Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

合理主義の狂気性  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  合理主義の狂気性
 ユイグ 私が恐れているのは、人間の“論理”のこの危険な変形が現代文明の典型にならないようにということです。なぜなら、この変形が西洋の極端な合理主義の典型であるからです。自然は単純に割りきれるものでなく、無限の試みを必要とします。
2  池田 直観的に申し上げれば、西洋における因果のとらえ方が分析的・個別的であるのに対して、東洋の場合は総合的・全体的であるといえるのではないかと思います。
 つまり、西洋は分析的な認識を進めるうえで、いっさいの事物を各要素に分割し、単純化された各要素ごとに因果を追究するという方法をとります。いわば各要素を一つの閉鎖系として因果を完結させて把握していきました。これに対し、東洋は総合的な認識を重視して、さまざまな事物の相互関係に注目し、その相関性の中に因果を発見していった結果、個々の事物に関しては、いわば開放系としてどこまでも因果関係が波及していくというとらえ方をしたといえます。したがって西洋の因果観は部分を把握するのに力を発揮し、東洋の因果観は各部分を正しく位置づけようとする全体観に立っているといえます。
3  あなたは「西洋人は結果をうることに貪欲で、その結果をうるための原因を探究するが、それによって生ずる結果の複雑さを考えようとしない」と指摘されていますが、その傾向性は個々の事物の因果を閉鎖系として完結させてしまうところに原因があるのではないでしょうか。仏教は全体的な相関性のうえから空間的には一種の円環的な因果の連続をみ、時間的には無限につづくサイクルとして因果をとらえています。前者は基本的には縁起と呼ばれる考え方であり、後者は、輪廻と呼ばれる考え方です。前者は仏教の初期の経典において「此れあるときに彼あり、此れ生ずるときに彼生ず、此れなきときに彼なく、此れ滅することにより彼滅す」と、簡潔にその思想が説かれていますが、のちに依正不二論、一念三千論等の原理として完成されています。後者の考え方は、のちに生住異滅の四相、成住壊空の四劫などの原理として展開されます。簡単にいえば、すべてのものは発生と成長、安定、崩壊、消滅のサイクルを永遠に繰り返すというものですが、私はこうした全体的・総合的な因果の視点が、今日ほど要請されているときはないと痛感しています。
4  もちろん西洋にも、相関性のうえから因果関係をとらえる見方がまったくなかったわけではないでしょうが、生態学の登場時期をみても、そういう考え方はかなり遅い時期になって生まれたのではないかと思います。しかも、自然界の現象に対してはそういう見方をしても、人間が自然界に対して行ったことが、逆に人間社会に対してなんらかの影響を及ぼすようになるという考え方は、根本的に欠けていたか、あるいはきわめて薄弱ではなかったかという気さえします。
 ご承知のように、旧約聖書の中には、人間に対する神のことばとして「地を支配せよ……すべての生き物を従わせよ」という記述がありますが、ここには神と人間と自然の三者が截然と区別されており、さらに大別すれば“神と、神の側に立つ人間”と“人間に支配されるべくつくられた自然”との二つが対立したかたちになります。この図式は西洋人の思考の中に伝統的に組み込まれているように思いますが、こういう自然観は東洋には異質のものです。
5  英語の「nature」は、日本語で“自然”と訳され、現在はそういう意味合いで“自然”ということばを私たちも使用していますが、しかしこのことばが「nature」に相当する意味として使われだしたのは比較的新しいことで、本来は違う意味でした。現在使っている“自然”の意味に近いことばとしては、かつては“山川草木”あるいは“花鳥風月”等が使われ、具体的に存在しているものの名前を並べることで表現したのです。日本に「nature」に相当することばがなかったということは、自然界を客観的・総体的に把握することがなく、つねに自己の日常生活と関係性をもっているという一体感のうえから具体的にとらえることしかしなかったということです。これはおそらく日本だけではないでしょう。“自然”ということばは中国から学んだものですが、本来の意味は“おのずから然ある”ということで、これは本理に従ってあるがままにあるという存在の仕方を表現するものです。人間の小賢しい作為、取りつくろいなどを排して、あるがままにあることが、人間のあり方として一つの理想と考えられたのです。日本の古典である『万葉集』でも“自然”と書いて“おのずから”と読ませており、その本来の意味が知られます。
6  西洋的な自然観でなく“おのずから然ある”というかたちで自然との一体観をもって生活していた人びとは、動植物に対する親近感が強く、また時間的には輪廻の考え方によって、ある意味で動物も人間も同等のものだという認識さえもっていました。こういうエピソードがあります。ヨーロッパでダーウィンの進化論が発表されて大きな反響を呼んでいたころですが、ヨーロッパの学者が日本で進化論を講義したことがあるのです。その学者はヨーロッパでの進化論の立場を知っているので、どういう反応があるかと不安と好奇心をもって紹介したところ、学生たちは淡々と聴講してなんら特別な反応を示さなかったので驚いたというのです。
 東洋の場合、このように自然と人間を一体化してとらえる思想風土があったために、対象を客観的に認識していく分析的な近代科学が生まれ育たなかったと考えられます。しかし、今日まさに必要とされているものこそ、この、自然と人間を一体のものとしてとらえていく東洋的思考であろうと思います。人間は科学技術によって、あるていど自然を支配しうる力を獲得しましたが、結局のところ人間もまた自然界の中の一つの輪にすぎないのであり、共通の生命法則のもとにあるというのが真実の姿なのです。自然からの手痛いしっぺがえしを経験することによって、人類は、そのことにいま気がつきはじめたのだといえましょう。
7  ところで私は、自然科学の進歩と技術の発達の背景には、西洋独特の自然観を支えた神の意思という考えと、人間の欲望充足への衝動との結合があったのではないかと思っています。そこでは、神の意思に従った自然支配への努力が、そのまま人間の欲望充足の行為と重なっているとさえ考えられ、そのために西洋は絶対的な自己肯定の確信をもって、その欲望充足の行為を正義として行いえた、――それが西洋近代のエネルギーではなかったかということです。
 人間は科学によってやがて神の束縛から脱し、さらには神そのものを追放して、かわりに科学を生み出した理性をその位置にとらえましたが、その理性の背後には、やはり、欲望が控えたままであったと思います。科学は神の束縛から放たれて理性をその基礎とすることによって、それまでの制約を取り払い、思うがままの一人歩きを始めることになったのです。
 理性ということばからは、私たちは磨きぬかれた精神のもつ誤りなき判断力というイメージをいだき、そこに絶対的な信頼の基盤を据えうるように考えがちですが、そこには大きな錯覚があると思います。人間がなにかについて判断する場合、判断の行為は理性に導かれても、その基盤としては理性以前のなにかに立っています。多くの場合、現実には欲望がその基盤になっており、それを正当化し、それを効果的に実現するために、理性による判断力を働かせているのです。つまり近代科学技術文明は、結局、人間の欲望をその推進力としてきたのではないかということです。
8  しかも、神の束縛は脱しても、自然を人間と切り離してとらえ、人間のために利用すべきものであるとする聖書の思考の殻だけは引きずっているのです。神という歯止めを捨て去っただけ、自然からの簒奪は、いっそう激しくなったといえるでしょう。そして、現代文明における最大の問題は、この人間の欲望をどのように制御するのか、そもそも制御できるのかということです。
 あなたの話の中に、エネルギーの話が出ましたが、人類は今日以上の豊かさを求めて無限のエネルギー資源を要求しています。しかし将来、太陽エネルギーの有効利用が可能となるか、あるいは核融合が実現し、かりに無限のエネルギーが得られるようになったとしても、結局、そのエネルギーを利用し適用する対象となる資源は有限です。したがって問題にしなければならないのは、エネルギーではなく、無限のエネルギーを望む人間の欲望なのです。
 現状では、無限のエネルギー資源はしばらく開発されないほうが、人類にとっては有益とさえいえます。“しばらく”とは、人間が欲望を制御しうるようになるまでということです。今、安価で無限のエネルギーを入手すれば、人類は地上のあらゆる資源を競って使い尽くしてしまうでしょう。同時に、ご指摘のように産業廃棄物、有毒物質が産出され、自然破壊は相乗作用を起こして進行し、取り返しのつかない危機を迎えることはまちがいありません。
9  したがって、自然界が円環的な因果の連鎖によって幾重もの巨大な循環システムをつくり、それによって見事な平衡を保っているように、産業構造もまた一つのサイクルをもつものとして再構成されなければならないでしょう。その場合、当然、人類は現在以上の豊かさを期待することはおそらく不可能となるでしょう。そこで、先述した人間の欲望の制御が、避けることのできない問題となってきます。
 つまり、そのようなシステムを、人類ははたして受け入れることができるか否かということですが、もちろん、それを受け入れなければ人類の未来がないということを、すべての人は理性的には理解はするでしょう。しかし、欲望にもとづく正義の擬制を見抜けないことの多い理性の力というものは、実際にはそれほど信頼できるものではありません。したがって私は、理性を支えるもの自体を転換する以外にないと考えるのです。仏教が説こうとした究極も、じつはここにあります。
10  現代人が無限に欲望を追求することを是とするのは、本能的な欲望の充足をもって幸福の究極と信じているからだと私は考えます。本能的な欲望とは、いいかえれば五感への快い刺激を求めることであり、この刺激はやがて慣れによって不満足なものとなり、より強いつぎの刺激が求められることになります。またこの満足感は蓄積できないものだけに、あとに空しさを残すことになります。これは悪循環をもたらすだけであり、現代社会はまさにこの悪循環の様相を示しています。あなたは「人間の好みの低俗化」が進むことを指摘されましたが、これは当然の結果であるといえます。仏教は五感への快感がもつ誘惑は本能に根ざすものだけに、人間にとって抗しがたく強いものであり、しかもこれに屈してしまうことが人間の不幸の根源となっていくことを洞察し、その解決を考えたのです。
11  仏教は人間性に対する深い省察、万象への鋭い観照によって、万物を貫く理法の存在を説き、その理法を自己の生命に肉化し一体化することによって、完全な解脱を得られることを示しました。解脱とは自己の人間性を拘束するものから解き放たれることです。その仏教が明らかにした理法の基本的なものは生命現象のあらわす因果の法です。これは現代社会がかかえる問題に対し大きな示唆を与えてくれるものですが、しかし、理論として理解したのみでは、真の解決がもたらされないのは、いうまでもありません。ここに私が、哲学だけではなく、宗教が現代に必要であることを主張するゆえんがあります。
12  ユイグ 現代の人間の欠陥は、たんに自分のエゴにしか耳を傾けず自然界を無分別に開発することに没頭しているだけでなく、それに加えて、このエゴイズムの盲目の中で向こうみずなやり方で自らの貪欲に身をまかせていることです。彼は望ましい餌食しかみず、それを手に入れる手段しか考えず、そのために生ずる厄介で、しかも取り返しのつかない結果については予測しようともしません。そして、このいわゆる成功が自分自身に刃向かってくることには思いも及ばないのです。それについては、さきほど複産結果の危険として私たちが話し合ったとおりです。
 一つの目的をめざし、それを達する最短の道を考えることは、往々にして盲目的な論理から出てきます。なぜなら、自然は複雑であり、私たちの一方的で単純な思考を当惑させ、私たちが目的達成のためにやっていることは、しばしば、破局――あなたが言及されている“予期しない災厄”をひきおこすだけだからです。
 あなたもその危険性を正しく警告されている、この自然環境の不均衡については、一つの事例がそれを明らかに示しています。ナイル川につくられた巨大なアスワン・ハイ・ダムがその例です。ナセルは、工業のエネルギー源を国内でまかなうという夢を実現しようとして、このダムの建設にたいへんな関心を払いました。技術者たちは自分たちに求められたことを実現しました。
13  しかし、数年後、科学者たちの計画でもまったく予測されなかった、自然系の混乱という反撃にあっているのです。水の流れの変更は、農業を低下させ、気候を変え、エジプトをかたちづくっていた生態学的均衡を破壊しています。そのほかの、立ち退かされた住民や移転された歴史的建造物のことは、いうまでもありません。
 この遺跡の移転に関しても、予想はくつがえされました。アブ・シンベルの地下神殿は完璧なやり方で台地の頂上に持ち上げられました。ユネスコによって集められた全世界からの賛助のおかげで、この“技術の勝利”が祝われたのです。しかし、元の地形の中では何千年来保存されてきた岩石が、この新しい位置では、砂漠の風のために少しずつボロボロに風化していくことに、人びとは気づきはじめています。
 私たちの過度に合理化された思考は、期待される“結果”をもたらす“原因”を見つけだすことはできます。しかし、現実の無限の複雑さと、私たちの行為が生ずる思いがけない変動や混乱を感じとることはできないのです。私たちは、一つの部屋の中で、武器で標的をねらって命中させることはできます。しかし、その武器の爆発音が、窓ガラスを破壊することについては予想していないのです。

1
1