Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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侵される自然  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  池田 人間と自然との関係は、人間が、自然を畏れ、敬い、妥協することしか知らなかった時代から、産業革命を爆発点として途方もなく技術を巨大化させた近代にいたって、まったく逆転してしまったかのようにみえます。火を手なずけ、鉄や銅を自由に変形する術を知ったときから、人間の知恵は、それまで奔放にすごしていた他の動物たちにとって、やっかいなしろものになったわけですが、さらには、山を削り、海を埋め、大陸を切断するなど、人間の横暴は、とどまるところをしらないようです。
 生物学上からみれば、人間は長い地球上の生命の歴史のうえで、ほんの最後の部分――もちろんこれは現代を終着点としてみた場合でありますが――に、突然入り込んできた闖入者にすぎません。その新参者が他の動物の生殺与奪を自由にして、生物史を書き換えようとしたり、さらには、地球自体にまで影響を及ぼしかねない自然環境の破壊を行うことは、絶対に許されるべきではありません。あくまでも尊い生命を育んでいる地球という唯一の天体――将来は他にも発見される可能性は十分にありますが、現在においては生命存在の立証されている天体は他にありません――の構成員の一人であり、専制君主ではないことを知るべきです。自らの生存の基盤である地球を破壊することは、自分自身の滅亡につながることは明らかです。
3  私は現在の人類の傲慢をみると『西遊記』という、日本の民衆にも広く知られている中国の物語を思い出します。その中に、さまざまな術をあやつり、宇宙の果てまで飛んでいこうとした孫悟空が、結局は釈迦牟尼仏の掌を越えることはできなかったという話がありますが、人間もまた、その科学技術の力によって自然界の個々の事物を征服し服従させることはできても、この自然宇宙の総体の営みから外へは出られないでしょう。
 仏教では、人間と自然とが相互に依存しており、助け合っていくべき関係にあると説いています。これは気候的に恵まれたアジアの生活環境も、そうした思想を形成するのにあずかって力があったと考えられます。過酷な環境の中では、人間は自然と戦い、自然を畏れる心が働きます。しかし、豊かな土壌、温暖な気候、豊富な雨量のもとでは、自然のうちに農作物が実り、生活を潤してくれますから、そのような風土にあっては、自然は人間を守ってくれるものという思想が形成されやすいでしょう。人間と自然の一体化、融合化が志向されたのも当然かもしれません。
4  しかし、このような自然の恵みの中にあっても、人間が存在するというためだけで、環境に少なからず影響を与えます。ましてエゴイズムがのさばりだすときは、恵みをうけ、感謝しなければならないはずの、ものいわぬ自然に対して、いつしか蹂躙しはじめるのです。狩猟、果実の採取、動物の飼育から進んで、農業を始めると、河川の流れを変えることを始めます。そうした生きるための手段としての行為ばかりでなく、やがて、珍しい毛皮を求めて殺戮を繰り広げたり、交通の便を考えて自然をつくりかえるようになると、もはや、生きるためという目的をかなり超えており、自然界の法則に背いたエゴイズムといわなければならないようです。さらには、趣味、娯楽のために動物を殺したりするなどということは、傲慢以外のなにものでもないでしょう。三十数億年といわれる、この地球上における生命の歴史を、たかだか二百万年ぐらいの歴史しかもたない人間が塗り替えることなど許されていいはずはないからです。
5  しかし、人間がいるかぎり、エゴイズムという魔物があるかぎり、動物や自然への蚕食はやみそうにありません。仏教の眼は、そこにたとえようのない哀しい人間の「業」カルマをみるのです。人間というものが生まれなかったならば、動物たちはそれぞれの生を自由に生きることができたかもしれません。もちろん、自然にも弱肉強食の図式はあります。しかし、それはそれぞれが、生きるためという必然にしたがっての殺戮であり、まして自然の全体は、自らの営みの中で変わる以外に他のなにものかによって変えられるということはなかったでしょう。人間がいるゆえに、そこに“意識的に”さまざまな変改が加えられてしまうのです。
 人間が傲慢になりすぎてはいないか、とくに人間のエゴイズムこそ、宇宙・自然の調和を乱す諸悪の根源ではないのか――仏教が人間のもつ“煩悩”を罪悪視し、自らの周りの世界に対し、限りない愛情を注ぐべきことを教えるのは、こうした考え方が底流にあるからと思われます。
6  仏教が最も基本的な悪としてあげているのは“殺生”ということです。人間はその知恵によって恐るべき武器をつくり、使用しはじめました。この力をもってすれば、いかなる動物を殺すことも容易です。そのゆえにこそ、殺すことを禁じなければ、人間の罪悪は際限なく増していくにちがいない。この観点から仏教は殺生を禁じたと考えられます。
 仏教の中でも小乗仏教と呼ばれる教えは、人間が横暴の限りをつくすことへの罪悪感から、人間としてできる最も尊い行為は、自分という存在をなくすことであるとさえします。仏教以前からのバラモンの中にもありましたが、仏教では、現代人の私たちには想像することが困難なほどの苦行が行われていました。その中には、飢えた動物を救うために自らの体を与えるというものもあったようで、仏教説話の中に、いくつかの例がみられます。
7  ベトナム戦争のころ、政府への抗議として仏教僧が焼身自殺をしたことがありましたが、もちろんそれらは直接的には最も激しい形態をとった政府権力への抗議であったにせよ、もともと仏教の修行としてあったことが、それらをさせる要因にもなっていたようです。
 人間は、自然との一体化をめざし、ある場合には、人間といってもけっして動物たちや自然よりすぐれているのではなく、人間のほうがおろかであるとさえ考えるところから出発すべきではないでしょうか。しかしながら、人間がいくら自らを罪深い存在と感じても、また人間の存在、出現自体が誤っていたと考えても、それで問題は解決するわけではありません。
 それにもかかわらず、価値を創造していると信じて行っている現代人の行為のほとんどすべてが“人間のためだけの行為”であることは確かであり、そこに反省を加えなければならなくなっていることは否めないでしょう。その認識のうえに立ってどう出発すべきかを、人間は考えるべきです。
 人間は生命を殺戮する動物であると同時に、生命の尊さを深く認識しうる動物でもあります。“煩悩”を否定して“悟り”があるのではなく、“煩悩”に突き動かされる人間の業をみつめながら、それをどう転換していくかを考える以外に人間の生きる道はないし、そこに煩悩即菩提という大乗仏教の考え方があるのだと、私は理解しています。
8  思うに、人間が今まで、その文明的営為の根本としてきたことは、どうすれば自分の目的をより効果的に、早く達せられるかということであり、その目的がはたして善か悪かということは、あまり考慮されなかったといってよいでしょう。それはとくに科学・技術における場合に顕著であったようです。しかし、これからの人間は、その目的自体の善悪を問わなければなりません。それも、人間にとっての善悪のみを考えるのでは不十分です。“地球のために”“自然のために”なにが善でなにが悪かということです。それを一つ一つ正しく見定めるなかで、その手段としての技術の開発も許されるべきだと思うのです。
 しかし、現実にあっては、いっさいの状況を見きわめることは、われわれの知性では不可能です。しかも、はやく着手しなければ他の人びととの競争に敗れてしまうという危惧から、十分な考慮をしないままに実践化に踏み出してしまうことになりがちです。しかし、人間は自然と仲良くやっていくには、その“見きわめること”が大切だと思うのです。
9  たとえば、工業製品を送り出すときには、まずそれが用済みになったときどう処理するかに明確な結論を出してから、開発すべきだと思います。日本においても、プラスチック製品の便利さに酔いしれていた時代から、その処理に困る時代に移っていますが、“とりあえずつくる”のではなく、その再生方法を開発してからつくっても、けっして遅くはなかったでしょう。
 道路をつくり、河川を変えるときにも、まずそれが人間の生活に対してばかりでなく、自然の営みに対して及ぼす影響を考えてから、着手すべきです。それをしないで、人間の経済的影響性だけで判断してつくったために自然破壊をもたらし、予想もしなかった災害を呼びおこしてしまった例も少なくありません。

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