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日蓮大聖人・池田大作

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汚染  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
2  何千年にわたって、人間の力と動物の力、ついで水と風の力で十分であったのが、しだいに、物質の変質によって得られるエネルギーに取って代わられるようになりました。まず火が利用され、そして蒸気がつくられました。この時から、巨大工業が可能となったのです。しかし、燃焼の結果生じたカスが大気中や水の中に吐き出され、さらに科学の進歩につれて、化学反応で生じたカスは、恐るべき拡散を示したのです。
 現在では、エネルギー消費量は、もしそうでなければ経済を阻害するため、国民総生産の四パーセントに達せざるをえなくなっています。しかし、その結果は、なんと惨憺たるものでしょう!大気は亜硫酸ガス、一酸化炭素、不燃性の炭化水素で汚されています。また大気汚染物質であるアトラセン、ピレン、ベンツピレン等は、ハツカネズミを使って実験したところ、発癌性を示しています。工場は、あまりにもしばしば、水をも汚染しています。その水は化学物質の残滓を運び、拡散させます。また、ますます広く利用される洗剤も、水によって運ばれ拡散しています。魚が姿を消したことは、この破壊的な力を物語ってあまりあります。
3  一トンの石炭が燃やされると、大気中に約二十キロの無水亜硫酸を放出します。フランスの空には、年々、無水亜硫酸が三百五十万トン以上も吐き出されています。そして、これが大気中に浮遊している水に触れると、変化して硫酸になります。サン・ドニとブローニュの工場群だけで、その吐き出す量は三万トンにもなるのです。しかも、そのうえ、暖房用に使われている燃料油は、工業用のそれと比肩する量になります。この結末は、人間の身体組織、とくに肺にとって有害であるとともに、種々の記念建造物や彫刻にとっても有害です。それらをつくっている石はしだいに崩れています。ギリシャのパルテノン神殿やフランスの聖堂、ベルサイユの彫像、ベニスの建築物などは、その証明役です。破壊作用は速く、広場に置かれている彫像などは、今から半世紀もたつと、見分けのつかないものになっているでしょう。
4  かつて出された調査結果によると、ミラノのような一つの都市で、年に十万トンの硫酸の蒸気を空から浴びています。これは、運ぶのに約三千台のタンク車を必要とする量です。計算によると、パリに降り注ぐ灰は年に九万トン、塵は一万五千トン等々です。また、ニューヨークでは、空気中に、一平方キロメートルあたり四十トンの有害廃棄物がふくまれているといわれます。ピッツバーグの工業地帯では、改善の手が打たれる以前、事実、一九四四年には一平方キロメートルあたり四百トンという記録的数値を示したのです。
 この問題は、それが直接にもたらす化学的作用に加えて、この大気汚染が、光合成という生命にとって必須の働きに不可欠の、波長の短い光線をさえぎる幕になっていることをあげる必要があります。二十年前すでに、パリの日射量は一九〇〇年にくらべて、四分の一もの減少を示していたのです。
5  たしかに、救済手段は可能です。工場は濾過装置を設置できるはずですし、また、すべきでしょう。別のやり方のものとして、汚れた水をボイラーの中で気化することが考案されました。強く燃焼すると、生成物の一部は消滅します。しかし、そのためには高いカネがかかります。ですから、国際的な取り決めをすることが必要でしょう。なぜなら、どこかの国がそれを法律で定めた場合、もし外国の競争者も同様の取り決めで足かせをされていなければ、原価のうえで一方的にハンディキャップを課せられることになるからです。経済が政府にとって切り離せない主要な関心事であるとき、このような犠牲を経済がわが身に課すということは稀です。
6  つぎに、いまや核分裂から核融合へと、原子の中に新しいエネルギー源を求めるべきだといわれていますが、これについてはどうでしょうか。
 それに対して危険性を感情的に指摘している世論が危険を誇張している面はあるにしても、大丈夫だという専門家たちの議論も少し自己満足的のようにみえます。予防の確実さについての技術者の信頼は、ときおり裏切られるものです。一九七八年、イギリスのある工場で生じた放射線の“漏洩”は何週間にもわたって気づかれないまま、働いている人びとの大部分の健康を害したのでした。
 事実、ルプランス=ランゲ教授(コレージュ・ド・フランスの物理学教授)が一九七三年六月、テレビ番組で指摘していたように事物の自然の働きの中では、視覚、聴覚、嗅覚、あるいは味覚等の感覚が私たちに急を知らせるようになっており、それによって、私たちは危険を見破ることができます。核の危険の場合は、私たちの器官が反応するのは損傷を受けたあとで、そのときは、もう遅いのです。
7  ただ、人工の探知機だけが、それもたまたま運よく使ったときに、防御の役をしてくれることがあります。「まったく偶発事故です」という言い訳がされますが、私たちが恐れているのは、まさにその“事故”なのです。しかも、それは例外的に多く起こることもありえます。広島の原爆は、今日では小さな蒼白い“おもちゃの爆弾”にすぎません(ドゴール将軍がつくらせたのはさんざんバカにされたものですが、それでも、すでに広島のをはるかにしのいでいました)が、忘れてはならない警告です。核兵器は人間の上にのしかかっている新しい脅威であり、人びとは、しばしば恐怖をもってそれを意識します。しかし、なんというジレンマでしょう。今から西暦二〇〇〇年までには、フランスだけで、二百の原子力発電所ができ、わが国の社会が正常に機能していくために不可欠なものになろうとみなされています。
8  もし、技術的な事故を確実に防げる手がなく、悪くすると破滅をもたらすかもしれないとするなら、現代社会は、この廃棄物の恐るべくも持続的な作用に対して、少なくとも、どのように用心すればよいでしょうか。たしかに、計画がないわけではありません。地球内部に核爆発でつくったガラス状のポケットの中に捨てるという案もありますし、それがダメなら太陽の中とか、あるいは恒星空間へ発射するというのもあります。
 しかし、そんなことが、いつ実現できるようになるでしょう。現在のところは、この恐ろしく有害な物質をコンクリート詰めにして、毎年何千トンも海中に沈めているのです。この容器が、どれくらいの期間、潮流に耐えられるでしょう。そしてそれが破損したときはどうなるでしょうか?
 注目すべき実例が一つあります。一九七〇年八月、アメリカで、危険な神経性ガスを廃棄しようとして、一万二千五百発がフロリダ沖、五千メートルの海底に沈められました。それが、たちまち腐蝕し破損したのです……。セメントなら、もっと長持ちするでしょうが、それにしても永久的なものではないでしょう。
 これらは、人間が、実利的な発展をもたらしてくれる“進歩”を、坂道を滑り落ちるように、そのなるがままにしておくとき、わが身をさらすことになる重大な危険の、いくつかの例にすぎません。しかも、その滑走は、手の施しようのない墜落になるかもしれないのです。

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