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日蓮大聖人・池田大作

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内面的混乱  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  内面的混乱
 池田 いままで指摘されたのは、いずれも、時間と空間という、外の世界の広がりにあらわれている混乱です。しかし、あなたが最初に強調されたように、私たちの内的生命、内的実在という重要な問題が残っています。現代の生活が、そこにおいても、いかに混乱を生ずる源になっているかについて、明らかにされなければなりません。
2  ユイグ これは、人間の本性が求めてやまない生命の全き開花が、現代の生活においては再び抑圧されるようになっているということです。そこで問題になるのは、私たちの内面的な広がりですが、ここでもまた、私たちは、もはや完全な人間ではないのです。なぜなら、現代の文明が私たちに、その働きを制限し、削り取るような方向に導いてしまったからです。事実、現代の文明は、徐々に私たちを“知性化”してきました。
 この危機はなんというべきであり、どこにあるのでしょうか。今日、経済と技術の支配のもとに、私たちは具象の世界、つまり物質の世界との関係を強め、その中にますます埋没しつつあります。こうして私たちは、現実的な事象を実際的にとらえる能力の発達を優先し、それを過度に進め、さらには、他を犠牲にしてまでこれのみを尊重するにいたったのです。そこで役割を演じているのが知的才能です。
3  しかし、この知性の機能は、私たちの内的生命全体のために必要なことをするには不十分です。というのは、知性の機能は、もし、その誤った用い方のために生命の補助的諸機能、とくに感受機能の発動を不当に束縛するならば、内的生命の全体を窒息させることになるからです。知性と感性はちょうど、呼気と吸気のように互いに協力しあい、平衡をとるためにつくられています。知性は、現実と私たちとのあいだに、実行可能な一つの表象を介在させるためにつくられていますが、この表象は、透視はできるが通過はできないガラス板のスクリーンみたいなものです。これに対し、現実世界に対応し参加するためにあるのが感性なのです。しかも知性が設けるこの表象は、現実を利用することを助けてくれるとはいうものの、本来の性質をねじまげます。なぜなら、それは、実際には変化し、動き、無限に多様化しているものを、利用しうるものにするために、一つの不変的で固定化され、単純で限定されたモデルに書き換えなければならないからです。つまり、デカルトがいった“明晰にして判明な観念”にされなければならないのです。
4  ところが、生命は固定性と不変性を拒みます。それは、絶えまなく変化します。生命は単純さを拒みます。複雑に入りくんでいるのです。生命は定義づけを拒み、絶えず自らを問い直すのです。
 ひとことでいいますと、知性はすべてを、空間的なかたちのイメージに還元します。それは感性にのみとらえられる持続性を捨象してしまいます。ですから、知的表象化は、それが不可欠であり重要であるためにも、絶えず感性との交流によって潅漑され、補足され、修正される必要があるのです。
 そうでなければ、私たちにとって不幸なことに、私たちはますます機械に自分を合わせることになり、ついには、機械を手本とするようになるのです。機械は、固定的で既定の要素を幾何学的に並べることによって、私たちの現実への感覚的参画を萎縮させ、その価値を奪う働きしかしません。種々の表象にみられるように、私たちの思考の中にある幾何学、とくに直線に対する崇拝は、その兆候なのです。
5  この気ままな単純化が、私たちの生活につきまとう枠組みを形成しながら、最も強くあらわれているのが都市計画と建築においてです。バウハウス(ドイツのワイマールに設立された国立総合造形学校)からル=コルビュジエにいたるまで(後者は東部フランスのロンシャンの教会以後は反対側の陣営にまわりましたが)、直線と直角は一種の道徳的強制となり、近代主義の証拠となって、モンドリアン(二十世紀初のオランダの画家)の芸術においては一つの信仰にまで高められました。都市の碁盤の目は、アメリカの街区をモデルにして、支配権をとりました。
 この“純粋主義”は、生きているものの活動を追放することによって心理的無菌状態をつくりだし、私たちが警告している都市の精神病を促進してきたのです。しなやかで動的なものの印である曲線は、生命にとってぜひとも必要とされるものです。生命はこうして、直線を屈折と釣り合わせ、規律と自由を平衡化させることを求めるのです。
6  私たちのみるところ、技術者たち自身、事実によってこのことを強制されているといえるのではないでしょうか。技術者は概念的に直線の道路をつくろうとしますが、自動車の速度が増大するにしたがって、その速さということから、もはやたんに空間についてのみでなく、時間的条件も考慮に入れるために、そうした抽象化から脱却しなければならなくなり、どうしてもそこに曲線を入れる必要にせまられています。直線道路の交差に余儀なくとってかわった立体交差は、こうした新しい柔軟さのすばらしい例です。
 同様に、近代建築もまた、耐久力と圧力・張力の問題を解決するために、直角交差ばかり使っていられなくなり、思いきって曲線が用いられるようになりました。それが、ニーマイヤー(ブラジリア設計者の一人)やネルヴィ(ユネスコ本部の設計者)、サーリネン(ヘルシンキ国立美術館などの設計者)、ジレ(一九五八年ブリュッセル万国博のフランス館の設計などがある)といった人たちによって広められた一つの新しいスタイルの土台となっています。ここでもまた、事実の力が型にはまった考え方に変更をもたらしたわけです。
 そして、クーエルの建築や彼の古い協力者であるグラタループのそれにみられる革命的な建築があります。彼らの最近の作品は、伝統への反抗と伝統に縛られない自由さをもって、やわらかく意外性に満ちた、そして自然な波形の線に、自由に身をゆだねようとするものです。老子は、すでに、直線が死とつながっており、曲線が生と結びついていることに注目していました。
7  しかし、私たちは、この幾何学的単純化を生命について課し、自分たちの精神構造に合わせようとするあまりこれを歪めています。それは私たちの思考様式を支配し、それを乾燥化するにつれて現実の生命からかけ離れさせています。国家管理に侵入している“テクノクラシー”は、人間存在の多様な特性を考慮せず、生命を、あらかじめ考えられた、均等化の図式に従う、動きのない、中立の物質として扱います。
 この機械的調整の単純化が個人の生命を窒息させ、専横な都市計画の強制ぶりを増長させているのです。この“精神的ひな型”は、いたるところに適用され、生きているものの自由な働きを、このひな型の構造に従わせています。
8  こうして、賛成と反対、善と悪、黒と白、さらには“右”と“左”というように物事を対照のものに分けて、ばかげた択一をせまるこの“精神のひな型”は、たぶん、最も危険なものになっています。このひな型は、たんに、はっきりした色合いの差異を無視してしまうばかりでなく、ヘラクレイトスからステファン・ルパスコといった現代の哲学者にいたる最も鋭い精神をとらえてきた矛盾の論理をおおいかくします。
 ヘーゲルの図式によるテーゼとアンチ・テーゼの対立からジン・テーゼへ導かれる、この進展がもたらす豊かさは、切り捨てられるべきではありません。ただひとつ動かないものは、死であり、死は、相対立する極のあいだに生きているすべての物の緊張の必要性と、その豊かさについては盲目なままです。
9  クリストファー・アレクサンダーが“樹の思考”と呼び、人びとから“抱擁による思考”と評される、もう一つ別の“精神のひな型”は対称形に由来したものです。かれは、初めは、定式に頼ります。つまり“二者択一”であり、いわば強制的につぎつぎと細分化と選択をつづけていって、生命がそこから生ずる交換と相互作用をもはや考慮せずに、問題を人工的な一分枝に要約してしまうやり方です。アレクサンダーは、都市計画のような一つの分野において、都市内の地域を商業、工業、レジャー、住居等といった、別々の、はっきり限定された区域に分けることによって、人間の行動の不断の相互干渉を無視し、あるいは無視しようとする“合理的”方法の適用によってもたらされた荒廃ぶりを指摘しました。
10  人間の行動の不断の相互干渉とは、たとえば、働くこと自体の中にではないにしても、すぐ近くで息抜きができるということになります。学校で“レクリエーション科”が生まれたのは、この経験からなのです。
 そして、アレクサンダーは、人工的な“明晰さ”を追求する、体系化の精神によって切断された相互間の交流を、“格子”の思考様式が、その交差によって、いかに再現するかを示してみせました。ロジェ・カイヨワ(フランスの作家・批評家)は“斜めの思考”を提唱して、哲学の分野で、これと同様の試みをしています。
11  私たちを導く精神機能の有能さと安全さを捨てて理性の働きのみせかけの便利さの魅力を取ろうとするこの方法の偽りの威光を消滅させるには、たぶん、学問全般に心理学を適用しなければならないでしょう。個人を時間をかけて開花させるのでなく、むしろ機械化しようとするマス教育によってはこの頭脳の型取りは、もたらされないでしょう。つまりは、十九世紀の物理学の勝利によって教え込まれた物質主義の土台からは生じません。物理学は、生命のない物質とその法則の一定不変性にその対象を限定しており、生きているもの、とくに心をもっているものの特質が個別性の尊重と発展にあることを理解したり、これを認めるのには不適当なのです。
12  なぜなら、この深刻な病は、危機にまで強まっています。そのため、新しい抑圧から生まれた新しい術語が広まるにいたったのです。“フラストレーション”については、前にふれたとおりですが、それに加えて、今日では、すっかりなじみになった“疎外”があげられなければなりません。
 これらの専門語は、それなりに存在意義をもっており、まぎれもない一つの苦悩に対応しています。現代の人間は、自分の可能性のあるものや本然の欲求がもはや発動できず満たされないことを感じたとき“抑圧”されているというのと同じように、自分の固有の本性が曲げられていると感じたとき“疎外”されているといいます。
13  そのときの彼の反応は、狂乱した病人が、もがくことによって往々にして病状を悪化させるのと同様に盲目的なものです。これもまた専門用語ですが“葛藤”は、多くの場合、外見は革新的でありながら、じつは私たちを窒息させている教条主義の残滓でしかない簡易主義的な観念をよりどころにして発動します。忍耐づよく客観的に、ゆっくり解明の仕事を進めていくことによって、現代が自縄自縛におちいっている偽りの状況に対し、本物の意識を得ることができるでしょう。
14  断定的で簡単なドグマは、それだけ簡単に支持者を集めますが、これとは反対に、それらをもあえて包含する全体を討議する中で、心理学的現実に対する直接経験を取り戻すことが必要でしょう。理念というものに対しては、それが過去から残されたものであれ、現在の流行によって押しつけられたものであれ、その力を正しく認識することに専心しなければならないでしょう。なぜなら、生きている現実は、理論の中に硬直してしまう以前は、初めは意識できませんが、やがては感受できる感情的な力です。そして、そこに真理があるのです。
15  やがてあとで私は、レジャーの問題、私たちが自由にできる体調回復の手段という問題に、さらに戻っていきたいと思います。しかしながら、とりあえず、より重要な梃子となるものを二つ示すことができます。その一つは、若い人びとのための教育であり、もう一つは、あらゆる人びとのための芸術です。
 子供はよく検討された教育(私は、そのためになされている努力を無視するものではありません)によって育てられ、直接的な経験と感覚器官を通じての教育から始めて、事物、対象、現実に密着した概念を学ばせることが必要でしょう。こうした基盤のうえに立って、子供は一般的な概念にまで進むことができるでしょう。ただし、その一般的概念が過去の経験の中で得られたものであれば、のことですが……。間違っても、多くの知識人たちが今日やっているように、抽象的概念から始めてはなりません。
16  こうした抽象的概念が、やがて、そのとき、感じとられたものを強化・調整し、あるいはまた、記憶しやすくするものとして、そこに作用するであろうことは当然です。この第二の段階をなおざりにすることは、これもまた重大な誤りでしょう。しかし、この第二の段階は、経験と生きた感情の豊かな基盤にたったときにのみ、到達されます。ですから、職人階級というこの“手による文化”を守る必要があるのです。
 同様に、芸術の感覚を発達させることが大切であり、美術館の役割はその意味で、ますます大きくなります。今日、芸術がかくも盛んであるのは、この心の交流、芸術作品という心の流出の中に、技術の世界がもたらしえないものを汲もうという本能的な欲求を人間が感じているからです。技術は、私たちを世界と共生させるのでなく、世界を支配させようとするのです。
17  西暦二〇〇〇年の人間について推測をして、そのために、現代のわれわれがぶつかっている限界の中に閉じ込めないためには、二〇〇〇年の人間が担うべき仕事への、広い視野をもたせ、人間としての完全な本性を確立し使うよう学ばせることが必要です。ヒューマニズムということばが、今日ではどんなに価値を失っているにしても、私は新しいヒューマニズムが無条件に確立されることを望みます。
 ヒューマニズムなくして人類はありえません。
 西暦二〇〇〇年の人間は、立ち向かうべき問題の困難さに刺激され、そのあふれる意識に高められて、宗教改革やルネサンスの人間たりうるでしょう。さもなければ、その危険な衝撃を受け始めている、偽りの進歩の幻想にまどわされて、まさしく自分の破滅を恐れなければならないでしょう。

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