Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

空間における混乱  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  生命は、尺度に合わないものをつねに除去してきました。このことは、歴史以前の昔からみられるところで、ディノサウルス(中生代の恐竜)が姿を消したのは、身体の大きさと神経衝動の速さとの釣り合いがとれなくなったため当然のことだったのです。また、あまりにもひしめきあっている生物集団は攻撃性をもつようになります。このことはネズミの実験で、よく知られています。人間の歴史のうえにも、同じような例があります。たとえば、イースター島がそれで、この太平洋の孤島は過剰な人口を擁していたのです。歴史記述がないので、なにが起こったかはわかりませんが、ともかく、その住民が、突然、なにかの破局によって、ほんのわずかの一グループに激減したのです。そこに、生命の平衡を正す自動的な働きがあって、恐るべき力をもって作用したのです。この力は、私たちの思考や理性よりつねに優位を占めています。
3  “大衆社会”が個としての人間を押しつぶさないためには、これら二つの間の転移を大事にすることが不可欠です。人びとが過去のことを考慮しなくなったときに、過去についての概念をすべて破壊することは簡単です。家族が存在し、その家族をこえて第二の輪の中に種々の人間の集団があり、つぎに都市、つぎに国があるのは、人間が微小な個人と地球的な集合体とのあいだの媒介をするものを必要とするからなのです。
 こうした生物学的な段階に対応するものが、都市計画の中でも見いだされなければなりません。都市の中の地区という概念がその一つです。ノイローゼと自殺で知られていた都市の低所得者住宅のあるブロックで行われた調査によると、その住民を私的な発議による小グループに分け、それをグループ推進者によって結合するというやり方を勧めたところ、ノイローゼや自殺の脅威を追放するまでになったということです。人間を不釣り合いの集団にすることがいかに間違っており、その責任はどこにあるかがこうして証明されているのです。
4  しかし、一つのグループが均衡の感覚と統一性をもつためには、広さを制限するだけでは不十分です。それと同時に、中心がなくてはなりません。古い都市は一つの中心を核にして建設され、この中心ははっきりわかるようにされていました。
 私たちは、象徴への欲求をもっています。そうした古い都市が存続している国では、君主制はその存在意味をあらわします。その都市は、国民的統合の象徴です。同じように、都市においては、塔や教会の鐘楼が、市民にとって一つの集団に属していることを漠然と意識するうえでの目印になっています。それらは象徴的なものでしかないにしても、市民は、その点の周りに吸引されているからこそ、この集団が組織されていることを意識するのです。時計の音は、その見渡せるかぎりの地域に、一日の時にリズムをつけるとともに、一つの実在でもあった一種の声を与えていたのです。
5  同時に、人間は、生きた細胞の法則に従う必要があり、どちらかといえば、人間とはこの生きた細胞を発展させたものでしかないのです。生きた細胞は、周知のように、他から孤立し、一つの中心をもち、前線をもっている空間の一部分です。しかし、前にも述べましたように、その前線の境界は、二つの意味で浸透性がなければなりません。それは外部への溢出であり、その境界の外へ廃棄物を放出し、周囲の世界との交渉を容易にしなければなりませんが、また、別の意味では、周囲の世界から供給されるものを受け入れなければなりません。
 この細胞の法則は、そのまま私たちの生の法則でもあります。これが今日“人間の気泡”ということがいわれる理由なのです。人間は自分の周りに一つの霊気、独自の領域を必要とします。このことは、動物心理学でも裏づけられているところです。イヌやネコは自分の縄張りとなる地域を決め、その境界を自然の方法できちんと濡らし、他の仲間の嗅覚にわかるようにします。仲間は嗅覚によってこの警告を知ると、少なくとも承認なしではそれを越えてはならないのです。
6  つぎに、この第一の地域の周りに、第二の地域があります。それは、他の仲間も近づくことのできる混合地域ですが、そこでは種々の礼儀作法を重んずることが前提になります。
 さらにそれを越えた先は、冒険の未知の世界が広がっているわけです。
 動物の多くについて確認されている、この段階的な空間の区分けは、人間においても通ずるものがあります。住居の中では、私たちは家庭という広がりをもった個人的自治を十分に享受できることを求めます。私たちはそこに外部の世界が、たとえ聴覚の形であっても闖入してくるのを禁じます。
 その向こうに、私たちは、人と行き来する交際地帯を設けることを望みます。これは“近所”といわれるもので、そこで人びとは交わり、知り合いになり、一つの集団を形成します。これは、動物の場合の第二地帯にあたります。それを越えると、社会とその集合的大衆のみの世界が始まるのです。人間は増大する匿名性の中に入ることによって、“よそよそしさ”の中に自分を守りながら同時に他の人びとと交流できることを望むのです。
 しかし、この交際の原理は人間と関わる交際だけではありません。それは自然との関わりについても維持されなければなりません。なぜなら、私たちは個人への収縮を越えて社会に参画する欲求をもっているだけでなく、あのロマン派が覚知し発展させたように“万物”に参画している実感をもちたいという欲求もあるからです。
7  ところで、ロマン主義者たちは、創造者としては最も極端な個人主義者でしたが、自然の調整の働きによって、彼らは自然と融合し自然の中に沈潜することを夢見ていたのです。これは、孤立化と交流との弁証法がそこに働いているということ、そして、それなくしては人間は正常に自己を形成できないということの一つの新しい証明です。
 同じように、私たちは精神生活において、世界を表現し、それについての近づきやすく消化しやすい表現(表象)を保持したいという欲求とともに、感覚能力によって、それと一種の一致状態になり、それによって宇宙生命に参画している感覚を生命に得たいという欲求をもっています。私たちは、これら二つの極のあいだに均衡を保っていかなければなりません。
 他人やさまざまな“存在”との触れ合い、自然やさまざまな“事物”との触れ合い、一体感の源泉となるものや“宇宙的なもの”との触れ合い、これらは芸術的能力のおかげであるとともに宗教的精神によって得られるものであり、これらこそ、独立を熱望する自我と、至高の開花である全的なものとのあいだに必要な循環を各人の内に築くのに不可欠の梯子段なのです。

1
2