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日蓮大聖人・池田大作

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償いの渇望  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  償いの渇望
 池田 ともあれ、芸術は、たんにその時代の反映ではありません。芸術は、その時代を反映しているとともに、また芸術によって表明されたものが、人びとに深い影響を与え、時代の風潮をつくっていくのです。その意味で、現代の芸術の多くが、幸福や喜びでなく、不安と不調和、絶望を表現しているのは、時代を反映した結果とみればやむをえませんが、つぎの時代をつくるという面からみれば、私はこれでよいのだろうかと思わずにいられません。この点について、あなたは、どのようにお考えになりますか?
2  ユイグ 映画やテレビジョンが、物質的な利益と成功をめざして、民衆の最も低劣な欲望をそそることしか考えていない姿は、日本だけでなくあらゆる国で、たしかに、しばしば見受けられるところです。それらが現代の運命的な傾向に対抗して立ち直ることのできる新しい精神を現代人に目覚めさせるためのなんの努力も試みてこなかったことは事実です。これに対して、伝統的な芸術は、個人の創造に働きかけるものをもっています。
 すでにみてきましたように、絵画や彫刻は、現代文明の苦悩を反映しているにしても、そうした欠陥を映しだすことで満足しているわけではありません。それらが含んでいるものは、はるかに豊かです。芸術がたんにそのおかれている時代状況や、それが予感している危険を反映しているだけのものではなく、同時に、それを癒そうとする熱望、そこに感じた脅威から解放された状態を見いだそうとする欲求の反映でもあることは、あらゆる時代の真理であり、現代についても検証されることです。
3  したがって、芸術を聴診するとき、そこには、現にあるものの記録と調書だけでなく、失われた状態に対する大なり小なりの願望や、違ったものへのひそやかな熱望もまた見いだされるのです。そして、そこには、未来に発展するであろうものの種子が、たぶん、探知されるでしょう。芸術は、そこでは私たちの助けとなってくれます。その源の大部分が直観であるため、熟考し、筋道だてられた過程をへて結果に到達することが必要な文学や哲学や科学と異なって、芸術の源泉は霊感の中に率直にわきでてくるのです。
 ですから、芸術は予感をより受け入れやすいのです。思考とその論理の規律に従っている、他の表現様式よりもずっと容易に予感を伝えます。そして、まさしく芸術は、感受的生命と個人の存在をさえ危険にさらす恐れのある合理主義が、その網の目をちぢめながら増大し窒息させているこの理性の支配に対し、現代の潜在的な反抗を、ずっと早くから示してきたのです。
4  こうして、“無意識”が一九一九年から二〇年以来の、第一次大戦後すぐにあらわれた超現実主義を成立させた要素の一つになったわけです。この非常に深い、そして現在の時代を掘り返してきた運動は、合理性への無意識の恐れとともに、最も本然的で最も自発的で、しかも無意識な源泉へのやむにやまれぬ回帰を、よくあらわしています。この源泉こそ、論理的思考によって磨き上げられないうちから、私たちの内に活動しているものなのです。
 すでに十九世紀に、一つの前ぶれがみられました。それはロマン主義において幻想的なものが占めていた部分がそれで、これは、当時進行していたブルジョア的・科学的思考の実証主義に対する避難所を準備することをめざしたものでした。そのため、当時の社会から遠くへ逃げようとして、過去、とくに中世に向かい、あるいは空間的に東洋へ向かったのです。
 この拒絶の特徴は、二十世紀になると、さらに荒々しく表現されました。そして、超現実主義は、無意識の世界へ思いきって潜行をしながら、まさにそれをこの反動に結合させたのです。こうして合理主義は、ロマン主義の夢想という平衡錘によって凌駕されたばかりでなく、自らのとらえられないものに頼ることによって、これ以後は受け入れられなくなりました。
5  この釣り合いをとろうとする反動の第一の兆候に加えて、やはりロマン主義によって導入されたもう一つ別の兆候があります。それは、しだいに強まる個人的体質の主張です。ここでもまた、集団的規制の強化につながる、科学主義・物質主義・技術主義主導の行き方において強く要求される客観性に対して、主観性が宣揚されることとなりました。合理的法則と、科学の客観的方法と、さらに政治の発展によってもたらされる集団化がひきおこす脅威を芸術家は、その直観によって感じ取っていたのです。集団化の進行は、それと並行して、個人を集団の至上命令に服従させていきますが、芸術は、個人を脅かすこの暴虐に対して、個人の確立を強めようとしたのです。
6  かつては、芸術家たちは集団的なビジョンに抑揚をもたらすことで満足していたのに、十九世紀以来、とくに二十世紀においては、それに対して攻撃的になるにいたりました。彼らは自由な解釈をし、自由な変形をし、たとえば表現主義が大切にしなかった性格的衝動を自由に噴出させることによって、集団主義に対して荒々しく否認することもあえて辞さないでしょう。
 私たちが現代について前に立てた仮説を立証するようになってきているこれらの新しい特色に対しては、どんなに注意しても、しすぎることはありません。
7  池田 もし芸術が、そのように、私たちの恐れているものを裏づけているなら、それはなんらかの希望もにじみださせているのではないでしょうか。そして、それがあらわしている、こうありたいものを通じて、私たちを一つの解決策に導いてくれないでしょうか? あなたが何度も言われたように、芸術家は、ときとして、あとになってようやく明瞭になることを、漠然と覚知しているのではないでしょうか。
8  ユイグ ほんとうの芸術家は、事実“先見者”たりえます。感受性と直観の深い源泉に向かって、彼は、思考にとっては、まだ漠然としていて、もっとあとになって明白な事実があらわれ、思考がそれを解釈するゆとりが生じて初めて明瞭化するような兆候を認めることができるのです。
 芸術は、予知とまでいかないにしても、少なくとも予感のこの能力をもっているのですから、同様に、もしかしてそれは、現代ではまだ窒息させられている深みの中に、私たちを脅かしている危険な条件を正すことのできる、救済行為の種子を覚知しているのではないかと尋ねてみることは必要なことです。まだそれは、かなり散発的なやり方でしかなされていないようです。
9  幾人かの芸術家の作品については、今日の物質主義の画一化と窒息から逃れたいという欲求のようなものをその作品に感じ取ることができます。この点でも、その前ぶれ現象は十九世紀のロマン主義にみられました。ドラクロアの作品を、装飾的な傑作だけにかぎって、この点をみてみましょう。たとえばルーブルにある「蛇ピトンに勝利するアポロン」や、サン・シュルピスにある「ヤコブと天使の戦い」は、彼が戦いの必要性を予感していたことを示しているでしょう(“戦わねばならぬデイミカンデウム”というのが彼のスローガンでした)。光と精神の神・アポロンの、怪物、竜によってあらわされた物欲本能に対する戦いがそれであり、そこに、明晰さが暗闇に対して勝利を収める必要があったのです。
10  同様に「ヤコブと天使の戦い」は、天使によってあらわされた精神と神への対決を呼びかけているのです。
 十九世紀末、象徴主義派は、この精神的なものへの憧憬を明確に述べていました。ヴェルレーヌ(フランスの詩人)がババリア(西ドイツ南東部地方)のルードヴィヒ二世の死に捧げて、一八八六年につくったソネットの中には、それを取り戻そうとする気持ちの高まりがあらわれています。彼はそれを理性に報復しつつ、死も辞さない熱情をもって讃えたのです。
  政治的かけひきと妄想のことども――
  この“科学”が家庭の中に闖入し
  この“科学”が祈りと歌と芸術と
  そして、すべての詩才を暗殺する
11  二十世紀の芸術にも、まったく同様の憧憬が認められます。一九一三年以後、ブランクーシ(ルーマニアの彫刻家)という天才的な彫刻家は、何年ものあいだ、というより一生のあいだ抱いた一つのテーマに、精力の大部分を傾注しました。それこそ、まさしく飛翔であり、重力の消滅であり、大地からの離脱であり、自由な空間への上昇というテーマでした。それを彼は“鳥”によってあらわし、ときに“マイアストラ”と名づけました。また、同様に彼は“無限に高い柱”というテーマでもあらわしました。
 この最後の主題は、表面的には異なってみえますが、深いところでは同じ憧憬を表明したものです。つまり、物質をあらわしているゼロの水準から出発して無限に上昇していくことにより、平均化される脅威から逃れようとするのです。シャプラン・ミディ(フランスの画家)の最近の作品などは、広漠たる砂漠の中で、空を横切って飛んでいく鳥に向かって絶望的に差し出された、石化した手を描くことによって、この欲求の強さを表現しています。
12  そのほか、さまざまな意味を示す表現が、あちこちに見いだされます。たとえば、技術文明に依存しているようにみえますが、アメリカの彫刻家、リッポルドの芸術などがそれです。彼は金属類をもっぱら使用します。このことは一見、機械的な世界に服従しているしるしのようにみえます。ところが反対に、釣り合いのとれた中心から出ているロープの放射状の構造は、ロープをきらめかせている光の中での発展をあらわしているのです。
 これと同じ関心事を、ブランクーシはその“鳥”によって示しました。彼はそれをアトリエの中で昼間、自分で写真にとったのですが、太陽がその頂にかかるようにし、いわば、その鳥の形にかわって、光の爆発、眩暈がそこに表現されています。このすべてが一つの深い意味をもっており、ブランクーシがこの作品の光景を写真としてとどめようと思った事実自体が、彼の心でそれが占めていた重要性を示しているのです。
13  要するに、以上のことからいえることは、こういうことです。芸術が、存在するもの、つまり、一部分は無意識にしても、一つの意味をそこにあらわすものだろうとして、それを通じて固定性をもち、見えるものとなり、明白なものとなろうとしているとき、その芸術が投影しているイメージを読み取ろうとするならば、そのイメージは、現代文明に対する二重の立場をあらわしていることが認められます。それは、まず、その欠陥や行き過ぎや脅威を前にしてますます深くなっていく不安感であり、それはついには逃避主義にまで発展していきます。しかし、また、それは、ある人びとにあっては、消極的でなく積極的な行き方によって、物質の重みを排除しつつ、ある種の上昇を行い、ついには精神に向かって飛んでいこうとする漠然とした欲求と意志をあらわしているのです。

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