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日蓮大聖人・池田大作

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時間における混乱  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  時間における混乱
 ユイグ 空間的分野に関連して私たちが必要とすることは前述のとおりですが、それは時間的分野においても同様です。私たちは空間の連続性から自らを切り離せないように、時間の連続性からも切り離すことはできません。
 時間は私たちを“現在”の中におきます。“現在”は過去と未来のあいだの均衡点であり、ちょうど軸の上のカーソルのように、その流れにそって滑っていくのです。現在が未来への憧憬を必要とし、それが生の躍動に特有のものであるとするなら、過去との連帯、人類がそこで示してきた絶えまない努力との連帯を要求するのもまた当然です。私たちは、自然に属していることを感じたい欲求をもっているのと同じくらい痛切に、時間の流れに所属していることの実感に対する欲求をもっています。
 さんざん戯画化され、衒学趣味に変えられたために今日では誤解されていますが、人間がこの時間の流れとの触れ合いを得ることができるのは、過去によってであり、文化によってなのです。そこに、歴史の証言である記念建造物や、過去が私たちに伝えている作品としての歴史的都市のもつ重要性があるのです。
2  私たちが誇らかに“近代主義”と呼んでいるものによって、もっぱら現在に忙殺されていることは、よどんでいることのなによりの証拠です。この“近代主義”の名のもとに多くの若者(おとなたちも加わって)が昔からのものを破壊したがっています。しかし、鋭い歴史家なら、この理念がすでに、老朽化を糾弾されたのとそっくりの決まり文句になり、教条的になり、要するに、さんざん引用され説明しつくされた“公教要理”になっているという事実から、すでに動脈硬化におちいっていることを見破るでしょう。
 現在への盲目的な自信は、人びとが用心している過去の伝統よりも、ときには、もっと人を麻痺させます。それは過去のものに取って代わるだけで、同じく教条的で権威主義的になります。
 しかし、未来があります。そして、未来は、本来、過去にさからいません。空間を通じてのそれと同じように、時間を通じている人間の“連続性”がそこにあるのです。私たちの前にあるものと同じくらい、あとにあるものも大事です。そして、私たちは空間の中でと同様、時間の中でも完全な広がりをもって生きなければなりません。
3  それでは、このようにわれわれの過去を勝手気ままに切り落とすことが今日では推奨さえされ、そのあげくが教育で歴史の授業が絶えず減らされるにいたっていることは、なにを意味するのでしょうか。
 だからこそ、また、未来を不当に予断しないようにすることが重要なのです。私は、未来学が主導権をもつことに理論的な意味では賛成ですが、それが度を過ぎることには警戒心をもっています。なぜなら、未来学は、往々にして、未来を現在に強制的に服従させる傾向があるからです。ところが、人間は自由であるべきであり、その人間の最大の自由こそ未来なのです。たしかに、私たちは危険を避けるために未来を予想し、未来に対する自らの義務を果たさねばなりません。しかし、未来のもっている自由は尊重すべきです。なぜなら、それが人間の自由を尊重することになるからです。
 はっきりいって、未来は私たちが存続するためにあるのでもなければ、私たちが自分たちについてもっている理念を継続するためにつくられたものでもありません。未来は私たちを補ってくれるものであり、ときには矯正してくれるでしょう。したがって、多かれ少なかれ一面的で気ままな私たちのドグマを未来に押しつけることはしないようにしましょう。私たちが未来を“計画化”して教え込もうとするよりも、未来がなにを私たちに教えてくれるかに、より以上の注意を払うようにしましょう。

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