実です。
 それに対して科学技術文明は、このわずか三十余年のあいだに過去五千年の農業文明の進歩をはるかにしのぐ進歩を遂げ、同時に“人間―自然”の密着関係を“人間―機械―自然”の関係に切り替えてしまいました。
 人間が自然との対応を意識しつつ生活を営んでいるときは、自然の威力というものを確認せざるをえない場面に多く直面したでしょう。つまり人間よりも自然の営為のほうが優位にあることを知るにつけ、自ら慢心を戒めることもできたわけです。
6  ところが科学技術文明によって、自然は否応なく征服されてしまいました。自然を克服した科学の所有者である人間は、すべてについて万能であるかのように錯覚し、尊大にふるまうようになりました。
 ところが今日、技術の歪みがさまざまな災いをもたらしはじめました。あなたのいわれるように科学を万能の手段と考えた人びとにはまったく予測しえなかった事態が起こってきたのです。
 これを“自然のしっぺがえし”という人もいますが、自然にそういう恣意あろうはずはなく、むしろ、人間のいだいた科学万能主義という独断的な偏見が、それほど単純ではない現実に直面して、混乱に陥っているのだと考えるほうが妥当でしょう。
 いうまでもなく人間自身が自然の一員です。それを考えるならば、人間は自然に対して、征服という観念でなく、協調しあっていくという考え方を根本としていくべきでしょう。そして理性の力による侵略的な暴走を抑制し、自己の内面に自らの傲慢を規制する契機をもつことが、今日の危機に対処するうえで、大切な要件です。
7  あなたは、過去の文明の凋落においては“蛮族”の侵入が新しい血を注入したが、現代の危機については、そういうことが起こる可能性はほとんどないといわれました。
 私が思うのに、新しい生命を吹き込むものは、外からの物質的・空間的要素ではなく、それは、むしろ、内的生命の発展に求められるべきでしょう。
 あなたのご意見のなかで、私は、さもありなんと承った点があります。
 それは、あなたが北アフリカの旅で、人びとに科学技術文明の危機を彼らに訴えても納得してもらえず、彼らが「あなた方と同じ線に到達したときに教えてもらえばよい」と言ったという話です。
 これは、ほんとうは奇妙な表現です。同じ線に到達したときには、彼らはなにも教わる必要がないでしょうから。そして、そのときには、取り返しのつかないものをすでに失っており、たとえ教わっても無意味になっているかもしれないのです。おそらく彼らにとっては、遠い先に予想される科学技術文明の危機よりも現在のさまざまな困難、貧困とか伝染病とかの危機のほうが切実であるから、こう答えたのだと思います。たしかに、彼らは、単純に科学技術文明にあこがれているのではなく、現実の苦しみを打開することに心を奪われているのです。
8  しかし、その深刻さの大小はあれ、科学技術文明の危機が全人類を巻き込んでいきつつあることは事実であり、したがって、文明先進国の人びとだけが危機の事態を認識すればよいというわけにはいきません。第三世界の人たちにも知らせていかなくてはならない問題です。
 しかし、ここでむずかしさが出てくるのは、文明先進国が、どのようなかたちで彼らにそれを認識させていくかという方法上の問題です。
 彼らのこのような考え方の背後には、先進諸国と、遅れた自国の状態とのあいだにある、あまりにも大きな水準の格差に対する不満があります。また、文明先進国のこれまでの横暴さ、勝手さに対する憤りも感じられます。この精神的状況は北アフリカの若者だけに固有のものではなく、きわめて広く行きわたっている一般的なものであるように私には思われます。立ち遅れているということから、第三世界の国ぐにと文明先進国とのあいだにあるあまりにも大きな違いに直面し、強い不満を感じているのです。
 そこに第三世界の人たちへの説得がたいへんむずかしい原因があると思うのです。いかに“調和”とか“協調”を訴えても、根底に格差の現実と“不信感”があれば無意味です。まず、この格差をなくすよう努め、不信感を取り除くことが先決であり、その誠意の行動をとおして危機を説いていくことが大切でしょう。

1
1