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日蓮大聖人・池田大作

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現実との離反  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  もう一つ、現実のものと相容れないこうした行き方を、それとは反対の様相であらわしているのが、トビー、ポロック(ともにアメリカの画家)、さらにデュビュッフェ(フランスの画家・彫刻家)などの絵や作品です。これらは、もはや構造をさえもたないもので、事物の要素をバラバラにする一種の切断からとりかかります。この兆候は、すでに立体派にもみられたものです。
 たしかに立体派は、現実のものとの対応を完全には拒みはしませんでしたが、その物質的構成にはもはや一致していない一つのイメージを初めてあてはめたのです。対象は、芸術家の介入によって、勝手気ままな断片に切断されたわけです。
3  ここでは、人びとは、ちょうど噴出か爆発かがあったあとのように、形がこなごなに壊れた状態、あるいは図面が散りぢりになった姿を目撃するわけです。同様に、アルマン(フランス出身のアメリカの画家・彫刻家)は、前から存在し、しかも役に立たない物体をたんに集めることからとりかかります。
 そのほかにも、いくつかの作品に見いだされる空虚さの強迫観念のようなものや、あるいは、抽象的な作品でも具象的な作品でも出合う、障害物の強迫観念等も特徴としてあげることができるでしょう。これらの特徴は、精神病理学で精神分裂状態と呼ばれるものから生じますが、これは明らかに画家の問題ではありません。
4  このことは、きわめて重要なことです。なぜなら、芸術の表現するイメージは、私たちの精神生活の投影であり、もし、現代芸術にこのような症候群の広がっていることが認められるとすれば、現代社会こそこの欠陥、潜在的精神分裂病の“保菌者”であることを認めなければならないからです。現代社会は、自らが現実に密着できず、技術と科学が試みている部分的手術はできても、現実全体を精神によって克服することができないことを、その芸術にあらわれた強迫観念によって白状しているのです。人間の精神的同化である、こうした気ままな構成があらゆる分野で始まるのは、現実からの一種の逃避によってなのです。
5  ドイツの哲学者ボリンゲルは、今世紀の初め、抽象芸術の出現に、非常な貢献をしました。それは、カンディンスキー(ロシアの画家)の思想に影響を及ぼしたというだけのことでそうなったのですが、彼は、芸術によるこの現実放棄をはっきり示す影響力をすでにあらわしていました。彼は、具象化と非具象化は周期的にあらわれる現象で、具象化が幸福の文明または古典主義、すなわち周囲の世界に参画する文明に合致しているのに対し、抽象芸術は、辛くなり、耐えがたくさえなった現実を放棄したことのあらわれであるとみなしました。
6  さらに最近あらわれているところによれば、芸術の無報酬性というべきものが認められます。つまり、自分自身の中に逃避し、あらゆる社会的機能を放棄することによって、本来、芸術はなによりもまず、表現の手段であるのに、伝達を拒絶するまでになっております。今日、どれほど多くの芸術家が、観客に取り入ることを公然と軽蔑し、ただ表現することだけを望んでいることでしょう。彼らはそうした創造の中に閉じこもっているのですが、これもまた一つの逃避なのです。
 また、反効用主義というべきものがあります。ティングリ(スイスの彫刻家)はなんの役にも立たない機械や、自ら壊れる機械をつくって、それをニューヨークで展示しましたが、それは効用性に対する抗議であり、効用性だけを追求する技術に対する抗議の一つとして行ったのです。
7  さらにまた、種々の“退行”の現象もみられます。デュビュッフェにみられる野蛮への退行、不定形への、つまり柔らかい物質への退行(たとえばセザール=フランスの彫刻家=にみられます)、それに加えて、無機物への退行と、急速に繁殖するものへの退行があります。
 これは、芸術の敗北であり、その放棄でしょうか? ポップ・アートはその証言であり、そこでは、芸術はもはや、現代の軽蔑を受けているこの現実と区別できないものとなっています。この逃避は作品とその持続性の消滅にまでさえ進む可能性があります。このハプニングは、それ以外のなにをあらわしているでしょうか?
 先行の諸文明の中でずっと進行してきたのとは逆に、現代の芸術が一貫して示しているのは、先行のそれとは幾らか異なっているにしても、今ある現実に加入していこうとする代わりに、あらゆるかたちで断絶することです。この症候は、深刻です。
 こうして、芸術によくあらわれる種々のイメージによって、いうなれば聴診ができ、そこから、現代の病状についての、より明確な診断ができるのです。
8  池田 あなたが分析されたのは固有の意味での芸術であって、それに関係しているのは、その道に通じたエリートです。しかし、現代文明は、その新しい技術によって、かつては知られていなかった芸術も生み出しました。たとえば映画がそれで、これは、ずっと広範囲のあらゆる階層の民衆が接しているものです。さらに、テレビジョンにいたっては、その小さなスクリーンが、各家庭に入り込んでいます。
 こうしたマス・メディアの利用は必然的に広範に普及しており、大衆の娯楽となっています。このメディアの発達は、現代の技術社会を特徴づけている現象です。
 このかたちの芸術は、民衆に受け入れられるためには、現代人の感覚を、しかも、たとえば絵画よりもずっと直接的なやり方で反映しなければなりません。そこで、これらがよく取り上げるテーマは、人間不信やエロティシズム、暴力、さらには金銭の魅力ということになるわけです。
9  たしかに、殺伐とした現代社会の中で、人間への信頼を裏切られ、現実社会を動かしているのが冷酷な権力のメカニズムであり、権力者の欲望と横暴であり、最も頼りになるのは物質的富と権力的地位であると知った大人にとっては、甘ったるい倫理的教訓や理想主義の芸術は、なんの魅力も感じられないでしょう。醜い現実を鋭くえぐりだした作品のほうに、より切実な共感を覚えるであろうことは容易に私も理解できます。
 しかし、これがマス・メディアにのせられるということには、大きな問題があります。とくに日本ではテレビジョンが、その最も焦点の位置を占めているのですが、かなり官能的あるいは暴力的なシーンを含んだドラマなどが放映されます。劇場用映画の場合は、年齢によって入場を制限することができますが、テレビジョンの場合は、十分な人生経験、したがって判断力をもたない少年たちの目にもそれがそのまま提供されることになります。
10  事実、少年犯罪の中には、こうしたテレビジョンでのドラマ等に刺激されて行われた例もいくつかあります。また、それ以上に私が憂慮するのは、具体的な犯罪事件としてはあらわれてこないけれども、このようなつぎの時代を担っていくべき少年たちの心の中に徐々に蓄積されていく影響の大きさです。
 私は、少年時代には、人間への信頼や高い精神的理想への憧憬や、正義を重んずる勇気といったものが、やはり教育の核として打ち込まれなければならないと考えます。それが現実社会の実相とはかけはなれていようとも、人間としてめざすべき目標として深く教え込まれなければならないと思うのです。
 一方、醜い現実についても、盲目のままにしてはなりません。もし、現実に対してまったく盲目であるような教育を施したら、少年たちは、大人になって現実社会に出たとき、事実に対して対応できない、ひよわな人間になってしまうでしょう。
 ですから私は、たとえばテレビジョンのようなマス・メディアは、暴力あるいは官能的な内容のものを一切放映すべきでないというわけではありません。まして、映画やドラマを含めた広い意味での芸術に、その創造上の制約を課すべきだというのでも、もとよりありません。ただ、あらゆる人びとの目にふれる可能性をもつマス・メディアにのせる場合には、それなりの配慮がなされるべきだと思うのです。
11  芸術的創造に対しては、絶対に制約や規制が加えられてはなりません。あくまでも表現の自由が尊重されるべきです。しかし、テレビジョンの放映内容を決定するディレクターや局の首脳は芸術家ではありません。むしろ、社会的に重要な責任ある立場であることを自覚した人びとであるはずです。彼らが、その番組決定で、その責任感を反映していけば、理想主義的な志向性をもった芸術家たちの活躍できる場が与えられることになり、他方、そのテレビジョンを見る大衆にも、よい方向への影響を及ぼすことができるでしょう。
 私は、芸術家とは、たんに現実の醜さに対して受け身的で、それを反映するだけの存在ではないと思います。そうした現実を鋭く見つめながらも、その奥に人間への信頼を失わず、高い理想への志向を貫こうとする、たくさんのすぐれた芸術家がいると考えます。現代の自由主義社会では、商業主義のためにそうした芸術家が葬り去られようとしているのが実情ではないでしょうか。私は、芸術家の表現の自由への抑圧をもたらすことなく、そうしたすぐれた芸術家に活躍できる場を提供することによって、芸術の及ぼす次代の人びとへの影響という点で修正を加えることが可能だと思うのです。

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