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日蓮大聖人・池田大作

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進歩の停止  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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2  とくに原子力エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまいますから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用ずみの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、原子力エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。
 私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに原子力エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだといいたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、原子力エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、かならず致命的な害を及ぼします。
 その意味で、原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべきであると考えます。そして、もし、絶対的に、永久的に安全な、廃棄物の処理法が発見されれば、そのとき初めて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、いったん中止しても、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。
3  もとより具体的にどうすればよいかという案は、私は科学の専門家ではありませんから、言うことはできません。しかし、あなたも言われているように、自然との協力関係を根底にした行き方にならざるをえないのではないかという予感がします。太陽のエネルギー、また、この地球上を循環している水、大気の運動エネルギー、また引力のもつ巨大なエネルギー等は、そうした希望の実現の糸口を提供してくれるのではないでしょうか。たんに初歩的な水車や風車というのでなく、もっと進んだ科学の英知をもってすれば、かならずや効率の高い、しかも応用範囲も広いエネルギー資源として開発できるのではないかと期待します。
 それに加えて、事実と数字にもとづく予測というものは、教条的で必然的に理論的な性格をもっていることも考慮に入れる必要があります。科学的楽観主義に過度の信頼をおき、そのことが予測の中に入れられなかったならば、予期しないことが起こる可能性はつねにあるのです。過度の悲観主義は、その反動として起こる過度の楽観主義と同じ欠陥を生ずるでしょう。未来はけっして正確に割り出せるものではありません。
 あなたが要約して示された危険は過小評価すべきではなく、不慮の事故を考慮に入れておくことが正しいでしょう。しかし、重大で、いずれにしても考慮に急を要する危険については、十分に考慮すべきであるという点で、私たちは一致をみたわけです。
4  ユイグ 事実、科学への信頼を弁護する種々の声があがっております。たとえば、アルフレッド・ソービ(コレージュ・ド・フランス教授。人口統計学)は、自然の法則は釣り合いを保つように働いており、過度のものにはすべてその反対の力を働かせて平衡に戻す傾向があると指摘しています。
 ベルギーのルーバン大学教授のジョゼフ・バジールも同様に、生態学においては、種々の要因が総計においては相対的恒常性を保つように、相反する仕方で働いていると強調していました。これは、より一般的にいうと、サイバネティックス(通信、自動制御などの工学的問題から脳の生理作用までを統一的に処理する理論体系)において“フィード・バック”と呼ばれるものです。また「反動」と言い換えてもよいでしょう。
 しかし、この新しい観念は、とりわけ生命の運動の中で確証されるもので、生物学や心理学に関係があります。現代社会が合理的唯物主義一本槍の考え方のために麻痺し盲目的に破滅の淵に進んでいる中で、このフィード・バックの観念はまさしく中和剤となっているということも知るべきです。
5  一つの定まった原因は、同様に確定的な一つの結果を厳密に生み出すという一面的で教条的な信念は、それが経験的に証明されたものであっても、現実のもっている弾力性ともいうべきものを考慮に入れないことになります。この弾力性こそ、現実のものが自らに対して加えられた過度の作用に対する補整能力として備えているものなのです。現実の規範を乱す行き過ぎは、そのままどんどん進んで、取り返しのつかないことになるのでなく、それを中和しようとする一種の応答を奇妙な仕方で生じさせます。
 そうした例として知られている動物の世界の現象があります。それは、ある定まった面積の土地で数が増えつづけてある限度を超えた場合、破壊的な行動があらわれて(たとえば獣の互い同士の攻撃性)、数が正常な域に戻るよう減少をもたらすのです。この事実は、ネズミによって実験的に確かめられています。
 同様に、人類の過剰人口も伝染病とか戦争をひきおこしてそれを中和させるのではないかと考えられてきました。しかし、これは、そんなに確かなことでしょうか?
6  それについて科学的に考えることは、私が合理的物質主義と呼んでいる精神構造から私たちを解放する精神の変革を前提として要します。それはまさに私たちが必要としているものであります。原因と結果の関係の恒常性を厳密に計算する数学的決定論を盲目的に信ずるということはやめるべきでしょう。宗教が“摂理”と呼んできたものの速度、進み方を取る一種の矯正力を、自然の中に認めるべきです。
 事実、これがたぶん、精神的変革への第一歩でしょう。そこからのみ救いが得られるのです。しかし、私たちは危機の心理的な面を調べてからでなければ、それを当然のこととして考慮に入れることはできないでしょう。

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